来賓用の出入り口から入り、ひと目のつかない道を選んでカオ兄が学生会室まで案内してくれる、そういう手筈になっていた。いったいどこから手に入れたのか、遠見さんはディのマネージャーさんの連絡先を入手して、細かなやりとりをしてくれたらしい。 革靴で歩く音がこつこつこつ、と響いて、扉の前で止まる。 はじめに姿を見せたのは案内役のカオ兄で、その後ろからもうひとり。 ぱっと場が華やぐ金色の髪を目にした途端、オレの涙腺は呆気なく壊れた。 「ディ。ディ…、ごめんな、オレがあんなことを言い出さなかったら、約束しなかったら、って、ずっと、…」 「いいんだよ、レン。おあいこだって言ったよね。もう、いいんだよ。だって今ここで再会できたのだもの」 「ん。うん、ディ、…ディ、ありがとう…」 立ち竦んでずびずび鼻を啜りながら号泣しているオレに、ディは少し困ったように笑んで、丁寧に涙を拭ってくれた。汚い泣き方でごめん。でも止まらないんだよ。 ディの手つきはトオ兄とかカオ兄とかにそっくりで、オレは気恥ずかしさのあまり唇を尖らせてディを見上げた。 「よせよ、オレ、昔みたいな泣き虫じゃないんだ」 威張って言ってみたけど、この顔じゃ何の役にも立たない。 蓮くんはまったく、とか言いながらカオ兄がタオルを渡してくれたので、それでごしごし拭って、ぎゅっと抑え、どうにか取り繕う。それからオレは改めて目の前の青年を見上げることになった。 映像や写真で見るよりもディはすらりとしていて、しなやかという言葉がぴったりくる。 眩いばかりの輝きを放つ金色の髪、深い海のような蒼い瞳。 天使像もかくやといった感じの整った顔と、見ているだけで気持ちが鎮まってくるような高貴な眼差しは、すぐ傍に立っているのにどこか遠くから見ているような、現実離れしたものを感じさせた。 しばらくぼうっと見惚れてから、オレは我に返る。 ディの身長はオレよりも頭ひとつ分高かった。 「うわー。背高っ。何食べたらこんなに伸びるんだろう?」 今泣いた烏がなんとやらで、つい呟いたオレに苦笑いとため息と吹き出し笑いがそろって向けられた。オレはきっと後ろを振り返る。 「広也っ、吹き出すことないだろっ」 「いやあ、ごめんごめん」 奈々原はちっとも反省していない顔でまだ口もとを押さえている。まったく。 「でも、蓮はかわいいもの。仕方ないよ」 「そうだな」 鈴島くんと吉岡くんまで、深々と頷いてくれた。ええ、オレ孤立無援ですか。 …でも、かわいいと奈々原って笑うのか? 「素晴らしい誤解をしているようだが、訂正しようか」 「いやあ、ほんと可愛いなぁ〜」 遠見さんと一ノ瀬さんまで。オレただ感想言っただけじゃないか。 「あのね。奈々原くんは世儀くんのギャップに受けているんだよ。がんばってクールに見せようとしているのに、世儀くんて何もかも可愛いから」 「………ええっと、柚木先輩…」 にこにこと鋭く訂正が。あ。先輩だけど先輩じゃなかった。 遠見さんの言葉を引き継いで告げてくれた内容に、オレは大いにもの申したい。 「違いました、柚木さん。あの。それはフォローですか? それともオレを更に撃沈させようと…。ああっ、そういえばオレ、議事録起こし途中なんですっ。ごめんなさいっ」 「蓮くん、蓮くん。その辺でやめておこうね。伯が声なく笑っていらっしゃるよ」 カオ兄は少し苦笑いでオレの頭を撫でる。 伯ってディのこと? そう思って振り返ると、オレの後ろでディが肩を震わせていて、オレは驚いた。 「ディ、ディ、どうしたんだ? 何か悲しいのか?」 おろおろとディの顔を覗き込む。 タオル使うかな。オレ今使ったばかりなんだけど、良かったら…。 「あはははははは」 「うひゃっ」 突然ディが声を上げて笑い出し、オレはぎょっと飛び上がった。