「andante -唄う花-」



- 31 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



 追い込みに入った音浜祭準備は忙しさを増し、当日は晴れればいいなと思いながら降り続く雨を見上げていたオレは、そうは思い通りにいかないのだと知った。
 あたたかさをぬぐい去るように降り出した雨がなかなか気温をあげてくれず、季節が揺り返すみたいな寒さはどうしようもなく体にこたえる。
 だいぶ気をつけてきたつもりだったけれど、じわじわと続いた熱が下がらず、しまいには意識がもうろうとするほどあがって、オレは入院することになってしまったのだ。
「雨。続く、な…」
 病院の窓から見える空は相変わらず鉛色の雲が重くたれ込めていて、窓や壁に触れた雨が途切れなく散り跳ねる音が響く。窓辺から吹き出す湿り気を含んだ暖かな空気が、頭の芯にぼわりともやをかける気がする。
「そうだな。てるてる坊主でもつくるってみるか」
「……、ん…」
 どんなてるてる坊主がいいかな。
 微笑みをうかべると父さんも小さく笑って、僕の体を起こし、佐々木さんが腕によりをかけてつくってくれたおかゆのふたをあけた。
 ひとりぶんの鍋から食べやすいよう器に移して、れんげですくったぶんに、ふうふうと父さんの息がかかる。
「うまいぞ」
 名尾さんについ、病院食ではないものが食べたい、ともらしたら、わざわざ運んできてくれたのだ。今日は父さんがいるからいったん帰っているけれども、名尾さんはこまめに訪ねてきてくれて、オレの身の回りの世話をしてくれている。
 持ってきてもらったおかゆはお湯を足せばよいようにしてあって、病室でも扱いやすいようにと試行錯誤してくれたのが分かる。中には紫陽花の形に切られた海苔が浮かんでいた。
 ゆらゆらと揺れるそれをぼんやり眺めていたら、同じものを見下ろした父さんが、これはな、と口をひらく。
「料理長の力作だ」
「…佐々木さんの…?」
 よく眺めようと背をかがめたかったのに、それに合わせたようにけほりと咳が出て、思いのほか続いてしまう。咳はなけなしの体力を奪うし、息がうまく継げずに息苦しい。咳をするごとに胸の骨が折れそうに痛むのが少しこわかった。
 父さんが手早く食器を避けて吸入器をあてがってくれると、呼吸はゆっくりと楽になっていった。
 濡れた口もとをタオルで拭うときに、掠れきった喉がわずかにぜいと鳴ったけれど、幸いにそれでいったん咳は止まってくれたらしい。オレは壁に掛けたカレンダーに目を留めてから、ゆっくりとした動きで背もたれに体を預けた。
「きれい…、…だった」
「…ああ」
「もっとあるぞ。見るか」
「………」
 オレの声はすっかり枯れていて、でるのはひそひそ声だ。それもでなかったらあきらめて黙るかノートに書くことにしていたけれど、声がでるあいだもつい黙りがちになる。
 まだたくさんものを食べられる状態ではないのは良く分かっているので、見るためだけに取り出してもらうのは気が引けたけれど、それを見越したみたいに、芸術品だぞ、父さんが小さく笑って密封パックを取り出した。
「わ、…」
 小さいものは切手ぐらい、大きくても小指ぐらいの様々な花がいっぱいある。
 スライドテーブルに紙ナプキンを敷いて、父さんが1枚1枚並べ出した。こっちは誰それが切り、そっちは誰が、という解説付きだ。
「そのバラは尾野だ」
「すごい、…」
 それしか言葉が出てこない。
 本当に芸術品だと思う。味で楽しませて、目で楽しませて。食べるのがもったいないような、そんな気持ちになる。
「み、んなにも…」
「ああ。後でお裾分けしてこような」
 きっと喜ぶだろうな、と思うと、少し笑みがこぼれた。
 入院仲間というか、病院友だち。看護師さんや技師さんたちも、しょっちゅう出たり入ったりのオレとは顔なじみなので、めずらしいお見舞い品をこころよく楽しんでくれるだろう。
 言葉がなくったって伝わってくる。なんとかして力づけようとしてくれているのが、その小さな世界から感じ取ることが出来て、つい笑顔にさせてくれる海苔細工だ。お礼を言わなくちゃ、と呟くと、もう届いているだろ、と父さんはあっさりしていた。
