「andante -唄う花-」



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「"それは蓮くんだよ"」
「えー…?」
 電話口でオレは思いっきり不満顔。
 学生会における最強の人物についてカオ兄に聞いてみたんだけど、それがこれだった。
 オレの聞き方間違ったみたいだ。うーん。
 学校で毎日会っているのに、カオ兄とゆっくり話せるのが休日の電話っていうのは…何だかおかしい気がする、と思いつつ、これはこれで楽しい。カオ兄との話はとりとめなく、いつまでも尽きない。
「"じゃあまた学校でね"」
「うん」
 電話を切ると開始からちょうど15分後。そうしようと話したわけではないけど、三ツ原のみんなからかかってくる電話はいつもそれぐらいで終わる。まあ、みんな電話で長話をするぐらいなら、実際会った方が早いと考えているタイプだもんな。
 ベッドの上で寝転んだまま話していたので、のそのそと起き上がって窓を開けた。
 すごい良い天気。筆でさっと刷いたみたいな雲と光色の空は見ているだけで元気になれそうだ。
 朝早い時間の電話は良い目覚まし代わりになるから、なんだかお得だ。
 気分も上向きで頭もすっきりして、お休みの日をたっぷり使える気になる。まあ、朝が早い人に限ると思うけど。オレもカオ兄も早起きにかけてはけっこう得意だから、早朝に電話をし合うことも珍しくない。
 うーんと背を伸ばしてから、散歩に行こうと身支度を調えた。ここのところ積極的に、オレはベスの散歩当番を引き受けることにしていて、朝ごはんの前の時間を使って行く。ただ歩くことだけでも、健康になる第一歩だし、これがなかなか楽しいのだ。
「ベース、散歩行くぞお」
 庭で放し飼いのベスはいつもどこにいるのやら分からないので、名前を呼ぶ方が手っ取り早い。
 わおおんと返事が返って茶色の体が近付いてきて、えいっと抱きかかえた。
「ふはっ」
 挨拶代わりなのか鼻先を首筋に押し付けてくるベスを撫で、リードを振ると途端に大人しくなる。ベスは散歩が好きなので、リードを付けても嫌がらない。
「おでかけですか、蓮様」
「はい、ベスと散歩に行ってきます」
「いってらっしゃいませ。お気を付けて」
「分かりました。いってきまーす」
 外へ出る前に庭から玄関に回ってひと声かけようとすると、すかさず気づいた名尾さんが出てきて、にこやかに見送ってくれる。いつも思うけど名尾さんのあの勘の良さは驚嘆に値するよな。人の気配だけで誰とか当てたりするし。
 名尾さんに手を振ってオレはうきうきと歩き出す。
 ベスはのんびりとしたオレの歩調に合わせて進んでくれる。
 休日の朝は人通りが少ないんだけど、犬の散歩をしている人とは良く会った。大抵は軽く会釈をして過ぎるんだけど、この時間に会うペット連れのおばさまは気さくな人が多い。
「あら、おはよう」
「おはようございます」
「ベスちゃんは今日もおりこうさんねえ。あ、そうだ。これあげるわね」
「わー。ありがとうございます」
 本日のおみやげ、苺ミルク味の飴玉、金柑ドロップと珈琲飴。
 マフィンとチョコチップクッキー、こちらはどちらも手作り。
 あとで名尾さんと食べようと、オレは全部背負った小振りのリュックにしまい込む。
 殆ど空っぽのリュックにいつも何かしらもらい物のお菓子を入れて帰るので、父さんなんかは万年ハロウィンとか呼んでくれた。くれなくても悪戯しないのに、とは思うけど、確かにおやつが挨拶代わりなのかなあとも思う。
 いつももらってばかりで悪いな、って感じなんだけど、おばさまたちってみんな、たまたま持っていたからどうぞ、って感じで、あくまでそれは自分用のおやつって人が多い気がして。そこにわざわざお礼用のものを用意していくのは何か違うような。オレの考え過ぎかも知れないけど。やっぱりお返しには季節のイベントを使うのが1番かな。バレンタインとかクリスマスとか。
 オレとベスの散歩コースはいつもどこかしら公園とか広場を通る。
 そこでひと休みをして、来た道とは違う道を使って戻った。
 それだとベスにはちょっと物足りないかもしれないので、ドッグランがある広場とかも使うようにしている。歩き足りない分をそこで補えたらと思うのだけど、ベスが欲しいだけ散歩できるように、オレもがんばって体力付けないと。
 この頃良く来ているドッグラン付きの広場に来ると、ベスはちょっとそわそわしてくるのが分かった。いろんな犬種の犬が集まっているから、若いベスには刺激的なんだろう。
「ベス、おすわり。おて」
 きちっと命令に従ったベスはじいっとオレの許しを待っている。
 ああもう、本当によい子だよなあ。親ばかならぬ犬ばかな気分でベスをたっぷり撫でて、ベスが落ち着くのを待つ。
「よし、ベス。行っていいよ」
 広場の雰囲気に慣れた頃を見計らい、ドッグランの中でリードを外すと、ベスは勢いよく走り出した。本能というか野生の血というか、そういうのを感じさせる見事な走りだ。
