茹であがったばかりのじゃがいもはほっこりとして、みずみずしい土の香りが鼻をくすぐる。鍋から湯を切るだけでも大きく息を吸いたいような気持ちよい匂いだ。 もうもうとあがる湯気に鼻をぐずつかせながら、大鍋で湯がかれたじゃがいもの皮をもくもくとむいた。 これが何かと言えば、みんなの晩ごはんである。おれとか名尾さんとか、この家の住人だけじゃなくて、食事の時間に家にいる人なら誰でも食べられるごはん。 昔は住み込みで働く人が多かったから、奉公人の衣食住は主家が用意するものってことだったらしいけど、通いの人も多くなった今、こうやってみんなそろって食事をするのに特別な感じがする。 そろって、といっても一気に全員がというわけにはいかないし、それぞれの都合がよい時間にわかれてはいるけれど、同じものを食べることに変わりはない。 父さんがこの家に戻ってから、こういった形でのごはんを食べる人が増えているらしかった。 外にはおいしいごはんを出してくれる店がたくさんあるし、ずうっと職場にこもっているのでは息がつまる、というのもあっただろうから、外で食べたり買ってきたり、というのが前は多かったらしいのだけれども。 父さんはにぎやかなのが好きだから、おじいさまに合わせて薄味ばかりになっていた献立の種類を増やして、誕生日特別メニューを組み込んだり、ビュッフェにしてみたり、工夫を凝らすことにしたせいか、わざわざ外に出なくてもこちらの方がいいな、ということ人が増えたらしい。 かつてはおじいさまを代表とする家の人間とは別に従業員用として、材料からそれを調理するとことから、それを作る人も全部違うというやり方だったらしいけど、父さんはそれも変えてしまった。 メニューに幅をでたので、おじいさまみたいに薄味がいいって人も濃い味がいいって人も、好きに選べるようになったし、父さんのごはんは楽しくわいわいと、という考え方はおおむね受け入れてもらっている。 オレとしても父さんがそうしてくれなかったら、こんなふうにお手伝いできる機会もなかったと思う。 料理人が使う包丁はたいへん切れ味がよいので、するすると皮がむける。 皮むきといえばピーラーだったからはじめは慣れなかったけど、慣れたら包丁の方がはやくなった。ただし本職はおれの倍以上でもっと確実な作業をこなすので、たびたび見とれてしまう。 「尾野さん…、早いねえ」 じゃがいもの山を挟んで皮むきを続ける尾野さんは、腕まくりした白いコックコートに派手な柄物のバンダナを頭に巻いていて、その手際の良さと言ったらオレがひとつむいているあいだに少なくとも3個は終わっている。 「まあ…長いんで」 そうあっさり言ってくれるけど、きちんと芽も削ってむいた皮も適度に薄くてそれだからなぁ。 親が食堂をやっていたという尾野は人受けしやすい明るさと屈託のなさが持ち味で、新人料理人につきものの下ごしらえや片付けなどの雑用も楽しげにこなすし、手際も良く、通いのおばちゃんたちともすごく仲がよいようだ。 そんな尾野さんは、簡単な仕事にこそっと加わり、手伝うんだか邪魔しているんだかのオレ相手にも付き合いよく、かといって嫌がることもなく混ぜさせてくれるいい人だ。 「ぼっちゃん、…」 ふっと尾野さんの声が途切れる。何事かと思って顔を上げ、オレは目をまんまるにひらいた。 「蓮」 「親父。すごい早いね。もう終わったの?」 「いや、これからまた出る」 オレの頭を大きな手がぽんぽんと撫でる。やっぱりまた仕事に行くのか…と思うとちょっぴり残念な気がしたけれど、夕飯を食べていくだけの時間はあるらしいと聞いてオレは笑顔になった。 父さんと夕飯なんて久しぶりだ。 父さんはオレの笑顔をみてぽんぽんばふばふと撫でる手に勢いを足すので、尾野さんを真似てかぶったバンダナはずれるし、気恥ずかしくって逃れようともがくと、オレの妨害なんてちっとも堪えないまま尾野さんの方を向いた。 