「andante -唄う花-」



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「…もしもし」
「もしもし、おはよう。昨日のパーティ、すごかったな」
 お越しいただきありがとうございます…、と反射的に続けそうになったオレに、広也の何を言っているんだ、とばかりのつっこみが返る。そのあとで悪い、起こしたかと言われて電話口で首を振った。
 確かに今起きたところだけれど、…寝過ぎた。時計を見るともう昼近い。
「…電話助かった、うっかり寝過ごした」
「いつも早起きな蓮にしちゃめずらしい。昨日遅かったのか」
「んー…ちょっとだけ。楽譜書いてたら、妙に目がさえてさ」
 といっても、日付をまたぐなんてすごいのは夢のまた夢。たぶん広也にしてみれば、早寝の範囲ではないかと思う。
 目覚ましはかけてたつもりだけど、たぶん名尾さん辺りが様子を見に来て止めてくれたのに違いない。名尾さんの方針は寝る子は育つらしく、特に起きなくちゃってとき以外は好きなだけ寝ていてください、というふうなのだ。
「楽譜って、昨日聴かせてくれた?」
「うん…」
 ふわあとあくびをもらしながら、カーテンをひらく。
 今日も良い天気だ。うーんと背伸びをしながら、いつも通りの明るい広也の声に耳を澄ました。
 まさかああいった形で弾くことになるとは思ってもみなかったけれど、やっぱりプロはすごい。秀さんやディのアレンジが耳について離れず、パーティが終わってからそれを楽譜に書き起こしたりと、夢中になってしまった。
 そのことを話すと広也は興味深そうに頷き、しみじみとした様子で口をひらく。
「もうホントにびっくり箱だよな、蓮って」
「ええー?」
「あの後もひっきりなしにすごい人ばっかり挨拶に来るわ。もてもてだし」
「んー…? …すごい人?」
 あの後って、確か来てくれたのは桜朱恩関係だったような。ナギ姉がそばにいてくれたし、塔子さんたちもいたから、誰もオレと話してても疑われないのがありがたいな、と思ったのは覚えている。
 でも起き抜けで頭が回らないせいか、はっきりと思い出すことが出来ない。みんな相変わらずの見慣れた感じだったし、でも、言われてみれば迫力というか貫禄みたいなのが増していたかも。
 もてもて部分は…その、いつまでも小さな妹扱いなので。
 なんてことでしょう、かわいいわ、と言う眼差しが降り注いでいたのは確実だ。言葉がなくても読み取れるのは、ある意味、残念な能力かもしれない。知らずにいればいいことって、あるよな。たぶん。
 次会ったときに何を着せられるかがちょっと心配。
「でも何よりまずはあの演奏だよ。すごく良かった。魅了されたというか、めちゃくちゃ引き込まれたっていうかさ」
「…ありがと」
 突然行われた小さな演奏会は幸いにも好評で、アンコールで名の通った小曲を弾き、それでもなかなか拍手が鳴り止まなくてオレがつくった曲をもう1曲弾いて。
 秀さんもディも本業なわけで、ああいった形で一緒に弾いてもらえるなんてまずあり得ない話だと思う。でもふたりとも楽しかったからそれでいい、みたいに言ってくれた。改めて塔子さんのすごさと、秀さんとディの技術の高さを感じたオレは、圧倒される思いだった。
 ホテルから戻ってからも、どうにもおさまらずにベッドの上でごそごそ音符をいじってたのは、そういう熱にあてられたせいもある。今も気を緩めると耳の端からぽろぽろと音がこぼれ落ちていきそうなほど、あの時の興奮がまだくすぶっていた。
「そうだ…。ディのコンサート、広也は来られる?」
 以前ディがくれたチケット。その公演日が今日だった。
 ディはあの演奏の後、すぐに帰った。そんなふうに戻っていったところを見るとやっぱり無理して抜けてきてくれたのだろうと思う。昨日の今日だからディがちょっと心配だったけれど、やっぱり来て良かった、と去り際ディが笑ってくれたから、平気なのかもしれない、という気もする。
「もちろん。今夜だろ」
「オレね、ちょっと別行動でいいかな」
「…ん?」
「カオ兄がどうしても外せない用ができたらしくて。かわりにナギ姉が来ることになって」
