「andante -唄う花-」



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「蓮様、よくお似合いでいらっしゃいますよ」
 今日は朝から名尾さんの褒め言葉が光っている。
 馬子にも衣装とは言うけれど、オレは右と言われれば右を向き、左と言えば左、といったふうにしながら、スタイリストさんたちに従って動き、身支度をととのえてもらっていた。
「名尾さん、確か、スーツがあったはずなんだけど…」
 打ち合わせのときに着てみたのはいったいどこに行ったんだろうと首を傾げるオレに、名尾さんはあっさりと取りやめになりました、とこたえる。
「あちらは地味すぎると大旦那様がおっしゃいましたので。大丈夫、こちらも大変お可愛らしいですよ」
 丁寧にサイズを測ってあつらえてもらって、靴やら何やら全部合わせて、たかがスーツされどスーツなんだなぁと思っていたけれど。それさえあっさり却下されるとは…。
 病み上がりでいくぶんやせた体に合わせて、おじいさまが服を手配しなおしてくれたとは聞いていた。オレはそうなのか、申し訳ないなあと思ってて、また体重が戻ればどこかにあのスーツを着て出かけられたらいいな、とか、そんなふうに考えていたのだけれども。
 でも、…その。可愛いより格好良いが男子高校生としてはありがたいというか。やっぱりスーツにしてもらいたいようなというか、なんというか。
 オレは服のことなんて全然分からないけれども、首もとから袖まわりだとかに贅沢にレースがふんだんにあしらわれたドレスシャツだとか、プラチナを織り込んでいるそうな丈の短いマント風のジャケットとか。
 小粒の真珠や青いサファイアなんかを繋げた2連のネックレスまで付け足されると、身動きする度にきらきらとしていて。
 正直なところ、これは何…って感じだ。
 ふつうとか一般的にとか標準でとか、とにかくそういったものからものすごくかけ離れている気がするんだけれども、オレの勘違いだろうか。
「なんというか…おじいさまって…その、意外に可愛らしいものがお好きなんだ…というのか、あの」
「ぶっ」
 部屋に入ってくるなりオレを見て、口もと押さえた中年男にオレは盛大にしかめっつらをうかべて見せる。
 吹き出し笑いの名残を口もとにはり付けながら近づいてきた父さんは、オレごとふわっと抱えて上から下までしげしげと眺めた。そんなにしみじみ見なくたって、オレだってな、ちょっとどころじゃなく似合っていないのは分かっているんだ。
 絵本から抜け出してきた王子さまみたいな、そんな格好なんて。
 逆に父さんはいつもより少し華やかな布地を使ったスーツ姿で、すっきりかっこいい。髪なんかわずかに崩して男の色香たっぷりだ。
「いやー、じいさまの念願叶ったな。似合うじゃねぇか」
「………なんでそっちはふつうなんだよ。オレもスーツがいい」
「主役なんだから可愛くしとけ」
 いや、悪目立ちって言うんだよ、こういうのは…とは思ったけれど、どう見てもこの服、既製服っぽくない。じゅうぶん時間をかけて作りました、といった雰囲気がそここにある。おじいさまが前々から手配してくれていたのではないかという服を、いくら少々似合わないからって脱ぐわけにもいかず、オレは唇をとがらせる。
 スタイリストさんは大絶賛だし名尾さんも目を細めて可愛いって言ってくれるけれど、あれだ。
 結局のところ鏡を見ながら歩くわけじゃないし、オレが多少服に着られていようとも服がメインなのだと思えば、気にならないかもしれない。中身じゃなくて縫製のすばらしさとか布地の良さとかに注目してくれればいいのだ。…出来うる限りそうなってほしい。
 今日はオレのお披露目の日だった。
 ついこの間終了した音浜祭は結局、現地参加はできなかったけれど、映像やリアルタイムで届けられるメッセージによって、オレは祭りの興奮をじゅうぶん味わえた気がする。
 その盛り上がった熱に後押しされるみたいに体調も少しずつ良くなって、お披露目には無事、出られることになった。顔見せだけしたら引っ込んで良いとは言われているけれども、オレはできればちゃんとでたいと思う。