 思いのほか食がすすんで、椀にすくったぶんをきれいに食べ終えることができると、父さんは少し嬉しそうに目もとを細める。入院してから先、だいぶ食欲が落ちてしまったけれど、食べられるようになってくれば回復にもつながっていく。
 父さんが手際よく後片付けをするのをぼんやり眺めていると、備え付けのブザーが鳴って、扉がスライドしたのが分かった。
「蓮くん、こんにちは」
「篠宮…、さん。こんに、ちは…」
「ん、顔色いいね。噂の特製お粥が効いたかな?」
「…、?」
「ここの管理栄養士さんたちを巻き込んで、ね。もしかしたらいつかメニューに加わるかもね?…さてさて」
 喉に触れていた手のひらがするりと外れたかと思えば、いったいどうしたのか、急にテレビ台の方に近づいてそれを動かし出した。台の下に小さな車輪がついているので、それはたいして力まずともするりと動く。
 ベッドのそばに移動させてから何やらごそごそいじりだし、裏面からケーブルを引っ張り出したり、そうかと思えば外へ出て行って小さな箱みたいなものを運んできて、それをつなぎ合わせはじめる。
「こっちはよろしく」
「ああ」
 おまけに父さんまでノートパソコンを取り出して、何やら作業をはじめた。ごちゃごちゃ現れだした配線を迷いもせずに扱う手もとを見つめていると、父さんはオレと違って機械強いよなぁっとしみじみしてしまう。
 そうやって眺めているとあっけないぐらいにあっさり、できた、と篠宮さんが言った。
「はい、蓮くん。これはね、がんばってる蓮くんに、みんなからの贈りもの」
「……?…」
「音浜祭を生中継。パソコンを通して、リアルタイムのやりとりも可能」
「………、…」
 ぼうぜんとしたところでテレビの電源が入れられた。ふっとぶれた映像が、ほどなくしてざわめきを伝えてくる。見慣れた校内の様子が、大きな画面いっぱいに広がった。




「本日9時より、音浜祭第1日目が無事滞りなく開会を迎えました」
 すこしかしこまったような声で、鈴島くんが画面の中で口をひらく。
 呆然としているオレの隣で父さんが分かりやすく使い方を教えてくれた。機械音痴なオレのために、色をついたシールをぺたりと足して、そこだけ見ればいい、という目安を作ってくれる。
「おっ、蓮から。"なにが…" こりゃあ、何が起きているのか分からない、ってことだな。和美、もうちょっとくだけた方がいいって」
「いきなりハイテンションでもびっくりするよ。ね? 蓮」
 広也の言葉に応えながらおっとりと笑う鈴島くんの顔に、ああ、と頷く吉岡の顔に画面がうつる。
「世儀。…いや、蓮と呼んでもいいか? どうも周りにつられてな。今回から映像制作部に依頼して、音浜祭などの催しものを映像として記録していくことになった。今回はそのテストも兼ねて、ちょっと趣向を凝らしてある。この中継もそのひとつ」
「"オレも…政春って呼んで、も…?" だって。いいよな?」
「僕も和美呼んで? この際にきっちりね?」
 鈴島くん…和美は相変わらず、とてもあでやかに微笑む。思わず頷くと、吉岡…あらため、政春も口もとにうっすらと笑みをうかべて頷いた。知らない人が見たら気づかないぐらいの小さなものだったけれど、まるで陽が差し込むようなやわらかな笑みに、僕もうれしくなって、どきどきと画面を見つめる。
 キーボードを打つのだけは早くなったオレは、片手でも難なく打ち込めるようになっていた。ノートパソコンに別途つないだキーボードをスライドテーブルに置いてもらうと、更に早くなる。
 こうやってキーを叩くだけで、広也たちのところへすぐ届けられるのがとても不思議だった。電話で話せたらいちばん良いだろうけれど、今は声がうまく出ないから。
 オレは臨場感たっぷりに動き出した画面を前に、篠宮さんと父さんを交互に見た。
「な、に…。これ…」
 こんなことが起こるなんて、今もにわかには信じられない。
「せっかくだ。こんな形でも…音浜祭に参加できればと思ってな」
「ただし、今日は30分ぐらいにとどめておこうね。ほらほら、画面を見てなくちゃ」
