目を覚ますと、まだ帰らずの回廊にいるらしい、というのが分かってすこしほっとする。 気がついたら家だとか、そういうことになったらどうしようかと。 「世儀蓮…、大丈夫か?」 「高ノ原…、それ…ちょっとツボなのか?」 真上に見える領様に頷きながら、つい尋ね返してしまう。 1度は名前呼びで固定してくれたと思っていたのに、いつのまにかフルネーム呼びをしているから、オレとしては突っ込まずにはいられない。 「妙に言いやすいものだから、つい」 いや、言いにくいと思うから気になるわけで。 でも領様は言いやすいのか? 考えあぐねて首を左から右に捻っていると、領様は真横に引いた唇の片方をかすかにつり上げた。 「ものすごく微妙そうな顔だな」 「えー…」 まさかそれを楽しんでいたとかじゃないよな。 それを言ったら、領様はまさか、という顔をうかべたけれど、相変わらず優等生らしい落ち着いた雰囲気だから裏が読みにくい。余程の読みやすさじゃないと領様以外も分からないんだけどさ。 とりあえずそれを判断するのはやめておくことにして、オレはきょろきょろと辺りを見回した。部屋の中にはオレと領様しかいないみたいだ。あんまり広い部屋じゃないから授業用の部屋じゃなくて、準備室か何かだろう。 「んー…と、オレ、今、どうなって?」 「倒れたところまでは覚えているか?」 「うん」 早く忘れてしまいたい8つ足のことまではっきり。 「えと、オレ、どれぐらい気を失ってた?」 室内の明るさとか、周りから響いてくる大勢の生徒たちの声とかがあまり変わってないから、たぶん短い時間だろうとは思うけど。念のため確かめると、幸いなことにほんの十数分といったところだった。 「世儀が倒れたのとほぼ同時ぐらいに薫様が来て、そのまま寝かせておいて欲しいということだったから、手近な空き教室に運んだんだ。でも毛布も何もないから、俺の膝に乗せておいた」 この柔らかさと固さが混じった感触は…やっぱりそうなんだ。 うわあ、申し訳ないことをした。足痺れたりしてないか? 「ごめん、重かっただろ」 「いや、別に」 そろそろと頭を起こすと領様はちょっと物足りなそうな顔をした。 なんだろう。まるでまだ乗せていても良かったみたいな。物好きだなあ…。 上半身を起こし終えるとちょっとふらついたけれども、すかさず領様が支えてくれたのでなんとかなる。重ね重ねもうしわけない。 「ありがと」 「どういたしまして」 少し血の気が下がっているのは分かったけれど、怠いぐらいで頭痛や吐き気はない。軽い目眩をやり過ごして、ふうと息を吐くと、ペットボトルの水を差し出された。カオ兄が置いていってくれたものらしい。 「額、こぶができているな」 床にぶつけたところだ。 ほんのり冷たい領様の指先が心地いい。領様は慎重な手つきでこぶの大きさを確かめるように触れてから、どこかしら違和感があるところはないかと真顔で尋ねてくる。どうもオレが気がついたら、病院に連れて行くようにというカオ兄からのお達しがあったみたいだ。 「大丈夫。ちょっとびっくりして意識が遠のいただけ」 わざとじゃないにせよ、あんなふうに転んで体をぶつけることなんてはじめてのことだったし、8つ足のあれとか、ものすごくリアルだったから。それはもう思い出す度に鳥肌がたってます、うん。 「レントゲンぐらい撮ってもらっても良いと思うが」 「平気だよ」 「本当に? 頭を打って意識を失ったんだから、軽く見ない方がいい」 「うん、少しでもおかしいなって思ったら、すぐに連れて行ってもらうよ」 病院に行ったなんてことが分かったら、小事が大事になりそうだ。 額をぶつけたのはオレの不注意である。腕は引っぱられたけど、あれぐらいならふつうの男子高校生は踏ん張れるだろう。当然、あの中等部生はそう思っただろうし、オレ自身からしても、思いの外派手に転んでしまったなあと反省しきりだ。 領様はオレの真意とか本音とかを確かめるようにじっと目を覗き込むようにしてから、ほんの少し、眦を和らげる。 「意外に頑固なんだな」 「意外かな」 「ああ、可愛いわりに」 うわ、頭打ったのってオレじゃなくて領様だったのか? いったいぜんたい、どうしてそういうことをさらりと言ってしまえるんだろう。領様は相変わらず謎すぎる。 