 父さんはさりげなくオレの顔をのぞきこむと、無理はしなくて良いからな、と言って、さっそうと部屋を出て行った。今日の父さんはパーティが始まる前からずいぶんと大忙しだ。
「親父、テンション高いなー」
「大旦那様も旦那様も、今日の日を大変楽しみにしていらっしゃいましたから」
 名尾さんはおっとりと微笑む。
「これで堂々と蓮様のことを話せるようになるとおっしゃっておりましたし」
「…?」
 実際にこの家に入ったのは多少前になるわけだし、今日解禁、ってわけでもない気がするけれども、それを言うと名尾さんはやんわり首を振る。
 きちんとした表明をしていなかったこれまでは、むやみやたらな噂が出まわっても仕方ないとう部分があったけれど、これからは違う。はっきりと事実はこうです、とか言えるようになったり、相手側も気兼ねなく口にできるようになる。
 そういうことみたいだ。
 今回は長いこと不仲が伝えられていた世儀と三ツ原が手を取り直す世紀のパーティ、みたいにも言われているらしく、その辺にも注目が集まっているらしかった。
 どうもおじいさまは塔子さんとあんまりそりが合わなくて、それなのに、長男である父さんがその塔子さんの娘を結婚相手に選んだものだから、かつてはだいぶん怒っていたそうだ。そのため両家の不仲説がまことしやかに流れていたらしい。
 実際そういったところはあったのだろうし、オレが生まれてからもずっと世儀のおじいさまは連絡をとらない。会いもしないと決めていたみたいだ。
 だけど母さんはそんなおじいさまにまめにオレの写真とか、歩き出しましたとか、そういう話を届けていたということだし、父さんの弟さん、亡くなったオレのおじさんが力を尽くして、そのやりとりを継続させてくれたというから、まるきり絶縁状態、というわけではなかったように思う。
 亡くなったおじさんにはぜひ、今こうしておじいさまと一緒にいられる姿を見てもらいたかったな。それができないのがとても残念だった。
「蓮様は何ら気にされることなく、どうぞ心ゆくまでパーティをお楽しみください」
「…うん。ありがとう」
 さほど緊張していないオレを頼もしそうに見た名尾さんはそう言って、この上なく嬉しそうに微笑む。もしかしたら名尾さん自身、この日を心待ちにしていたのかなと思うと、さすがのオレも、少し気合いを入れて挑まなくちゃいけない、という気になった。
 いまいちどこか他人事、という気分がどうしても否めないけれども、せっかくこういう機会をもらったのだから、せいいっぱい楽しんでこようと思った。




 まずは会長ことおじいさまの言葉からはじまり、父さんもスピーチなんぞをして決められた段取りをこなしたあと、おじいさまと父さんの間に挟まれながら大事なお客さまに顔をつないでもらう。
「やあやあ君が。ほうほう、立派なお孫様ですな。うらやましい」
「蓮君だね。君のお祖父様にはとても世話になっていてねえ」
「おおお、これはこれは。聞きしに勝る美人さんですなぁ。会長のお若い頃を思い出しますよ」
 とまあ、殆どはおじいさまがメインの挨拶回りだった。
 中には音浜生のご家族とかもいて、お噂はかねがね、とか、いったいどんな噂を聞いているんだろうか、というぐらいオレをべた褒めにする人とかもいて。
 オレはおじいさまたちを見習って愛想良く頷いたり、握手をしたりと忙しく動いた。
 おおむねそつなくそれを終わらせたあとは、堅苦しい輪の中から抜け出す。
 お披露目パーティは、想像していたよりもずいぶん多くの人で賑わっていた。あんまり人が多くて、数で見るのと実際に見るのとはだいぶん違いがあるんだなぁとちょっとあっけにとられたぐらいだ。
 でもそれだけ人が多いと、ありがたいことに華やかな出で立ちの人がたっぷりいることになり、オレの格好もあまり目立たずに済みそうなのがありがたい。ちょっとほっとした。