 え、えと戸惑っている間に、パソコンを通してテレビに映しだされた小さな四角い枠に、いろんな名前が途切れなくあらわれてスクロールしていく。画面には大きく分けて3つあって、いちばん大きな部分には奈々原たちとオレとのやりとりが、その隣にある中くらいの画面にはテレビと同じ映像が、残りのひとつはたくさんの人が自由に発言できるようになっているみたいだった。
「とりあえず、メイン画面だけ見ていればいい。テレビの方にも双方のコメントが表示できるし、すべて保存してあるから、後でゆっくり見ることができる」
「ん、…うん」
 父さんに頷いているうちに、3人は歩きながらその場の様子を伝えてくれる。
「次の展示は3年生です。覚悟してみろよー?」
「おい奈々原、覚悟ってなんだよ。ハーイ、見てるぅ」
 とても見覚えのある先輩方が、みっちりした体に手作りのドレスを着て手を振る。間に合ったんだな、という喜びと、ああやっぱり、という気持ちがわき上がって、オレは目を細めた。
「もっときれいに顔を作れなかったんですか、…まったく」
「鈴島、そうは言うがさー、けっこう似合っていると思うんだ、俺ら」
「ええはいはいそうですね」
「和美皇女はご不満である」
「広也…」
 ものすごくおざなりな和美にいつも通りの広也の応えが返って。オレもついつい顔をほころばせる。
「"先輩、背中、しつけ糸取り忘れてます"だって」
「んんん。おー、すまん」
 せっかくつくったドレープがうまく広がっていない。
 なんとかひとりで抜き取ろうとした先輩に、似たような姿の他の先輩たちが近寄って画面を一瞬塞ぐ。なかなかにすごい光景だ。隣で父さんが、いたいた、昔もこういうのが、と笑っている。
 次行きます、次、というきびきびっとした進行で、映像が動き出した。その最中も手を振ってくる顔やカメラを見つけておおっと輝く顔に、見覚えがあるものばかりが続く。いちばんオレがよく通った通りから、中継をはじめてくれたらしい。
「えー…今ならどこがいいかな」
「おすすめは、っと」
「右側の画面の星マークな。進行中のイベントについてや、目玉商品についてなどを確認するためのページがある」
「あ。うちのクラス、今なら大丈夫っぽい」
 父さんがマウスをくるくるっと動かすと、該当画面がテレビに映りこむ。つくづく何がどうなっているのか分からないけれども、言われた部分はちゃんと確認できた。
「じゃあ1−Eに向かいます」
 見城が陣頭指揮をとっているクラス模擬店は、朝からわりと忙しいらしい。
 今日は学内の生徒だけしかいないはずだけれども、人だかりの間を縫うようにカメラがすすんで、ギャルソンみたいな黒い蝶ネクタイのクラスメイトたちが見えた。
「見城」
「お、来たか」
 奥に来てくれ、というように見城の指が動いて、広也たちがぞろりと奥へ入る。
 教室の中はふだんとはまるで違った。内装は後回しになっていて、オレはまだ雑然とした教室内しか見たことがなかったので、すごく驚いた。
 もともとついていたカーテンはすべて取り払われ、あめ色の格子がつけられている。
 それにかぶるようにつけられた新しいカーテンはすべてつやのある藍色の毛織物で、じゅうたんも色を合わせているようだ。
 想像以上に本格的だ。
 個人の私物は持ち込まないこと。必要なものは契約を取り交わして借り受けること。
 そういった規則が守られていることは学生会役員の立場として、誰より理解しているはずだけれど、まるで別世界で息をのむ。
「見城、おすすめはどれ?」
「一番人気はホットケーキだ。これ」
「うっわぁ。なにこれおいしいんだけど」
 きれいな焼き色がついたホットケーキを3枚重ねて、あつあつのうちにバターとメープルシロップをかけたホットケーキだ。
 パッケージから飛び出してきたみたいな定番の形。
「世儀の試作品がみんなのツボにはまってな。できたのがこれだ」
 とは言っても、粉から卵から吟味して作ったそれは、オレの作ったホットケーキとは似て非なるものだと思う。
 試作品のホットケーキを食べた見城は、それぞれの作り手やメニューをうまくとりまとめていた、とオレが思った部分に対して、効率を優先しすぎたのでは、と感じたらしい。奇をてらわない味の分かるものを出す、それはこういった催しには大事なことだけれども、こだわる、というのも大切なことではないのかと。
