「andante -唄う花-」



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「うわあ、広いなあ。あっ、ピアノだっ」
 舞台袖から出ると、眩しいぐらいの証明に照らし出された広い空間に出る。
 黒いピアノと、飴色の譜面台。
 それだけがある舞台。誰もいない観客席を舞台の上から眺めるのは圧巻だった。
 ディはいつもこういうところに立っているんだよな。すごいなあ。
 そう思って振り返ると、ディはさっそくケースからヴァイオリンを取り出している。
 うわ、早い。でも確かに時間がないのだ。カオ兄は1時間で迎えに来ると言ってるし、ディはやっぱり、なんというか無理矢理時間を作ったみたいだ。
 音楽堂の前でオレたちを迎えてくれたディのマネージャーさんは、とてもふんわりとした雰囲気の青年で、はじめて会ったオレにもとても優しい。急なことですごく迷惑をかけてしまったと思うのに、これぐらいのことならいつでも言って下さい、みたいなことを言ってくれた。すごくいい人だ。
 ふつうなら多忙なヴァイオリン奏者を付き合わせて音楽堂まで押しかける迷惑な相手だと思っても仕方がないのに、ディのマネージャーさんであるエーメさんにはぜんぜんそんなところがなくて、にこにこと歓迎してくれただけでなく、気がついたらちゃっかりオレと携帯番号とメールアドレスの交換までしていた。
 どうやるんだったかなあ、とオレが悩んでいる間に終わっていた。もしかしなくてもエーメさんって、すごい遣り手なのではないだろうか。オレ、初対面だったのにまったく違和感なくふつうに応じていたし、いつもなら機械操作が億劫でそれとなく話を逸らしたりもするのに。
 ちなみに奈々原たちとか、学生会のみんなはオレの機械音痴を理解してくれているので、よろしく、終わったよ、みたいなお任せ交換だった。その方が速やかかつ、確実なので…。
 オレは楽器の用意をしているディの隣で鞄の中から書きかけの譜面を取り出す。
 知らない場所に行って、はじめて会う人もいて、そうした後に家族同然のカオ兄が来てくれると思うとオレとしても心強い。でもそれはオレの都合で、カオ兄に手間をかけさせてしまうなんて悪い…と思ったけれど、その辺はまったく心配いらないからね、むしろ好きにさせてくれると嬉しい、というのがカオ兄の主張だった。
 カオ兄がそう言ってくれるなら、オレとしても何も言うことはないんだけど、でも本当無理しないでくれよな、とも思う。
 そんなこんなでオレは牧田さんに本日の業務終了のお願いをしてあった。
 牧田さんには度々ですごく申し訳ない。恐縮するオレに牧田さんは放課後の自由行動こそが学生の醍醐味ですよ、とあっさりしたものだった。むしろもっと堂々と、好きなように出かけて下さい、という返答だった。
 連絡さえしていれば花丸印で、父さんみたいな方がたいへんらしい。仕事中にふっといなくなるとか、ふらっと出かけてしまうとか。そりゃあ誰が見たってバッテン印だよ…あの中年男。うう、ご迷惑をお掛けしてます…。
「レン、Aをくれる?」
「ふはいっ」
「どうしたの? すごく難しい顔をしていたね」
「いや、花丸とバッテンの違いについて…ちょっと。花丸は身に余る光栄な評価としても、せめて二重丸ぐらいは保っていかなくちゃと」
 訳の分からないオレの説明に、ディはにこやかに頷いてくれる。
 オレはラの音をぽーんと鳴らして、ディの音合わせをうっとり見つめた。ただの調律作業なんだけど、隣と隣の音をハモらせるその独特の和音が耳に心地いい。
 ディは丁寧に音を合わせ、専用のスタンドにいったんヴァイオリンを置いた。
 改めて花丸について訊ねられたので、オレは改めて言うようなことじゃないしと少し恥ずかしくなりながらも、ざっと説明した。
「ああ、その話なら聞いたことがある。あまりに素晴らしい脱走術を駆使されるので、もしやニンジャの末裔ではないかと大絶賛の嵐で」
「に、に、に、忍者っ?」
 おまけに大絶賛!?
 時代劇に出てくる覆面姿を思いうかべ、というか観光地とかにあるはめ込み看板に父さんの顔を組み合わせたオレは取り出したばかりの五線紙を床にばさあと落とした。
 ああ、だめだ。
 わ、笑う。笑いそう。
「うわ、すごい響いた」
 オレの大爆笑、音楽堂いっぱいに広がりました。
 なんと素晴らしい音響だ。オレ、穴を掘る代わりにピアノの下に隠れていいかなあ。
「レン、レン。大丈夫、ここにはわたしたちしかいないよ」
「う、うん…。あ、これオレがつくったの。見てもらってもいい?」
「もちろん。じゃあ、交換こしよう」
 曲をつくるのは難しいね、と微笑むディから楽譜を受け取って、最初の音に目を通す。
 作曲に関しては初心者であるディがきちんと形になったものを作っているんだから、それだけでもすごいと思う。ディは音楽学校を卒業していない。何度か期間を区切って通ってはいるんだけど、殆どが先生に来てもらうとか通うとかで、きちんと学校に行って音楽を学ぶ、そういうことはしていないのだ。
 ほんの子どもの時分に音楽家として注目されてしまった人が、活躍しながらも基礎を学びに学校に通う、というのも必要なことだと思うけど、ディはごくふつうの、といったら語弊は出ると思うけど、有名進学校に在籍していた。
 長いお休みの間は演奏旅行に出たりするけど、それ以外は学業を優先。
 もちろん、だからといって、ディが音楽家としての知識が足りないとか、そういうことでもない。ディを扱った記事の中では、それを指して先行きを危ぶむ声もあるけどさ、ディの音に耳を澄ましてみれば、そんな不安あっというまに解決すると思う。
 そんなふうにぐるぐる思っていたのは最初だけだった。
 読みすすめるうちに、オレはあっというまにディが生み出した世界に虜になった。
 ディは、そうか。
 ここを、こう解釈して、野ばらがこの旋律に乗って。
 月の湖のほとりで、野ばらが唄う。
 小さな門の成り立ちを。
 ふたりの王子さまのお話を。
 分からなかったものが急に分かって、ああやっぱり、この曲は書いていた分では書き切れていない。
 オレはふらふらと引き寄せられるようにピアノの前に座った。
「レン」
 かちりと目が合い、ディもヴァイオリンを構えていることに気づく。
「レンのを」
 頷いて、そろって弾きはじめた。
 はじめはオレので、次はディの。
 通して弾いて、お互いに数章分の音をかえて。
「ディ」
 音が幾重にも折り重なり、ひらき、滲んで。
 とりとめなく。まとまりなく。
 けれど少しずつ、形をつくっていく。
「レン」
 弾きながら、つくり。
 つくりながら、弾き。
 真っ白な紙を床に広げて、オレは黒いオタマジャクシを書き込んだ。
 あとでまとめて書き記すこともできるけれど、今は次々に変わっていく音をすべて書いてしまいたかった。