え、なに。何が。 それはもう素晴らしいほどの良く通る声で。盛大に笑い、ディはお腹を抱えている。そ、そ、そういえばディって笑い上戸だった、ような。 「レン。変わらないね。すごく嬉しい。今、わたしはとても幸せだよ」 満面の笑みをうかべたディがオレに覆い被さるようにして、大きく広げた腕の中にオレをすっぽり包んだ。ほんの少し甘やかな香水の香りが広がる。 ああもう。ディ、まだ肩を震わせて。 蒼い瞳の端に涙まで浮かべているけど。…ディ。笑っているんだよな? その涙が少し寂しげに見えて、オレはちょっと心配になった。笑いすぎると悲しくなる時ってあるもんな。それだと…いいんだけど。 しばらくそうしていると、ディも落ち着いたらしい。 髪の上にそっと口づけを落としたディが離れると、そこには映像で見るのと変わらない、整った容貌に落ち着いた物腰の青年がいた。 「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。わたくしはフェルディナン・ド・ルクシオーラと申します。彼、セギ・レンとは幼い頃に知り合った友人同士で、ようやく再会できた喜びに、恥ずかしながら我を忘れてしまいました。学生会の皆さまにはわたくしの勝手な思いつきにも関わらず、このような場を設けていただけましたことに深く御礼申し上げます」 驚いたことに、ディは日本語ですらすらと話した。 ちなみに今までオレと話していたのはフランス語。 そんなディにすかさず応じたのは遠見さんだった。ここでの代表はカオ兄ってことになるんだろうけど、カオ兄は迎えに出ているから、挨拶は済んでいる。 「こちらこそ、お会いできて光栄です。伯のご高名はかねがね承っております。わたしは遠見征一郎。音浜学院高等部学生会副会長を務めさせていただいております。伯にはTOMの愚息と申し上げた方が通りがよいかも知れません」 「そうなのですね。たいへん失礼いたしました。お父上とは先日、パーティでご一緒させていただいたのですよ。わたくしは父を早くに亡くしましたから、このような方が父であったらなと思ったものです。素晴らしい方ですね」 「恐れ入ります。伯にそうおっしゃっていただけるとは、父の喜ぶ顔が見えるようです」 遠見さんは笑顔でディと握手を交わす。 華やかなディの笑みに対し、全開の笑み、というよりは礼節を踏まえて控えめにという感じだけど、オレはぽかんと遠見さんを見てしまった。冷気も怒気も放っていない遠見さんの笑顔って、すごく理知的に見える。いや、いつもだって遠見さんはすごく頭が切れる人って感じだけど、もっと穏やかに見えるのだ。 他の学生会のみんなも順に挨拶を済ませていく。 学生会のみんなは音楽家のディのことだけではなく、社長業の方も知っているみたいだった。 ルクシオーラ伯爵家は由緒正しい名門貴族であり、国の産業に深く携わってきた家でもある。爵位なんてあっても形だけ、イギリスほどこだわらないとか色々だけど、ルクシオーラ伯爵家といえば、経済界ではかなり名が知れていた。 とは、後で聞いた奈々原の話なんだけど。 テレビじゃそんなこと言わないし、マスメディアに取り上げられるディは、フェルメって名前で、ルクシオーラのルの字もない。これはディのおじいさまがヴァイオリニストとしてデビューする時に本名を名乗ることを認めなかったためで、今では公然の秘密みたいなものなんだけど、でも秘密は秘密だから、知らない人も多い。 みんなすごいなあ。 もしかしたら、幼い頃に一緒に遊んだぐらいのオレより余程ディのことを知っているんじゃないだろうか。ぜひあとでみんなからディのことを教えてもらわなければ。 挨拶を終えてから、みんなでソファに座った。 