 オレが離れた後も、おじいさまも父さんも入れ替わり立ち替わり色んな相手と話を続けている。さすがに主催者とあってか、途切れなくお客さまが訪れるのだろう。
 それを横目に壁際に寄ったオレは、無理をせずに座らせてもらうことにする。すかさず気づいたボーイさんが近付いて、声をかけてくれた。
「蓮様、お飲み物はいかがでしょう」
「…ありがとう。いただきます」
 ボーイさんから水の入ったグラスを受け取って、一口含む。ほどよい冷たさの水が喉を滑り落ちて、あいづちを打っているだけでも案外喉は渇くものだと感じた。
 こういうところでは父さんたちは何も食べないらしいのだけど、オレの方には気を利かせたボーイさんが料理を運んできてくれる。これはたぶん父さんかおじいさまかに言われていたんじゃないかと思うな。
 事前に食事を済まそうにも、あんまり食欲がないところに詰め込めば具合が悪くなりそうだったので、あんまり食べていなかった。会場内で何か口にすればいいとは言われていたけれど、うろうろと歩きまわるのも疲れるし。
 あらかじめ何の料理が出るかは知っているけど、今まで見たことがないぐらいたくさん並んだ料理を見るのはなかなか楽しかった。
 でもそうやって持ってきてもらっても、さすがのオレでも緊張しているのか、まだあまり食欲を感じないのが申し訳ない。そのままぼんやりと会場の中へ視線を流す。
 こんな世界があったんだなあとしみじみしてしまう。
 幸いにもというか何というか、お披露目とは銘打ちながらも、おじいさまや父さんはオレが後継者だとは明言しなかった。そこのところは絶妙にぼかしている。
 世儀家というのは基本的に血族経営の会社ではあるけれど、単純に家長というだけならまだしも企業のトップになんて、どう考えてもオレ向きじゃないし、やれそうもない。
 そう言うオレにおじいさまはだいぶん長いこと考え込まれてから、猶予期間をくれた。
 決断は早ければ早いほうがいい。でも、世儀の家に入って半年にも満たないオレにそれを求めるのは時期尚早だろう、って。
 でもオレが世儀の跡継ぎだ、と見る人は思っていたよりもずっと多いみたいだった。ただの社交辞令だとしても、立派な跡継ぎを得られて安泰ですね、とか、何の疑いもなくそう言う人が多くて。
 おじいさまにはあまり家族と呼べる人がいない。おじいさまにも早くに亡くなられたおばあさまにも、兄弟姉妹が殆どいないのだ。いはするけれど圧倒的に人数が少なく、やや血が遠くなる。
 だから順当に考えてオレが跡継ぎ、ってことになるんだろうけれど。そう簡単にはいかないぞ、といちいち否定してまわりたくなるのを我慢しなくちゃいけなかった。
 世儀の家に迎え入れられたのがそのためだと、継ぐつもりがないなら出ていくべきだって、…そういう考えがあるのは分かる。でも今のオレには、どちらも選びきることが出来ない。おじいさまの家族としてそばにいられるのが嬉しくて、でも継ぎたくないなんて身勝手にも程があるけれど。
「やあ、蓮くん」
「あ、篠宮さん」
 ぼんやりしていたらいきなり声をかけられて驚く。でも相手の顔を見上げて、オレはほっと笑った。
 立ち上がろうとした頭にぽんぽんと手を触れて、篠宮さんはオレの片頬を軽く摘んだ。
「一生分の愛想笑いをしたかな?」
「それほどでも」
 すまして言ってみたけれど篠宮さんの視線はすぐに横に流れて、テーブルの上に所狭しと並んだ料理へ行く。花より団子の人だから、篠宮さんは。端からオレの答えは期待していない。
「わー、ずいぶんと色々な料理がそろっているねぇ」
 篠宮さんの言うとおり、いつのまにかテーブルの上には全種類だろうかと思われる数の料理が並んでいた。だいたいひとくち分の味見サイズで彩りよく盛りつけられているのは、どのような料理が良いかと聞いてくれた問いにうまく答えられなかったオレへの気づかいかな、とは思うけれど、なんというか、すごい。
 急いでボーイさんを呼び止め、ありがとうと伝えると、逆に他にも何かあればなんなりと、と返された。ホテルマンの鑑みたいな人だ…。
「きちんと目配りしてもらっているみたいだね」
