深く息を吸い込むと、わずかな冷たさと湿り気を含んだ朝の静けさに満たされる。 学内に豊富な緑を抱えているからだろう。 外よりも幾分涼しく、葉に洗われた空気は清々しい。 気分がよい時は何もかも上手くいくような、明るく前向きな気持ちになる。 昨日の喜びがまだ体中の至る所に残っている気がした。音が弾み、瞬くような。 あまりに膨大な音が訪れると、現実のオレはぼんやりとしてしまっていろいろ失敗してしまうんだけれども、今日は不思議と頭の中まですっきりしている。 グランドで朝練をする生徒の声が遠くから響いて、しんとした学内に僅かな揺れをもたらす。廊下を真っ直ぐ進んで、オレは勢いよく教室の扉を開けた。 「おはよう、蓮」 「おはよう、広也」 今日は少し、奈々原の方が早かったらしい。 誰もいない教室で、ぼんやりと窓辺に座った奈々原はなかなか格好良い。 「昨日、ありがとうな」 「どうしたしまして。と、言うほどのこともしてないって」 オレを見てぱっと笑顔をつくった奈々原は窓辺から降りると、オレの前にやってくる。この間席替えをしたので、そこが奈々原の席なのだ。 自分の机に戻った奈々原は鞄の中から1枚のプリントを取り出し、オレにくれた。 「何?」 「音浜祭の進行表」 「音浜祭?」 そういえばなんかそんな単語、このごろ聞くようになった気がするけれど、それって何だろうか。 奈々原が説明してくれたところによると、世間で言うところの学園祭らしい。 ただし別途秋には文化祭があって、まあ、似たようなものらしいんだけど、それと別ものではあるようだ。 「音浜祭は学生会の領分。文化祭は音浜会でね。やることは似ているけど、すごいよ」 このすごいというのは、音浜祭の場合は自由すぎてすごい、で、文化祭の場合は、仰々しくてすごいということらしい。 文化祭にはいろいろ有名人が来てくれるようで、ちょっと格式張ったものになるんだって。まああの音浜会が主催するんだからなあ、と、音浜会についてちょっと詳しくなったオレは、なんとなく理解する。 それで音浜祭はというと、学生会が関わるものの大体の流れを教えてくれたけど、えーと。それにオレも関わるとなると…すごく大変そう。 「やること多すぎないか…?」 「まあねえ、いろいろはっちゃけちゃう学生も出るし、かといってそれをあんまり厳しく取り締まっても楽しくないし。まあ、おれたち補佐の役目は細々としたトラブル処理がメインだから、それほど気負わなくても大丈夫」 いや、トラブル処理って…何。 いきなり暗雲立ちこめた気分になったけど、始まる前からめげちゃダメだよな。 それに今日のオレはいつもとちょっと違うのだ。前向き具合では、ここ1番の出来映えである。 進行表を見ているだけで実際のことは何も分からないまま、決意を込めてプリントを見つめていると、奈々原がやけにじっとオレの方を見ている。 頬に胡麻とかついてるか? 今日の朝ごはんに黒胡麻がたっぷり使ってあって、もちろん、その後歯も磨いたし、顔も洗ってあるけど、黒子になりたい黒胡麻とか、虫歯になりたい黒胡麻とかいるかも。後者は激しくお断り願いたい。 「なんかついてる?」 「いや、何も。あの後、一緒に行けなくてすごく残念だったなあと思って。…蓮はあの後、伯と一緒に曲を作ったわけだよな」 「うん」 「何て曲?」 「月の湖のほとりで。完成したら聴いてくれる?」 「もちろん。にしても、フランス語、うますぎて驚いた」 奈々原の声には驚きと賞賛が込められていて、オレはちょっと照れる。それを言うなら、奈々原だってディと会話してたと思うんだけどさ、それを言ったら奈々原は、そこは日本語、と穏やかに訂正を入れてくれた。 うっかりだ。オレの中では違和感なくふたつの言葉があるせいか、記憶の中ではごっちゃになっているらしい。 「…オレはじいさまフランス人だし、じいさまは日本語も上手なんだけど、塔子さん…おばあさまの方針で、家族の母国語はマスターしておけっていうか、そんなで」 塔子さんはコミュケーションの方法は多い方がいい、という意見なのだ。なのでオレを含めた三ツ原3兄妹も、きっちりたたき込まれている。 「そうなんだ。ほんと、想像以上にびっくり箱だよなあ、蓮って」 「えええ?」 オレは静かに生きていくつもりなのに。 地味を心がけているのに。 びっくり箱? 「まじで? 