学校に行って授業を受け、音浜祭に向けてだんだん忙しくなってきた学生会の仕事をして、家に帰って、野ばらが唄う、月の湖のほとりでの細部をつめて、ピアノを弾いて。 また学校へ行く。 「くるくるコマネズミのように働いているらしいね」 「何それ、父さん?」 親父め。何がコマネズミだ。自分こそ毎日忙しくしている癖に。 今日は学院を休んで、病院まで来ていた。 そうするようにと言ったのはトオ兄。定期検診には行っているんだから、大丈夫だよ、とは言ったんだけど、父さんや名尾さんまでもただ診てもらうだけなんだから行くだけ行けばいいということになり、ここのところちょっと疲れがたまっているなあという気はしていたので、大人しく足を運んでいた。 篠宮さんはオレのカルテを見ながら、とんとんと持っていたペンで机を軽くつついた。 何かを考えている時の篠宮さんの癖だ。 オレの検査結果はいつも通りにあんまり思わしくない。 「蓮くんには桜朱恩の方が肌に合うのになあ。どうして男の子なんだろうね」 「先生、それ、問題発言だから。人権侵害とセクハラだから」 「ふうん、難しい言葉を知っているんだねえ。でもまあ、男の子でももう少しゆっくり過ごせるよね。お昼ご飯の後に昼寝とかしてみよっか」 「えー…」 「えーじゃないの。休息は大事なことだっていつも言っているよね」 「じゃあ…、学生会のソファで休むよ」 「ソファか。できればもっとちゃんとしたものが良いなあ。保健室の先生に話しておいてあげようか」 オレは首を横に振った。 保健室の先生は名尾さんと年が近い感じの、白髪交じりでふっくらとした体格の穏やかな人で、学内を回って学生たちに声をかけては体調が思わしくない人を保健室へ連れて行くのをライフワークにしている。オレにもまめまめしく声をかけてくれていて、時々お茶をご一緒させてもらっているけれど。 「保健室、遠いから」 単純に、それがあるから。 「なるほど。でも、なるべく手足を伸ばせるところで休むようにね。デスクワークが増えているみたいだから、水分もこまめにとること」 「はーい」 そんなふうな話があったんだけど、篠宮さんから父さんに、父さんからトオ兄に、トオ兄からカオ兄という、お決まりのルートで伝わってしまったらしい。 「蓮くん。リラクゼーションルームにベッドを入れたから、天蓋付きだからひと目もあんまり気にならないし、お昼ご飯の後でも、学生会の仕事中でも、気軽にそこで休んでね。他の人も使えるように替えのシーツと枕カバーも用意してあるから」 「ええっ、カオ兄、オレ、ソファで大丈夫なのに…」 「ダメ。これからもっと忙しくなるし、ほらほら蓮くん。歯を磨いたら、お昼寝して」 ここのところ、オレたち補佐も学生会で昼食をとるのが日常になっている。 その方が学生会の業務について話せるし、キッチンがあるっていうのは便利だしで。 オレはカオ兄に追い立てられるようにしてベッドに入ったんだけど、思いの外心地よくて、気がつけばすとんと眠りに落ちていた。 一眠りして元気になるオレを見て、それならと何台が簡易ベッドが加わり、疲れた時はマメに一休みするのが恒例になった。 昼寝から起き出してきたら、近くに遠見さんと一ノ瀬さんが眠っていた時には正直何事かと思ったけど。寝ている時は喧嘩しないんだ、とまあ、当たり前のことを思ったりして。 正直、音浜祭が近付くことに、学校には勉強をしているんじゃなくて、仕事をしにきているんだろうという、そんな感じになりつつあった。 授業も短くなって、学内にはベニヤ板とかペンキとか、本来ないものが目に付くようになっている。 「ああ、わたくしはなんなのでしょう」 「ああ、あなたこそ太陽」 ふだんは使われていない教室からはなぞの会話が響いたりして、いつもの部屋をあけたら、お化けとぶつかったりと、なかなか楽しいんだけど、忙しいことこの上ない。 ただ廊下を歩いているだけなのに、しょっしゅう声をかけられて足を止めざるを得ないので、今のオレの移動速度、時間と割ったらすごいことになりそうだ。 いや、あんまり立ち止まるのはどうかと思うんだけど、なかなかうまく切り抜けられなくって。オレはいつもやたら時間を食ってしまうのだ。 「あっ、学生会の。良いところに来た。聞いてくれよ、木材が足りないんだよ。だからもうちょっと資金融通してくれね?」 「プロレス愛好会の方ですね。木材が何に必要なんですか?」 「リングだよ、リング。決まっているじゃん」 プロレス愛好会はリングがないのか! じゃ、いつもはどこでどうしているんだろう。 だいたい決まっているも何も、リングに木材が? 足りなくなるほどに? またまた捕まっちゃったなあと思いながらも、ある程度状況が分からないとカオ兄にも話が通せないし、首傾げながら、とにかくプロレス愛好会の準備室まで付いていく。そこでさっそく設計図を見せてもらったオレは呆然とした。 なんというか、昔懐かしい木のみかん箱、大きい版? 口を出すようなことじゃないのかもしれないけど。オレはプロレスってさっぱりだけど。でも。 「怪我…しますね、このままじゃ」 「え? そう?」 