「尾野、悪いな。いつも蓮が邪魔して」 手早くバンダナを外した尾野が立ち上がって頭を下げる。 「ぼっちゃんが手伝ってくれるので、みんな喜んでます。いっそう旨いって」 「えへへー。でもごめんな? オレ作業遅いし…がんばってもっと上手くなるから」 「蓮。ほどほどにな」 うん、と頷く。本当ならお仕事の邪魔はしちゃいけないとは分かっているんだけれども。 みんなの笑う顔を見ていると、ついついまた今度もとか思ってしまう。 喜んでくれる、仕事を教えてもらって手伝わせてもらえる。 たいしたことなんてできないけれども、家族みたいに受け入れてもらえてすごく嬉しかった。はじめからうまくいったわけじゃなかったから、余計に。何もしなくて良いんです、と断られるのが、オレは最初、とても辛かった。 世儀家の中では、たくさんの人が働いている。 三ツ原のおうちでもたくさんの人が働いているけど、オレが小さいときからいる人たちばかりだから顔なじみだし、ナギ姉たちのおうちはこういうもの、というような思い込みもあるから気にしていなかったけど、この家では三ツ原のおうちよりずっと男の人が多くて、はじめは正直、少し怖かった。 ナギ姉いわく三ツ原家は女系優先で女の人がつよいから、桜朱恩で育ったオレには三ツ原のおうちの雰囲気が馴染んでいて、長男優先で古き良き時代の…ナギ姉に言わせれば厳しい空気を持った世儀の家に気後れを感じたのでは、と、いうことらしい。 ひとつの会社を勤め上げる、なんて言葉が廃れて久しいけれど、こと世儀家内ではころころ人が入れ替わることもなく、父さんのおしめ時代だけでなく、おじいさまの子ども時代を知っている、という人がごろごろいて、先祖代々仕えています、という形が多くて。 オレは母さん似で、おじいさまにも父さんにもあまり似ていない。 せめて…、父さんとよく似ている、とか…似ていないわけではないけれど、ぱっと見て分かるぐらいの似方だったら、もっと付き合いやすかったかも知れない。 あきらかに異分子であることを感じさせるオレが、ここで長く働いてきた人たちと馴染むには何かしらのきっかけが必要で、なかなかそれを見つけられなかったのだけれど、この頃ようやく打ち解けられるようになってきたのだ。 ちまちまいろんな仕事をのぞいて、手伝ってみて、そうしたらいつのまにか距離が近づいてて、一緒にごはんを楽しむことができるようになった。 それが嬉しい。 「ぼっちゃん。もうここは大丈夫ですんで」 「あ、うん。これだけ終わらせるから。親父、すぐ終わるから晩飯にしよ?」 「ああ」 頷いた父さんに背を向けて、オレはじゃがいもの皮むきを続ける。 尾野さんがちょっと気にしたように父さんとオレを見るのが分かったけれど、父さんも尾野さんも何も言わなかった。父さんはじゃあとで、とだけ言って、部屋の向こうへ姿を消す。 「ぼっちゃん。マッシュポテト追加しとくんで、後で寄ってください」 最後のじゃがいもをむき終わって立ち上がると、尾野さんがさりげなく言う。 それは超特急で作ってくれる、の間違いじゃないの? とは思ったけど、あっさりとした尾野の言葉に甘えて、オレは頷いた。 「うんっ。楽しみー」 新米の尾野さんが任されるのはたいてい1、2品かそれぐらいなのに、それを使っちゃってマッシュポテトでいいのかな、という気がしないでもないけれども、すごく張り切っている尾野さんをみると、オレの頭の中はおいしそうなマッシュポテトでいっぱいになった。 父さんはひとりで一合ぐらいをぺろりと食べてしまうから、ご飯茶碗はオレの両手にあまりそうなほど大きい。 逆にオレは持ちやすさと軽さにこだわった小さめで、何年も使っているのに欠けひとつ拵えてないのがじまんだ。 備え付けのものもあるけれど、食器類は持ち込みの人の方が多かった。