「今日は思いがけずとても楽しい時を過ごせました。ありがとうございます。よろしければ、これを受け取っていただけますでしょうか。今度わたくしが出演する演奏会のチケットなのですが」 「そんな、よろしいのですか?」 「ええ、もちろん。ご都合がよろしければ、みなさんでいらしてくださると嬉しいです」 ディはさりげなくカオ兄に小さな包みを渡す。 この場にいる人数全員分のチケットだった。 オレが1枚で、なんて考えなしなこと言っちゃったのに、さすがディだ。 たぶんこれは学生会のみんなに対するディの感謝の気持ちであり、心遣いだと思う。ディは学生会のみんなとすごく打ち解けていたし、みんなもすごく楽しそうだった。だからカオ兄も恐縮してはいたけど、ありがたく包みを受け取っている。 「レン」 別れの挨拶をしているみんなを見ていると、妙な寂しさが募ってしまって。 これが今生の別れってわけじゃなし、演奏会の日にはたとえ舞台と客席という形であっても必ずまた会えるって思うんだけど、でも、せっかく会えたのにもう…というのがとても悲しくて。 みんなの後ろに隠れるように立ったオレをディは少し困ったように微笑み見た。 ためらうオレに自分から近付いてきてくれて、ぎゅっと抱き締めてくれた。 「そんな顔をしないで。レン」 「うん。…ごめんな、さっきまで、オレすごく楽しかったものだから……」 「それはわたしもだよ」 あんまりオレが泣きそうな顔をしていたせいか、ディはすごく名残惜しげにオレの髪を撫でてくれる。 優しく触れるディの手のひらはとても温かくて、大きい。 「レン、この後は?」 「ううん。なにも。今は家庭教師の人、いないし」 入試前は毎日のように来てもらっていたけど、今は父さんの代わりです、と言って、分からないところは秘書さんたちが見てくれたりしているから、頼んでいない。 いつも父さんにぴったりくっついている秘書さんたちは、息抜き代わりにオレに勉強を教えてくれている。それが息抜きになるのだろうか、と疑問は「はい、和みます」で、そんな息抜き方法よりももっと別の良い方法があるんじゃと思って訊ねれば「一石二鳥なので」ということで。 首を傾げるオレに、父さんは深く追求しないように、と妙に真剣な顔で言ってきた。オレを使って息抜きでもしてくれないと、ほんと四六時中父さんにべったりってことになるから、そっと受け流しておいて欲しいようである。 オレの返答に、ディはほんの少し長めに瞼を伏せた。 それからオレたちに断りを入れ、携帯電話を使ってどこかに電話をかけ出す。うわ。すごい早口のフランス語。 同じフランス人である三ツ原のじいさまがいるので聞き取れはするけれど、ついカオ兄と顔を見合わせてしまった。 ええっと、カオ兄、今ディが話しているってことって…。 「D'accord? Merci(OK?ありがとう)」 オレたちが呆然としている間に話を終えたディは、晴れやかな笑みをうかべてオレを見下ろした。話は聞いていたけど。聞き取れたけど。 「音楽堂を貸してもらえることになったから、もしレンが良ければだけど、一緒に約束の曲を考えてくれると嬉しい」 「そ、それって」 今さっきまでディが使っていたところだよな? ……一緒に演奏会を開く交響楽団には別に練習場があるらしく、今はあいていたそうなんだけど。でも。そこって充分大きくて、市民楽団が演奏会に使うし、演劇とかもひらかれるし。そんなすごいところを使って、でもやることがオレと一緒の曲つくり…。 広くみなさんにごめんなさい、だ。でも…でも、オレやりたい。 「レン? どうかな?」 「……やりたい、けど。ディ、無理してない?」 「大丈夫、マネージャーともきちんと話をしてある」 「ありがとう、ディ。オレ、作りかけのは持ってきているんだよ」 飛び上がるようにして喜んだオレに、カオ兄はちょっと手のひらで顔を覆い、奈々原たちは興味津々の顔でオレとディを見ている。 