「オレ、いちおう、主役…? なので」
 このお披露目パーティを行っている会場は、世儀家と縁がある老舗のホテルで。
 他にも幾つか候補があったのだけれども、どれでも大丈夫だからって父さんが決定権を押しつけてきたせいで、オレはずいぶんと悩む羽目になった。
 支配人さんは蓮様に当ホテルを選んでいただけて光栄です、って、がんばります、って言ってくれたのだけど、実のところ会場を選ぶためにオレがしたことって、すごく簡単だった。いつも通りの眼鏡姿にアパートで着ていた普段着を着てひとりこっそり見に行っただけ。
 ロビーのすみっこを選んで、ちゃんと待ち合わせです、って言って、大人しく座っていただけだけど。父さんがすでに完璧すぎるぐらいの調査書を作っていたし、オレはそこからだけでは分からない実際の雰囲気が知りたいなあと思って。
 たくさんの人を呼ぶパーティだから、色んな人に気持ちよく帰ってもらうことがいちばん大切だと感じたのだ。
 その話をすると篠宮さんは少し面白そうに片眉を上げ、それで、と聞いた。ここがいちばん良かったんだね? と。
「それがさ、といってもオレ素人なわけだし。正直良く分からなかったんだ。でも、ちょっとした出来事があって」
「ちょっとした出来事…?」
 うん、とオレは頷く。
 オレとしては恥ずかしいことなんだけれど…。
「うっかり寝ちゃったんだ。なんだかぽかぽかしていたから、つい」
 あとで聞いたらそれはもう幸せそうな顔をして爆睡していたらしい。
 たまたま通りかかった支配人さんがそれに気づいて、オレを長いすに移し、毛布をかけてくれたらしいんだけれど、予定時間が来て迎えに来てくれた名尾さんが起こしてくれるまで、そんなことにも全く気づかなかった。
「慌てるオレにね、当ホテル自慢の座り心地を誇るソファでございますから、って微笑んだ支配人さんがとっても格好良かったんだ。だから」
 うん、それで、と篠宮さんが続きを促したけれど、それだけだ。
 オレの決定理由はただそれだけ。それで動く金額を考えるとちょっと気が遠くなるけれど、いいんだ。オレ、このホテルに長く続いてほしいって思って、父さんも決まったあとに、ここが好きだって言ってくれたし。
「決まってから、本当にすごく一生懸命取り組んでくれて。おかげでこんないいお披露目になってさ」
 少し経営が危なくなっていたみたいなので、受けてもらえないかもと少し心配したけど。気になったところとかあれば遠慮なくおっしゃってください、ってオレにもすごく丁寧に接してくれて。
「おじいさまの人徳だよね」
 そう思って言ってみたけど、篠宮さんは微笑んで同意とも否定ともとれる顔だ。
 んー。じゃあ、支配人さんがすごいってことかな、と言い直してみたけれども、なんだかそれもそれで微妙そうな顔だった。
「そういえば、ここ。世儀の方から経営改善へのアドバイスを受けて、だいぶ成果をあげているとか。あれは?」
「………そんなご大層なものは出してないって。あれだよ。一般市民から見た老舗ホテルの印象、みたいなことをちょこっとだけ」
 蓮くんは懐が深いねえ、と篠宮さんは目を細めて笑い、目の前の料理にフォークを伸ばす。
 いやほんとにオレ、たいしたことは何もしていない。
 でもオレの言い訳なんてごちそうを前にした篠宮さんの耳には入らない。
 サイコロ状のステーキをひょいっと口に運び、ひとつを食べ終えてから、違うひとかけを更に半分にして、篠宮さんはオレの空っぽの皿にひょいと移した。
「おいしいよ」
 にこにこしながら、もともとの少量を更に少なくした料理をオレの皿に乗せていく。あっけにとられて、オレは篠宮さんを見上げた。
「その…篠宮さん?」
「さて、いちばん美味しいのはどれかな」
「どれって…」
「答え、どれも」
 まるで自分の手柄みたいに張り切って宣言した篠宮さんは、サラダからとったレタスをもぐもぐしだす。
「ここのところちょっと質が落ち気味だったけど、戻ったねえ」