もちろん手持ちのものでは合わないメニューのときもあるし何から何まで自分のでなんてことはできないから、箸とご飯茶碗、湯飲み辺りはという感じではある。 オレと父さんには食堂で食べるとき用、と、いわゆる本邸内で食べるとき用、というのがあって、今日みたいな食堂利用のときにはアパートから持ってきたなじみの品を使う。だからというわけでもないけど、ごはんをもりつける手つきも自然とこなれたものになった。 「「いただきます」」 久しぶりに父さんと声がそろう。 みそ汁をひとくち飲んでからごはんにすすんで、真っ先にマッシュポテトに向かった。 「おいしい」 「…うまい」 自分でむいた分も混ざっているせいだけど、父さんも言うんだから今年のじゃがいもの出来はほんといいと思う。 父さんとオレとで中皿に盛りつけたマッシュポテトをもくもくと食べ、ようやくといった感じで他のおかずに箸を付けた。 「蓮は最近ますます包丁を扱うのがうまくなってきたな」 「そうかな」 「尾野に教えてもらってるのか?」 「うーん、見よう見まねかな。ほんとに危ないときにしか、口出してくれないんだ」 この危ないっていうのは包丁の扱いもだけど、味付けとか他の調理器具とかも加わる。 料理していれば手を切ったりやけどしたりは当たり前だけど、さすがに尾野さんが見ててオレが怪我してはいけないと思うのか、それとなく注意して見てくれているのだ。それでもなお、オレに手伝いをさせてくれるところが尾野さんとか料理長とかのすごいところだと思う。 「蓮は料理人になれるな」 「そうかな」 「それで、おいしい料理を作ってな、おかえりあなたと言うわけだ」 「うんうん。って、親父。それじゃオレがお嫁さんの立ち位置じゃないか」 「お、そんなことになっていたか?」 一瞬で忘れるなよ。そんな記憶力で会社経営大丈夫か。疑わしげな顔でにらむと、あっはっはと父さんの良く通る低い笑い声が響き、早い時間なりにちらほら食堂に集まった人影がなにごとかといった顔を向けてくる。 「社長、ごきげんですね」 「蓮様とご一緒ですしね」 「蓮様。こんばんは。音浜祭、もうすぐですね」 顔なじみの何人かがそう声をかけてきて、気にしていないですよという笑顔を向けてくれた。ふだんは冷静そうな顔を見せている父さんが声を立てて笑うものだから、みんなおかしくおもったのではないかと思ったオレは、少し照れくさくなる。 うつむいたオレの向こうで、その人たちはオレたちとは少し離れたところに座った。 家族水入らずを邪魔しちゃ悪い、と思って気をつかってくれているのだろう。オレがひとりでいるときには一緒に座ってくれるから。 みそ汁を飲んでほっと息をつきながら、オレは父さんを見た。 「そういえば、今日はなんでこんなに早いんだ?」 仕事で何かあったのかと心配すると、父さんは少し笑みを見せて首を振った。 「いや。最近、ちゃんとおまえの顔を見てなかったからな」 「朝は早いし夜は遅いからだろ。あんまり無理すると、親父の方が倒れるぞ」 同年代に較べてオレの夜が早いせいもあるけど、少し忙しくなると父さんにはちっとも会えない日が続く。 それをさびしい、って言うにはオレは大きくて、小さいときもそう口にしない子どもだったけど。 母さんと結婚するために家を出て、その母さんが病気になって、オレまで同じ病気でいろんな迷惑かけてきて。 それを思うと、父さんには背負わせなくて良いことをたくさん、押しつけてきたように感じるし、父さんにはできるだけ楽をして欲しいと思う。今の立場じゃそれはむずかしいと分かる分、せめて睡眠時間は長くとっておいてほしい。 「大丈夫だ。毎日絶好調でな」 「うん、…」 「それより学校はどうだ。まだずいぶんと忙しいみたいだが」 「うん…まあ、それなりには」 「頭を打ったとか聞いたが、平気か?」 