 庭でもよく走り回っているけど、やっぱり仲間がいる場所での走りはひと味違うんだろうな、と思う。誰もいない場所を見つけてぐるぐる回ったり、他の犬の様子を遠巻きに窺ったりと忙しい。
 まだ朝の早い時間だから、集まっている人々はジョギングウェアとか、ウォーキングシューズをきっちり着こなした年輩の人が多い。家族連れやオレみたいな年齢の人はいない。恐らくそういう人が増えるのは昼頃からだろう。
 しばらくベスの様子を眺めてから、オレは木陰にあったベンチに腰を下ろした。ベンチにはすでにひとり、女性が座っていたので、ぺこりと頭を下げる。
「おはようございます」
「…、ええ、おはよう」
 白髪のご婦人だ。マルチーズを連れていて、両耳に青い水玉模様が入ったリボンがつけられているのが何とも可愛い。
 撫子みたいな淡い紅色のコートが良く似合う。年齢は塔子さんと同じぐらいだろうか。
 挨拶に応えてふんわりとうかべられた笑みはすごくやさしい。けれど、オレは少しどきりとした。
 もとのようにどこか遠くに向けられた瞳は、あんまりにも寂しげだった。どこがどうというわけではなかったけれど、なぜかそのまま崩れ落ちてしまいそうな危うさを感じてしまう。
 水玉リボンのマルチーズも飼い主が気になるのか、ぱたぱたと尻尾を振りながら彼女の足もとを行ったり来たりしている。
 こういう時ってどうしたらいいのかな、声をかけていいのかな。
 人生の大先輩に若輩者のオレが何て言うんだ。どうされましたか、って言っていいのだろうか。
 オレは俯けた視線を彷徨わせ、問いかける相手を求めて何となくベスを見る。すると視線に気づいたベスが軽やかな足取りで戻ってきた。
 うわ。ごめん、ベス。
「ごめん、まだ帰らないよ。大丈夫」
 はじめてドッグランに足を運んだ時にたまたま具合が悪くなって、早々に帰ってきてしまったので、オレの視線にちょっと敏感だ。
 上手く誤魔化しているつもりでも、体調の悪い時に限ってしきりに振り返ってオレの様子を確かめたりするから、まったくもって侮れない。これは全面的にオレが良くないんだけど。
 行っていいよと言ったけど、ベスはオレの前にお座りしたままじっとしているので、ああまた悟られているなあと気づく。本当はこのままベスが傍にいてくれたら心強いなって思っているのを、しっかり気づかれてしまっているみたいだ。
 やさしい顔で見上げてくるベスに励まされるようにして、オレはそっと顔を向けた。
 言うだけタダだよな、ベス。当たって砕けろだ。…いや、どちらもここで使うのは間違っている気もするけど。
「え、と。あの、すみません」
「…はい、なにかしら」
「ええと、すごく…その、悲しそうな顔をされているから、どうされたのかと思いまして。水玉の子もとても心配そうにしていますし、オレでよろしければお話を聞かせていただけないかなあと…。何かお力になれそうなことはあればいいなあって」
 でもどこかおかしくないか、押しつけがましくないか、考えれば考えるだけまずかった気になって、鼓動が弾む。
 平常心と唱える代わりにベスを撫でていると、夫人は少し驚いたように瞬き、オレとベスを交互に見やって、ふんわりと微笑みをうかべた。
「ありがとう、ぼうや。…ぼうやでよろしいのよね? もしかして、お嬢さんかしら」
「いえ、前者で」
 高校生でぼうやをいただくのはちょっと気恥ずかしいんだけれど、後者はまったくもって違うのできっぱり応える。
 オレの返答に撫子色を身にまとうご婦人はますます笑みを深くして、はじめてそのやり方を思い出したように、足もとの飼い犬をそうっと撫でた。水玉リボンのマルチーズは千切れんばかりに尻尾を振っている。
「ごめんなさいね、そんなに悲しそうな顔をしていたかしら…」
 水玉マルチーズは、そうだと頷くように喉を鳴らす。ベスもだけど、どうしてこんなふうに思ってくれるのだろうと不思議なぐらい、こちらのことを気にかけてくれる犬たちの様子に、夫人は泣き笑うような顔になってオレの方に視線を向けた。
「あなたもごめんなさいね。こんなおばあちゃんの心配をさせてしまって」
「い、いえっ、とんでもないです。こういう時に知らぬ顔をしていたって祖母に知られれば、叱られてしまうぐらいです。いつからそんな子になったのだい? って、泣きたくなるぐらい怖い顔で、…恐怖の微笑みです」
 本当に、真実そういう微笑みをうかべた塔子さんは怖い。
 思い出し震いをしてしまったオレに、夫人は優しい顔になった。
「あらあら、まあ。でも大丈夫よ。ぼうやはとてもよい子だわ。…大したことではないのよ。落とし物をしてしまって、見つからなかったものだから…、少し途方に暮れてしまっていただけなの」
 落とし物!
 大したことはないと言うけれど、オレはぶんぶんと首を横に振った。



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