何驚かせた?」 ただちに直しておかないと。 素早く食いついたオレに、奈々原は面食らった様子だった。 ええと、それは驚きにカウントしないでもらえるとありがたい。 「何って、…全部? その容姿で気取ったところもないし、あの三ツ原家のアイドルで、音浜会との勝負に勝って、おまけにあの気難しいことで有名なルクシオーラ伯爵の大親友、ピアノはプロ級。おまけに作曲もするまであれば誰でも驚くと思うなあ。実はもっとあったりしない?」 ないない。 あると確信しているような奈々原だけど、いや、あるにはあるけど、オレの史上最大の秘密って桜朱恩のことだけだぞ。 「えっと、まずオレ、気取らなくちゃいけないような顔だったっけ…?」 首を傾げて考えてみたけれど、どうにも思い当たる節がない。 容姿は個人的な好みとか、その評価とかは恣意的なものによるから、気にしないことにして。 でも、奈々原の言い分はいろいろおかしい気がする。 「アイドルっていうかさ、三ツ原家のみんながオレのことを大事にしてくれているのは認めるけど、オレはいわば末っ子なわけで、末っ子って猫かわいがりされたりするじゃん。音浜会とのはまぐれ勝ちだし、ディのことなら、そういうのはたまたまの巡りあいで、奈々原たちだってディの友人になったわけだし。ピアノだって、秀さんたちを見ると、オレはぜんぜんだなあっていつも思うし」 「うーん。蓮の比較対象ってすごく上?」 「上っていうか…」 「それか、もしかして蓮って自分に自信ないとか?」 「えっ…。いや…。…いつも迷惑ばかりかけてはいると思っているけど…」 自信があるかと言えば、ないような。 でも比較対象が上ってことはないと思う。当然の判断、あるいは評価だ。 奈々原たちにさっそく迷惑をかけたのは疑いようのない事実だし、思い出せば出すほど、オレは色んな人の力をかりていて、それがかりるばかりで、まったく恩に報いることは出来ていない。 オレは子どもの頃から入退院を繰り返している。父さんには母さんと同じ病気というだけで心配をかけさせているのに、これといった治療法が確立していないとかもあって、完治しないままだ。 それなのについ無茶をするオレに対し、おまえは体が弱いんだから、という文句をいつもぐっと堪えさせてしまっていて。 オレは時々思うのだ。オレのことがなければ、父さんは今も世儀の家に戻らず、あのぐうたら生活を心から楽しんで過ごしていたんじゃないかって。 今は楽しんでいないとか、そういうことではないし、オレも名尾さんとか牧田さんとか大好きだし、ベスはよい子だけど、でも、…。 負担ばかりかけている。 せめて元気になることで報いたいけれど、ちょっとそれは今すぐというわけにはいかないから、何か他のことを見つけたいのに、見つけられていない。 「迷惑なんて誰も思ってないと思うけど。おれも含めてさ」 「それなら良いんだけど…」 「蓮…考えすぎない方が良くない?その辺のことはさ、持ちつ持たれつだよ」 「ん…。分かっているんだけど、どうもさ。つい」 オレの場合、別に心臓がどうとか、そういうわけじゃない。 見た感じからいえば、ただの虚弱体質で、でも染色体がどうとか、免疫がどうとかあって。 誰が悪いってわけじゃない。でもできることならもう少し健康な体で生まれたかった。 オレはこうして学校に来られて、奈々原とこんなふうに話せて、家に帰れば父さんと軽口を言い合ったり。充分すぎるだと分かっているけれど、もっと違う形を思い描いてしまう。オレの悪い癖だと思う。 「あのさ…、蓮。おれは今の蓮が好きだよ。それじゃダメ?」 「え…?」 「蓮は蓮らしく。それでいいと思うなあ」 「……、そう、か。そうだよな。ありがと、奈々原」 「どういたしまして」 ちょこっと重ためな話になってしまったけど、奈々原はそれを億劫がることもなく、けろりとしている。 とてもありがたかった。今のオレで良いって、言ってくれる。それにこんなふうに話が出来ること。オレ、奈々原と知り合えて本当に良かったと思う。 オレもニパッと笑みをうかべて応え、改めてプリントに目を落とした。 見れば見るほどなかなかたいへんそうだったけど、今日のオレはいつもより前向きなのだ。 きっと大丈夫。奈々原たちと一緒なんだし、楽しまないと損だろう。 その日が待ち遠しいな、と、オレは思った。 |