 なんて呟くところを見ると、篠宮さんもこのホテルを何度か利用したことがあるらしい。老舗ホテルって看板はやっぱり伊達じゃないなあ…。
 あんまりおいしそうに嬉しそうに摘む篠宮さんににつられ、オレもフォークを伸ばした。
 確かにどれも美味しい。数口でいっぱいだと訴える胃がなければもう少し食べられるのに。でも、こんなふうに少量ずつわけてもらえば、オレでもいろんなものがたくさん味わえる。
「それにしてもすごい顔ぶれだ。経済界やら政界やらの重鎮勢ぞろいといった感じかな。ふだんは表に出てこないような方も多いね」
「うーん…、篠宮さん、この煮込み、ちょっと味が濃いね」
「それはおつまみ用だと思うよ」
 なるほど。父さんのおつまみは乾き物ばっかりだったから、こういうのは考えてなかったな。父さんはお刺身とビールが黄金の組み合わせで、たまに晩酌をすると、いつもそれだった。
 篠宮さんの言うとおり、著名人やらテレビを賑わす有名人まで、それこそよりどりみどりという感じだった。オレはちらっと見て覚え込んだ顔と略歴を頭の中でさらったけれど、篠宮さんが差し出してくるマリネを食べるほうが優先されたので、照合作業だけで終了する。感慨も感想もすべてびっくりするぐらいおいしかったドレッシングにかき消える。
「尾野さんがいたら喜ぶだろうなあ…」
 オレじゃちょっと味付けの分析ができないや。また食べたくなったら、ここに来てもいいかなあ。
「そうそう。蓮くんは病み上がりだから、楽しんで良いけど無理しないように」
「うん」
「あれ、大人しいね?」
「ついこのあいだも、たくさん迷惑かけたばっかりだから…」
 できるかぎりまた体調を崩すことがないように、オレは慎重になっていた。
 本当ならもっとたくさん歩きまわって知り合いの顔を探しに行きたいけれど、まだちょっと体力が戻りきっていないので、それもぐっと我慢する。
 人が多すぎて、ぱっと見た感じでは知り合いを捜せないのが残念だった。
「できないことを数えても、…だめだろうから」
「えらいねえ。でも、大丈夫だよ」
 オレのほっぺたをつついた篠宮さんがふっと動きを止めて立ち上がる。
 何が大丈夫なのかと尋ねかけたオレも、篠宮さんの視線を追って席を立つ。
「塔子さん、それに章子さんもっ」
 会えたらいいなあって思っていた相手が向こうから来てくれるなんて、すごくありがたくて、嬉しい。
 そろって現れたふたりは、あでやかな着物姿だった。塔子さんは黒地に金が入った大胆な柄、章子さんは淡い空色に四季の花が散った色留袖を身につけていて、雰囲気はまったく違うのに息のあった姉妹みたいな様子で近付いてくる。
「蓮。そのように急がずとも良い。転ぶぞ」
 目尻にシワを寄せてうっすら笑みをうかべた塔子さんが、転ばずにたどり着いたオレをぎゅっとつよい力で抱き寄せてくれた。
「来てくれたんだ、塔子さん。ありがとう。章子さんもありがとうございます」
「いえいえ、お招きありがとうね。とても嬉しかったわ。こんなに若い方から招待状をいただけるなんて」
「いつのまに知り合ったのかと思ったが、すまんな、章子。失礼があれば遠慮なく言ってやってくれ。蓮はどうにも世間知らずのお子さまだから。ほら、蓮」
 塔子さんが差し出す手をオレはうやうやしくとる。エスコートのやり方はきっちり仕込まれているから、ためらいはない。
 歩き出しかける前にふと思いついて、もう片方の手を章子さんに伸ばした。
「お手をどうぞ。空色のお着物がすごくお似合いで、章子さんの優しい雰囲気にぴったりです」
「あらまあ…なんてことでしょう。うれしいわ。ありがとう」
 撫子さんはほんのり頬を染めて、オレの手にふんわりと手を乗せてくれた。
 両手にふたりを連れて席へと案内すると、すさかず気づいたボーイさんが席を作ってくれたらしく、オレの向かい側に無事座ってもらうことが出来る。本当に重ね重ねお世話になってるなぁ、オレ…。
 章子さんはオレの周りにある料理の数に驚いてから、どれでもどうぞというオレの言葉に頷き、嬉しげな様子でプレートからお皿の上に料理を移した。