「そう? じゃないですっ、レンタルにしてください、レンタルにっ」 オレもずいぶん書記として慣れてきたと思う。 慣れざるを得なかったわけなんだけども、ぴしゃりと言い切るぐらいのことはできるようになった。そうしないと片付かないので。 でも、幾らマットを厚くしてもスプリングが効いてない上に固い床なんて、素人ならすぐに怪我をする。怪我されるのは運営上困るし、オレが嫌だ。 急いで予算の余りを聞いて、…まだ手つかずで良かった、方々に電話をかける。これぐらいのことならいちいちカオ兄にお伺いを立てるまでもない。 取り敢えず、リングはレンタル、垂れ幕やら何やら特注で欲しいと横からごねているのは聞こえないふりをしてことを進めた。 「リングは当日設営します。予算の余りは殆どありませんが、あとはそれで何とかしてください」 「殆どない…て、ほんとにないんじゃん。まじで」 「言っておきますけど、安全第一ですから。安全性に問題がある場合、中止ですからねっ。じゃ」 「でも、本物のリングが来るだけでもすげえや」 喜ぶプロレス愛好会のみなさんを横目に、急ぎ足でその場から立ち去ったんだけども。オレは未踏の地に足を踏み入れてしまったようだ。ちっとも目的地に着けなくて、誰かしらに捕まって方向転換ばかりしているせいなんだけど、だんだん遠い気分になってくる。 「"もしもし、蓮くん、今、どこにいるの?"」 「2年生の教室で裁縫指導してます…」 「"ホワイトボードなんだけど、無事届いたから、それが終わったら戻ってきてね"」 「はい…」 そうだった。オレはホワイトボードを取りに学生会室に出たのだ。 万が一を考えて、手が空きそうな人に頼んでおいて良かった。ホワイトボードは無事、カオ兄の手に渡ってくれたらしい。 ええと、でも。 カオ兄、救助なし? 放置? オレ…自力で帰らないとダメってことだよな? 「なあなあ、頼む、世儀、ちょこっとでいいから教えてくれ」 教えて欲しいのはオレだ。帰り道は分かるのに帰り方が分からないこれいかに。 でもきっとここを乗り越えることに、書記としての意味があるんだよな。きっと、たぶん。…今更だけど学生会役員を引き受けたことに後悔を持ち出しているオレは、何度もその思考を振り払い、目の前のことに集中した。 大きなこともこつこつと。そうしたらいつかきっと終わりが見えるようになるよな。それで、何を教えたら良いんだ? 「おいっ、世儀、糸が結べねえんだけど」 「…玉結びしてください」 「なんなのそれ?」 「………そう、そうですよね。ここに座って下さいますか」 針であけた穴に糸をくぐらせようとしていた高等技術を前に、玉結びなんて存在しませんか。 ちょっとした散歩のつもりが学内流浪の旅になりつつあるオレはこのあたりで覚悟を決めないといけないらしい。こうなればやけだよな。これが本当に書記としての仕事として正しいのかとか役に立てているのかとかはまったく分からないけど、オレはやる。やってやる。 先輩方を並ばせ、オレはとうとうと語る。 玉結びの存在を知らずして衣装を縫いはじめるその心意気は認めたい。 ミシンなんて手縫いよりも深く遠い存在だから針と糸でがんばってみた、まだそれもいい。 玉結びができなくっても一応布は留まる。留まるけどさ。 「ここに家庭科の教科書があります。お裁縫の項目もあります。読んで下さい。読み終えるまで針と糸には触らせませんので」 糸と布の無駄遣いをこれ以上、見過ごせるか。 掃除ひとつとっても業者任せなのに、音浜祭では自立自主を謳っているからって、… 各クラブなどに渡される予算額もかなり高いけれど、でも、どうしてみんな手仕事なのかちっとも理解できない。 そんなだから学生会の仕事が激増なんだぞ。オレはごつい先輩方に囲まれてドレスなんて縫っているんだぞ。…縫っているのオレだけで、先輩方は教科書に目を通している最中なんだけど。でもこれ、誰が着るんだろうか……? 見てはいけない深淵を覗き込まないようただ黙々と縫い針を走らせながら、ベッドを入れてくれたカオ兄の判断はすごいなあと感心してしまう。毎年こんな忙しさでは、ソファじゃダメって言うよなあ…。 たかが音浜祭。されど音浜祭。 まさかこんなにも大変なことだったなんて思いもしなかった。 楽しいといえばそうだけど、それを上回る忙しさ。 うまく順応していかなくちゃいけないなとつらつら考えながら、オレは先輩方が教科書を読み終えて作業に取りかかるまでに、ふっくらとした袖をつくり、裾にひだを寄せ、胸もとにたっぷりとレース飾りをつけた。 自分で言うのも何だけど、桜朱恩のお姉様たちが傍で作るのを見たり着せられているだけだったのに、なかなかの出来映えだ。 ………もちろん、お姉様たちには絶対に見せられない光景だけど…。 後で無事に学生会室に戻れた後、オレが途中まで仕上げたドレスはカオ兄が回収した。もう殆どオレの作品になってしまっていて、音浜祭の趣旨とそれるかららしい。 仕立て直せば誰か着られるかなあとも思ったけど、あんまりの忙しさにその後それがどうなったのかは分からなかった。 |