 別に本気じゃなかったとか、手を抜いていたとか、そういうことじゃない。遊び心とでもいうのか、少し時間がかかってもひと手間を加えることにしたらしい。
 この見事な内装で焼きそばなんかも出てくるのはまあご愛敬ってものだけど、でも不思議とそれが合う。
「元気になったらぜひ食べてほしい。一緒に作れたら最高だな」
 心のこもった真っ直ぐな台詞に、オレはうれしいと言っていいのか、ごめんなと言って良いのか迷って、小さくありがとう、とこたえる。
 そんなふうにして色んなところを巡って、同時中継で携帯電話やパソコンから眺めているらしい、みんなからのコメントを画面に出してもらうと、よりいっそう音浜祭の興奮が伝わってくる。
 オレの胸は高鳴り、停止していた頭の中が勢いよく動き出していくのがよく分かった。
 まるで夢でも見ていたみたいなひとときはあっというまに過ぎて、つけてもらっていたテレビの電源を落としてもらうと、ふっつりと静けさが満ちたけれど、オレはしばらくその余韻から戻ってこられない。
 オレはしばらく、言葉が出なかった。篠宮さんはまたね、といつも通りの仕草で部屋をでていき、父さんもぴたりと口をつぐんでいる。
「…………」
 まさかこんなふうなことが起きるなんて、予想もしていなかった。
 オレが体調を崩すことそのものはよくあることだった。とても楽しみにしていた日に限って、それまで良かったはずの体調を崩す。
 修学旅行、運動会、文化祭。今度こそはと思っても、ついつい力が入りすぎてしまうのか、いつだってベッドの中になる。
「こんな…こと…、って、…あるんだ、な」
 楽しみにしていたことがダメになるのなんて、いつものことだったから。
 申し訳ないのと情けないのと、いつだってこうなるのだから仕方ない、というのと、どうしてまた、と思うのと。ごっちゃりと絡んだ感情が胸の底でうずを巻いて。
 もうあきらめていたのに。
「蓮」
「オ、レ…、は…」
 震え出す唇をどうにかしたくて、指先が強ばって動かなくて。
 少しでも動いたら、胸の奥が破れてしまうような熱がふくれあがる。
 ぽた、っと涙がこぼれ落ちると、後に続くようにしてぼたぼたとあふれて頬を伝った。
「…………」
 喉がふさがれたように声はでなかったけれど、父さんのつよい腕の中に抱きすくめられると、せきを切ったように嗚咽がもれた。
 我慢していた。考えてはいけないと思っていた。
 見えるところにカレンダーを置いて。何日過ぎたかがひとめで分かるように、印を入れて。けれど焦る気持ちをあざ笑うみたいに熱ばかりがあがって、ふっと気づけば時間が過ぎたことを報せる印ばかりが増えて、退院したいなんて言えなくて。
 いっときはかなり意識が混濁していたらしい。ぶつぶつと細切れな時間の中で思うのは、うまく飲み込めなようなことばかりだった。
 何がいけなかったとかと考え、でも、がんばりすぎたのだとは言いたくなくて。
 それすらできないのなら、じっとしていれば良いだけだというのなら。
 意味がない。ここに残るための理由がない。そう思った。
「ぜいたく、もの…だ…」
 これだけのことをしてもらっているのに、できればそこにいたかった。その中にいたかった。
「蓮…」
「オレ、ほしがって、ばかり、いる」
 それきりオレは言葉が出せず、小刻みに震えながら涙を落とした。
 父さんはそれでいいんだ、と言ってくれる。欲しがって何が悪い、と。
 そんな父さんにただつよく、すがりついて。ひきつれた喉が息をつまらせると、背中をとんとんとさすられて、吸入器で咳をやわらげもらい、そうしている間もしばらく涙は止まらなかった。
 後々になって父さんは、つらいことをつらいと口にしなくなったおまえが心配だった、と言った。
 昔のオレはちょっとしたことですぐに泣いていたから。病院は好きじゃないとか、薬を飲みたくないとか。あの頃とは違う、とは言っても、なにもかもが変わっていくわけじゃない。表に出さなくなったからといって、その質がまるっきりなくなったわけでもないだろう。
 だから、あのときは少しほっとした、と。
 そのあとオレは電池が切れたように眠り込み、翌日の音浜祭2日目には幾分すっきりした体でやりとりすることができた。



- 31 -

[back]  [home]  [menu]  [next]