実のところカオ兄のところには父さんからオレに対する五線譜注意報が出ていて、なるべく遠ざけられないかとかいう話がまわってきていたらしい。ちなみにトオ兄経由。 父さんとトオ兄にはいつのまにか情報共有協定みたいなものがあって、オレのことを逐一報告しあっているのだ。そしてもちろん一つ屋根の下にいるトオ兄カオ兄はいつだって話が出来るわけで。 「誠に申し訳ありませんが、ルクシオーラ伯。1時間後に迎えにまいりますので、それまで蓮くんのこと、よろしくお願いいたします」 「はい、重々承知しています。お任せ下さい」 カオ兄には用事があるらしくて一緒には行けないけれど、迎えには来てくれるらしい。繰り返し念を押して、必ず迎えに行くと告げるカオ兄を見ていると、まるで泣く泣く深夜保育に子どもを預けて出かける親みたいだった。 ん? あれ、ということはオレ園児? 「どうしたの。レン?」 「や、なんでも」 いやいや園児はないって。さすがに。 オレはおかしな想像を振り払うように軽く首を振りながら、背後を振り返った。 「広也たちも来る? 遠見さんたちもよろしければ一緒に来られますか?」 「残念だが、今日は用があってね」 「え、マジ? 俺はだいじょ…ぐぐぐぐ」 「さあ、もう行かねばな。来い、一ノ瀬」 一ノ瀬さんは何か言いかけたまま、遠見さんに首根っこを掴まれた。 だんだん慣れては来たけど、いつみてもびっくりする。 あんまり容赦がなくて、あるいは懲りなくて。 遠見さんと一ノ瀬さんは幼馴染みだという話だった。ああういう気が置けない間柄っていいよな。喧嘩するほど仲が良いって言うかさ。 うっかりそれを口にすると、遠見さんは凄い顔で睨んでくるし、一ノ瀬さんはうんざりした顔になるんだけど。でもオレ、間違ってないと思う。そうだよな? ってカオ兄を見上げたら、そうだね、って頷いてくれた。そんなカオ兄はふたりから発言の撤回を求められたりしてたけど、それまたすごく息が合っているんだからすごい。 「じゃ、またね〜、蓮」 「世儀、気をつけて帰るようにな」 あれ、そっか。これで解散か。オレは慌てて、遠ざかる遠見さんたちに今日のお礼を叫んでみたけど、届いてくれると…あ、大丈夫みたいだ。一ノ瀬さんは投げキッスのあとに手を振ってくれる。遠見さんはそんな一ノ瀬さんを黙々と運んでいった。 「あ、柚木さん。おれ、施錠しますから副会長たちの荷物、お願いしても良いですか?」 「毎度ごめんね。蓮さんも、あれに懲りずに明日も来てくれるかな」 「はい、もちろんです。柚木さん。オレに出来ることがあるならなんでも言って下さい」 あれってなんだろう。オレ、懲りるようなことあったかなあ。今日はむしろオレがいっぱい迷惑をかけてしまった。 せっかく柚木さんの補佐が出来るんだから、これから精一杯務めさせてもらいたい。 どうも学生会のみんな、今日はこれからの都合が悪いらしかった。 「ごめんね、蓮。また誘ってくれる?」 「うん、もちろん」 「また明日」 「うん。また明日」 「蓮、じゃあな〜」 「すまないな、世儀。また明日」 次々、みんな去っていく。 でも、そのことはちっとも寂しくはない。明日会えるんだもんな。それがなんだかすごく嬉しかった。 どうしてだろうと思って、ああ、と分かる。オレ、明日を信じるってことを忘れてた。 明日も今日みたいに集まって、わいわいやれたら嬉しい。 そして、きっとそう信じていれば、またそうなれるんじゃないだろうか。 たとえこれからディに用が出来て、音楽堂に行くのがダメになっても、今ならすんなり頷ける気がする。さっきとは違って、また明日がある、ってオレはしみじみと分かったから。 言葉にするとすごく簡単なんだけど、なんだかそのたったひと言で、ずいぶん救われる気がした。 もしかしたら、幼いあの日、ディと別れる日にも、また今度、って言えたら良かったのかもしれない。また今度会おうね、ってただそれだけで充分だったのだ。 「じゃあ、レン。行こうか」 「うん」 幼い頃も見上げていたけれど、今もまた傍らのディを見上げて、オレは大きく頷いた。 |