「やっぱり美味しいお酒には美味しい料理だな」
「本当」
「…あれ、そういえば、塔子さんと章子さんって知り合い?」
 グラスワインと料理を口にするふたりを見てオレが首を傾げると、おばあさまの片眉が上がった。
「今頃それかい? 章子は後輩だよ」
「……って、桜朱恩の?」
「そうなの。懐かしいわ。リボンを交わしたこともありましたわね」
「わあ、そうなんですか」
 桜朱恩の中・高等部の制服は首もとにリボンを結ぶんだけど、そのリボンは個人の好きなものがつけられるようになっていて、仲が良い友だち同士で交換することもある。結び目に隠れるようにお互いのイニシャルを入れたりして、みんな憧れていた。
 初等部だけは決まったものを付けなくてはいけないから、オレはリボンの交換をしたことがない。中等部にあがったらやりたいね、というのがあの頃の定番だったと思う。
「塔子さんのリボンは黒が多くて、当時とても黒いリボンが流行ったの」
「章子は白だな。それもふわっとした幅広のレース」
 懐かしげに話す塔子さんたちを見ているとオレも嬉しくなってくる。
 なんだか昔のふたりが目にうかぶようだ。
 桜朱恩OBの会話を聞きつけたみたいに、ナギ姉が姿を見せた。ナギ姉のリボンは在学生にとってまず間違いなく高嶺の花に違いない。
「おばあさま。こちらにいらしたのですね」
「お祖母様、急にいなくなられるから心配しましたよ」
 つづけて高ノ原がやってきた。
 オレを見て、ふたりとも息を合わせたみたいに上から下へと視線を流すのがおかしい。
「そのお洋服、すごく似合っているわ」
「それ、すごく可愛いな。妖精みたいだ」
 心の底からといったふうに口をひらいたふたりは、お互いの顔を見合わせとびきりの笑顔をつくる。
「あら。何を着ても蓮は可愛いんですのよ」
「それはぜひ、色んな姿で見ていたいものだな」
 そんな妙なことで迫力たっぷりの笑顔を交わさないで欲しいんだけども。
 オレがナギ姉に口答えできるわけもなく、高ノ原もむやみに突いたらおかしなことになりそうで、結局黙っているしかない。さてどうしようかと思ったら、更に向こうから知った顔が近づいてくるのが見えた。
「にぎやかだな。蓮」
「トオ兄」
 トオ兄は真っ直ぐオレのそばに寄ってオレを抱きしめた。さりげなく喉の様子を確かめて顔色を見るのは、トオ兄の習い性だと思う。
「うん、元気になったな、顔色も良い。…篠宮さん、ご無沙汰しております」
「やあ、透くん。ボツリヌスいる?」
「いえ、大丈夫です。お心づかいだけいただきます」
 トオ兄の眉間のシワ具合を確認した篠宮さんがひょうひょうとそんなことを言って、トオ兄もさりげなくかわしてる。そのあとは挨拶の後は聞いてても良く分からない新しい医学論文についてとかの話だから、年は離れていても仲がよいふたりだ。
「蓮くん」
 次に現れたのはカオ兄で、学生会のみんなも一緒だった。もうここまで来れば、あとは怖いものなしだ。探しに行けたらいいなと思っていたのに、いつのまにか大勢に取り囲まれている。
「いつもよりきらきらしてるよ…カオ兄…」
「そうかな?」
 まず笑顔がすごい。ふだんから視線を惹き付ける美貌に凄みが加わって、容易に近付けない感たっぷりだ。でもオレに向けてにっこり微笑むと不思議とその成分が抜けて、いつもの優しい感じが残る。やっぱりいつもよりはきらきらしてるけれど。
 そのままふらふらと近寄ってきたカオ兄がオレをぎゅっと抱き締め、髪の中に顔をうずめこんだ。そのまま深呼吸している。カオ兄…。くすぐったくないんだろうか。
「いつもより髪の毛ふわふわで気持ちいいなあ」
「うん。がんばってもらったから」
 天使の輪とか言うんだってさ。良い状態の髪の毛にできる輪っかが。
 入院中に傷んだところもまるで分からないぐらいにさらさらの髪の毛になって、なんだか自分の髪の毛じゃないような気までする。
「うわー…、なんだかすごい輪の中にいるな」
「広也。…あの。音浜祭では…」
「すとーっぷ。そのことは言いっこなし」
「そうだよ、蓮。ね?」
「ああ」