 薄紅の花びらが幾重にも重なって、ふんわりとしたドレスを形作る。
 白いうなじと、ほんのりピンクの頬。
 可愛らしい野ばら。
 太陽の光を浴び、葉を広げ、そよ風を受けて、つぼみを揺らし。
 枝は空高く伸びて、根は土の下の下へ。
 知らないうちにとても遠くまで体が続いていた。
 ある時、ふたりの王子さまが野ばらに言う。
「ねえ、野ばら。野ばらはどうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」
 ふたつの国に分かれた、野ばらの国。



「すごいよ、レン。なんて君は素晴らしいんだろう」
「オレ、やっと分かった」
 野ばらとふたりの王子さま。
 みんな揃わなければいけない。
 揃って微笑みをかわすから、やがて門は開かれるのだろう。
 不思議なことに、ひとつになった野ばらの国には、ディや、三ツ原のみんながいて、学生会と桜朱恩のみんなが楽しげに話し、父さんと母さんが笑っているのが見えた。
 隣にはおじいさまや世儀家のみんなもいる。
 幼かった頃のオレにはなかったもの。
 大勢の人々に囲まれた、満ち足りたもの。
 書き込みすぎて真っ黒になった紙が床の上に散らばっている。
 ピアノを降りても、耳から指先から音がこぼれ落ちて、旋律が体中を廻っていた。
 たくさん話して、たくさん弾いて、オレはいつのまにか眠りに落ちていたらしい。
 翌朝、自分の部屋で目覚めたオレの隣には仕上がったばかりの楽譜と、1枚のメモがあった。



 素敵な時間をありがとう。
 おやすみ、蓮。
 また明日。
                       D



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