「う、…。それはもちろん。一応、病院にも行ったし」 相変わらずなんでそんなに耳が早いんだろう…。 頭というのはちょっとしたことで大変なことになるから、と病院で検査してもらって、大丈夫だとは言ってもらっていたのだけれど、実はそっちより疲れがずいぶんたまってきていることの方がまずい、と言われていて、オレは父さんから微妙に視線を外す。 つくづく無理ができない体が恨めしい。でもいつもこの時期は体調を崩して寝込むこともあったのに、今年はそれがない。たぶんたくさんの人に囲まれて、いたれりつくせりの毎日を送らせてもらっているからだろう。その分ついついちょっとがんばりすぎているかな、という気がしないでもないけれど、体は軽い。 体調はいいよとだけ言ってから、なるべくまとめながら今日あったことを話すと、父さんは頷いたり、少し苦笑いを見せたりして話を聞いてくれる。 「父さんがいたころは…どうだった?」 「親衛隊か」 「うん」 「今とは少し違うだろうが、あの頃からずいぶんと元気だった」 オレは箸を止めて、父さんの時代にいたという親衛隊の話を聞く。 父さんはオレよりもっとうまく立ち回ったのだろうなぁという気がしていたけれど、ずいぶん歴史があるんだなぁと思うと気が遠くなりそうだった。音浜…あなどりがたし、という思いを新たにする。 「オレ、とにかくすごく驚いて…」 「蓮はそうだな。少し…、鈍いか」 「うー…。それって人の気持ちに気づかないみたいな…?」 「悪いばかりじゃない。それが良いところでもあるだろう」 否定しない父さんにため息が出る。 オレだって、何か言いたそうだなぁでもどういうことだろう、って分からないことに出会うと、オレってにぶいなあ、もっと勘が良くって立ち回りがうまければ、って思わないでもないけれど。 「音浜祭の準備をしているとさ、ああオレ、なんか色々できてないなぁって実感するんだ」 「ま、やれることだけやっておけ」 あっさりとした父さんの言葉が分からないわけじゃない。 でもなあ、ああやっておけばとか、こうしておけばとか、毎日たくさん。でもさすがに全部やる、なんていうのは欲張りすぎるだろう。それができることならともなく、できないことも多くあるわけだから。 「オレさ、今すごく楽しくて」 こんな大きな家に入ることになって、いろいろと周りが変わっていって。 高校生になったら何かが違うのかな、とはうっすら考えていたけれど、想像していた以上のことが山ほど起きて、目が回りそうな毎日で、でもそれがとても楽しい。 「今がいちばん好きかもって」 これ以上ないぐらい、充実している。 そう言うと父さんは笑って、先は長いぞ、なんて混ぜっ返してきたけれど、そう感じるんだから仕方ない。 「だからついつい、もっともっとって思って空回り」 「たまにはいいんじゃないか」 うん。そうだといいなとオレも思う。 オレは笑顔になって、父さんを見た。 「音浜祭は3日間あるから、父さんも来てくれよな」 「ああ」 「でもちゃんと秘書さんたちと一緒にな?」 秘書さんたちから、父さんはときどき黙って消える癖があるらしいと聞いているので、念のためそう釘を刺しておくと、父さんはうーん? と、そらとぼけた顔になる。 ちょっと離れたところにいた秘書さんたちがぴくっと反応したような気がしたけれど、父さんもそのまま秘書さんたちもごくふつうに食事を続けているので、もしかして何か間違ったかな、と少し心配になったけれど、もっと食べろとマッシュポテト差し出されると、オレの頭はそれでいっぱいになった。 ああ美味しいなあ、と思ったところで話はうやむやになって、オレと父さんはとりとめない会話を続け、食堂に人が増えていく時間にさしかかると、ほうぼうから飛んできた会話に応えて、にぎやかな笑い声に包まれることになった。 |