 和美も政春も、何のてらいもない顔で頷いてくれて、オレは言葉につまる。
 迷惑をかけてごめん、って言いたいけれども、それはだめっぽくて。
 ええとえっとと口ごもっていると、はりついたままだったカオ兄がオレの頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「蓮くんはああいう形で参加したんだよ?」
「ん、うん…」
「楽しくなかった?」
「ううん…。すごく楽しくて、夢を見ているみたいで」
 なら、言うことはひとつだけだと思うな、ってカオ兄に言われて。
 オレは広也たちを真っ直ぐ見つめる。広也たちもじっとオレの言葉を待ってくれて、嬉しいような照れくさいような、そんなものに体温がぶわりとあがるのが分かった。
「……ありがとう」
 どうにかそれだけを言うと、みんなの顔に笑顔が広がる。
 遠見さんたちも気にするな、と軽く笑い飛ばしてくれて、オレはやっぱり言葉につまり。
 今度はぜったいに…、一緒にいたいなあって、どうしようもなく思ってしまうのを見越したみたいに、まだまだこれから先も学生会は大忙しだよ、って柚木さんが片目をつぶってくれて。
 オレもごく自然に微笑むことが出来たのがとても嬉しかった。
「蓮。音浜のお友だちか」
「は、はい。塔子さん、えっと」
 あたふたしながらもおばあさまたちに広也たちを紹介する。
 お互いの反応が悪くないことにほっとして、塔子さんがこんなふうに初対面の相手と打ち解けて話しているのとか、にこにこ笑っている章子さんの顔とか、高ノ原のきりっとした佇まい、トオ兄たち兄妹のふだん通りの見守るような表情、先輩たちの頼もしさや広也たちの打ち解けたもの言いに囲まれて、オレはじわりとこみあげてくるものを感じてうつむく。
「蓮? どうしたの」
「ん、うんん」
 すかさずナギ姉が気づいて問いかけてくる。それに曖昧に首を振って、オレはにぎやかになった周囲を見回した。
「すごくしあわせだなあって思って」
「あら、蓮。知らなかったの。あなたはしあわせものなのよ」
 ナギ姉がさらりと言って優しく微笑む。
 知ってたけど、知らなかったかも…とこたえると、しょうがない子ねというようにナギ姉の微笑みがやわらぐ。幸せだと感じることに、底はないんだなあとオレは実感した。




 いちど集まったみんなはまるでオレのところを起点にするみたいに、行ったり来たりを繰り返しながらも人数を保って、オレがひとりになることはなかった。
 多少あった緊張もすっかり解けてしまい、会場に馴染んでくると、小さな変化にも気づけるようになり、ふいに入り口の方で空気がかわるのが分かった。
 どうも新しいお客さまがやってきたらしい。
 こんな人混みの中で大勢の注目を浴びる人というのはどこの誰だろうと思っていると、ほどなくして眩いばかりの金髪を輝かせた青年が姿を見せた。その人は周囲の視線を引き寄せながら真っ直ぐオレの方へと歩いてくる。
「こんばんは、レン」
「こんばんは、ディ」
 いつも通りに挨拶を交わしただけなんだけど、不思議なことにざわめきがいっそう増した気がする。
 ん? と思ってそちらの方を見ようとしたけれど、ちょうどよく高ノ原やトオ兄たちなどが壁になっていて良く見えず、まあいいや、とオレは伸ばされた手を取った。
「レン、お招きありがとう」
「うん。でも…ディ、ゲネプロは?」
「大丈夫」
 招待状を渡したときにディもぜひに、と言ってくれたのだけれど、ちょうどコンサートの練習日に重なってしまったのだ。
 演奏会の流れを総ざらいするような大きなものだから、来てもらうのは無理だと思っていたのに、ディはあっさりとしたものだった。大丈夫って…まあ、ディのことだから何とかしたのだとは思うけれど。
「フェルディナン」
 でも、やっぱりオレと同じく気になったらしい秀さんが姿を見せる。
「こんばんは、シュウ。お久しぶりです」
「下でエーメと会ったよ。相変わらずだね」
 秀さんとディは何度か一緒に演奏会を開いていて、旧知の仲だ。