オレはさっそく用意していたお茶請けを用意しにキッチンに入る。柚木さんと鈴島くんが手伝ってくれたので、すぐに支度が調った。 ちなみに、カオ兄も来てくれようとしたけど稀に発露する独特の感性を避けるため遠慮してもらい、一ノ瀬さんは手伝ってくれる前につまみ食いとセクハラ大王なので、キッチン出入り禁止で。遠見さんと吉岡くんはその一ノ瀬さんから目が離せない感じだったため、奈々原がカオ兄と一緒にディの接待を請け負ってくれる形だ。 「ありがとう、レン」 カップをそっとディの前に出すと、微笑みを向けられる。 こういうときのお礼は形式的なものだと分かっているんだけど、妙に気恥ずかしい。それはなんだか身内相手に改まった態度をするときと似ている。 学生会の面々は珈琲派なんだけど、ディは紅茶好きという記憶がオレにあって、柚木さんのアドバイスで今回は紅茶だけ。お客さまの嗜好を優先である。 ふたつ揃えることは出来るけど、仁義なき香りの戦いが勃発するもんな。 柚木さんおすすめのアールグレイ。ベルガモットの香りがすごく爽やかで心地いい。 でも、オレだけミルクティにしてもらった。ちょっと泣きすぎたみたいで、胃が縮んでいる感じ。少しは胃に優しくなるかなと、ミルクを入れてもらったのだ。 「よければ、これもどうぞ。さっきオレが作ったんだ」 「すごいね。レンが?」 「うん。あ、ちゃんと火が通っているから安心して」 公演も控えている社長ヴァイオリニストに生ものはちょっとな。 ディは気にしないかもしれないけどオレがどきどきするので、控えさせてもらった。 卵色の生地に平たい円錐形。UFOのような、山ような形をした物体。ディは手もとのお皿に置かれたそれをしげしげ眺めている。たぶん見たことがないものだと思われた。 「甘食っていうんだ。ケーキのスポンジだけ、というか、…ええと、庶民に伝わる甘いパンだよ」 「そう。アマショクというんだね。はじめて見たよ」 できるだけパサつかないように、外はさっくり中はふんわり。自慢の品だ。 ディの味覚に合うか、というとちょっと心配だし、紅茶に甘食って。黄金の組み合わせは牛乳に甘食じゃないの。な気もするけど、そこはそれ。甘さに関してなら、紅茶にお砂糖入れなければいいだけだしね。 お腹にもたまるし、空腹を紛らわすにはけっこう良いと思ったんだ。手で摘んで食べられるし。余ったら適当に包んで持って帰れるし、今回は一応、フォークもそえてあるけど。 ディは優雅な手つきで甘食にフォークを入れた。 口に運んで、小さな黄色のひとかけを食べたディは頬をふわりとゆるめる。 「とても美味しいよ、レン」 お褒めの言葉と一緒にオレの頬に軽くキスをしてくれたディは甘食を気に入ってくれたらしい。良かった。ディってわりと甘党だと思ったんだよね。昔の記憶だけど、幸せそうな顔でマドレーヌとかフィナンシェとか食べてたし。あれってけっこう甘めだった。 それからしばらくオレを含めた学生会の面々はディを囲んで盛り上がった。 時々オレには難しくてついていけない話も混ざったけど。 政治がどうとか、株価が云々とか。みんなついていけちゃうんだもんな。でもオレがぼうっとすると、すかさず誰かしら話を振り直してくれた。気を遣わせてごめん。次までにはもう少しちゃんと分かるようにしておかないと。 その上、オレはお腹が膨れたら眠気が来てしまい、隣に座ったカオ兄にもたれかかったまま少しうとうととしてしまったらしい。 誰か起こしてくれればよいものを、みんな目配せしてそっと見てみないふりをしたものだから、はっきり言って寝た。意識途切れた。うう、穴があった入りたい…。 オレはそんな感じだったけど、でもすごく楽しい時間だった。眠くなったって楽しいものは楽しい。そう実感できるひとときだった。 |