一ノ瀬さんだって似たようなことを言うんだけど、一ノ瀬さんの場合、茶目っ気たっぷりだし、目についた人みんなに言っているような感じだから気にならなくなっているけど、領様ってやけに真顔で言うから戸惑う。 「や、…オレ別に、可愛くないし、そういう台詞は控えてもらった方が…」 「なぜ?」 やや弱々しく意見すると、鋭く返されてしまった。オレとしては同じ勢いで同じ問いかけをしたいぐらいだ。 それでもなんとか理由を言わなくちゃと思うと、親衛隊の心得を説いてくれた中等部生の顔がうかぶ。 別に彼らの意見が正しいと思っているわけではないけど、さっき彼らが言っていたことは、少なくとも彼らにとっては何の不思議もない至極真っ当な主張で、そこにはオレの主張とか弁明とは必要ない。 つまりだ。 「親しみから来るちょっとした愛想みたいな、冗談みたいな言葉だとしても、火種になるだろ」 でもそれを言うと、領様は片眉をひそめる。ものすごく訝しそうだ。 「親衛隊の意見に従うのか?」 「そういうわけじゃないよ。でも、少なくとも向こうがそう思っていて、頭に血が昇っている状態なら、オレの方が合わせた方が早いだろ」 「あまりいただけない考えだな」 「……そう?」 領様は頷く。 根本的な解決にはなってないけどさ、その場しのぎの解決策としては妥当だと思うんだけど、領様はあっさりしたものだった。 「いたちごっこになるぞ」 「……なるかな」 「なるな」 ひとまず収まりが付いても、すぐに何かしら気に食わない点がまた出てくる。 それは理解できるけど、オレがオレであることそのものが嫌だ、というようなケチの付け方になってしまっている相手には、では、いったい何が有効なんだろう。 想うことを止めることは出来ない。 好きだと思うこと、嫌だと思うことも止められない。 「世儀はどう思っているんだ? 不当な怒りをぶつけられて」 「…不当かどうかは別にさせてもらっても、正直な気持ちから言えば、困ってるに決まってる」 腹立たしさよりも、呆れよりも、困惑の方が先に立っていてどうすればよいのか分からない。それが正直なところだった。 「音浜会の挑戦はすぐに受けて立ったのに、か?」 音浜会の一員である領様がそれを言うか、という気もするけど、だからこそなのか。 あの勝負の場に領様はいなかったけれど、音浜会と親衛隊との文句の付け方はある意味同じだもんな。 「うーん…」 何が違うのかと言えば、ぱっと思いうかばないんだけどさ。 学院としての意向、みたいなものを持った音浜会と、あくまで個人感情に基づいた親衛隊とではまるで違うと言えば違うんだけど。 「あれと似た勝負を受ければ変わる?」 「少なくとも相手が納得する、あるいは根負けするまで世儀らしさをぶつけていくのも、ひとつの手かもしれないが、有効かどうかは微妙だな」 「そっかあ…」 何かしなくちゃいけないのなら、なるべく効果のあるやり方を選びたい。 でも、とりあえずその前に改めて話を聞いてこないといけないだろう。 そこで今更ながらあの場がどうなったのかを尋ねると、中等部生たちはカオ兄が事情を聞くため別室に連れて行ったらしい。 「えっ…カオ…に…や、会長が?」 「ああ。それはもう美しい笑みをうかべて」 想像すると背筋に悪寒が走るような気がするような、…。 時々カオ兄の微笑みってものすごく怖いことがあるけど、美しいゆえの迫力っていうか、でも、それってかなり危険な…ような。 帰らずの回廊で起こった騒ぎは速やかに学生会室まで伝えられたようだった。 まあ、そういったトラブルを解決するのが学生会なわけだから、当然の成り行きだと思う。騒ぎの中心にいた中等部生たちはカオ兄が事情を聞き、その後で駆けつけた他の学生会メンバーが先輩方から話を聞いているところらしかった。 「どこに行ったか分かる…?」 「ああ」 「会いたい。連れて行ってくれるか?」 「………良いのか?」 眉をひそめた領様はオレのことを心配するようにじっと見つめてきたけど、オレは大きく頷く。 こうもしょっちゅう、学校から出て行けと言われたり、波風を立ててしまうのは正直辛いけど。 会ったからって言って、もしかしたら余計こじれさせてしまうかも知れないけど。 「オレ、ここが好きだから。はじめは辞めてもいいやって思ってたけど、できるだけ足掻こうと思って」 ただそれがあるから。 できるだけ頑張ってみたいんだ。 |