 大物ピアニストとバイオリニストが共演なんてことはわりと珍しいんだけど、小さなサロンとかでささやかに、といったことがふたりとも好きなので、演奏旅行の合間を使ってそういったことをしたりするらしい。
「コンサート、楽しみにしてる」
「ありがとうございます。シュウはいつみてもお変わりありませんね。とても成人した子どもがいらっしゃるようには見えない」
 ディの発言に周囲から苦笑がもれる。秀さんはいつみても若く見えるので、響さんによく叱られていた。実年齢より若く見えたらゆるさないぞ、ということなんだけど、響さんだって年齢不詳の美人だから、似たもの夫婦だと思う。
「ちょうどよく子どもたちがそろっているよ。紹介するね。右から透、薫、渚に蓮」
「ひとり多いぞ、秀」
 塔子さんの鋭いツッコミに入り婿の秀さんは頭をかく。
「おや、うっかり」
 とぼけているんじゃなくてこれは秀さんの素だ。それが分かっているので塔子さんもそれ以上は切り込まない。
「マダム。お久しぶりです。相変わらずお若くいらっしゃいますね」
 ディが塔子さんに一礼した。
 え? と首を傾げかけたけど、そういえばオレとディが会ったのって、塔子さんの夫であるじいさまの実家関係だったはずだから、面識があってもおかしくない。
 塔子さんは軽い頷きでディの挨拶に応え、オレの方を見た。
「せっかくだ。3人で何か1曲演奏してみればどうだ」
「おばあさま!」
 声をあげたのはトオ兄たち3兄妹で。あんまりの声のそろいように塔子さんの眉根がすっと寄った。
「兄妹そろってなんだ。何か不満でもあるのかい」
 塔子さんに適う人なんているわけがない。唯一なんとかなりそうなおじい様はその塔子さんに押しつけられた接待中で、会場の中にはいるけれども。オレのところへ来たのも一瞬で、ものすごく残念そうにしながら人混みに戻っていった。
「え、っと…」
 何か1曲と言っても…、ピアノだけバイオリンだけならわりとあるんだけど。
 とっさに思いうかばない。
「レン。月の湖のほとりで、はどうかな?」
 頭をひねったままもとに戻れないオレに、ディが助け船を出してくれる。
 それならもともとピアノとバイオリンの音を念頭に置いているし、秀さんとも良く弾いて、2台のピアノでもやれるようになっている。
「でもせっかくなんだから、もっとちゃんとした曲の方が。それにオレが混ざるより秀さんとディだけの方がいいんじゃないかと」
「それを言うなら、外れるべきはこちらじゃないかな。月の湖のほとりではふたりが作り上げたものだし」
「ごちゃごちゃと。2台とピアノとバイオリンによる協奏曲というのはないのか?」
 塔子さんの鶴の一声だ。
 ごそごそ言い合っていた口をぴたりと閉じて、3人そろってあります、と答えていた。これはもうなくてもつくる勢いだろう。
「あらあら、素敵ねえ」
 章子さんがのんびりと微笑む。
 その声に癒されながらも、オレを含めた3人は急いで控え室に下がり、口頭で音を合わせることになった。幸いというかなんというか、すぐに使えるピアノがあるって言うし、ディはエーメさんを呼んで楽器を運んでもらう。ヴァイオリニストにとってヴァイオリンは命のようなものだから、大抵エーメさんが預かっていて、今日もここまで持ってきていた。
「ほんとにやる…?」
「塔子さんのご希望だから、やらないわけにはいかないよ」
「レンのおばあさまにはお世話になっていますから」
 やってもいいでしょうか、とおじいさまにその旨を伝えたら、仕方ない、という感じでゆるしてくれる。
 だめもとだったのだけれども、あっさりしたものだった。話に聞くおじいさまと塔子さんの確執なんて、やっぱり今はもう、あってないようなものなのかな、と思うと、ちょっとほっとする。
 とにもかくにも、これはもうがんばって演奏をするしかない。
 3人で目配せし合い、それっ、とばかりに急ごしらえのスポットライトの下へ出た。



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