 カオ兄も忙しい人だから。這ってでも行くとか最初は言っていたけれど、それだけの無理をするぐらいなら、お休みする時間をとってほしいと伝えたら、残念だけど見送るって話になって。
 開演前に広也たちと落ち合う予定でいたけれど、ドレスアップしたナギ姉を迎えに行かなくちゃいけないから、会うのは会場内でということになる。
 そう言うと広也は納得したように頷き、そりゃ仕方ないなと呟いた。
「昨日見てて、こりゃあ可愛くって仕方ないんだなぁって。三ツ原家は全員、蓮に目がないんだとよおく分かった」
「んー…」
「そもそもさ、改めて思ったけどおまえんち美形遺伝子強すぎるって。光り輝いてたぜ?」
「ああ、カオ兄きらきらしてたよな。眩しいぐらいだった」
「いやいやいや、会長だけじゃなくって蓮も」
「オレも?…あー、あの服はなあ、もうどうしようもなかったというか」
 カオ兄のきらきらとオレのきらきらとは全くの別だ。
 あの服はいわば職人さんの芸術品で、確かに見応えのあるものなんだけれども。オレじゃない誰かに着てもらうのがいちばんだと思うけど、あれ着てずいぶんと写真も撮ってしまった。
 まず、はじまる前に記念写真。相当大きなサイズで印刷するみたいな話をしてて。額に入れるとかなんとか。
 ふうんと聞き流してしまったけど、…額縁? 額に入れてどうするんだろう。まさか屋敷の中に飾られたりしないよな。そんなの飾るスペースは…あるけど合わないって。でもどうしよう。
 ぶつぶつ悩むつぶやきがうっかりもれてしまったらしく、電話の向こうで広也が苦笑いをうかべるのが分かった。
「おれたちの写真はふつうサイズでいいぞ」
「あ、うん。ふつうサイズな」
「あれ。もらえるんだ、冗談だったんだけどさ」
「うんん? 当たり前じゃん。広也が写っているんだからさ」
 はじまった後にも、ホテルの別室で写真を撮ったのだ。
 広也たちと4人でとか、三ツ原と世儀勢ぞろいでとか。
 そんな結婚式じゃないんだからさ、というぐらい、気合い入れたカメラマンが待ち構えてて、自然体のポーズを求められたり。自然体のポーズって言うとおかしな話だけど、まあふだんみたいな感じで、という。
「あ、もしかして肖像権? とかまずかったりするか」
 広也と会った父さんがなんだかちょろっと会社の話をしていた気がする。
 それっぽかっただけだから、オレの勘違いかも知れないけど。
「それは平気。隠し撮りされたわけじゃないし、かなり気をつかってもらってたから」
「もちろん、その辺のことはいちばん注意しなくちゃいけないことだからさ」
 オレは大きく頷いた。
 今どき写真なんてお手軽に撮れるものだけど、招待客の安全を守る、ってことにはそういうことも含まれてるって考えで、許可のない写真撮影にはかなり気をつけていた。
 といってもあの人混みだ。どれだけ安全確保できたかは分からないけど…、とりあえず大きな問題は何もなくつづがなく終えられたというのが、おじいさまと父さんの話だったから、たぶん大丈夫なのではないかと思う。
「蓮の写真なんてすごいプレミアつくだろうしな」
「プレミア…?」
 お披露目したとはいえ会社経営に乗り出すわけじゃなし、未成年だしで、確かに希少価値はあるかもだけど、まず売れるんだろうか。オレ単品なんて商品価値薄そうだけどな…。
 でも広也が言うなら名と顔が合致する商品ってことで、そういうこともあるのかもしれない。どこか遠い気分で相づちを打つオレに、広也もま、心配はないだろうけどなと言い足す。
「で、蓮。他にも隠し球があったりしないよな」
「え、…?」
「実は大統領と知り合いだとか宇宙船を設計しているとか」
「う、宇宙船って」
 個人で設計できるのか、と言えば、できるんじゃないのと広也はあっさりしたものだ。世界は広いなあ…。
 オレと言ったら、携帯電話のメールも打つのにものすごく時間がかかるせいで、みんなもっぱら電話してきてくれるような、機械音痴なんだから。メールの返信なんてなくてもいいし、あるいはひと言で充分なんて言ってくれるぐらい。いや、オレのレベルが低すぎるだけなんだけど。
「ま、それはともかく、たとえそうでも納得できるって言うかさ」
 ちょっとどきっとしたオレの動揺には、広也は気づかなかったらしい。
 オレはほっとしながら広也こそどうなんだよと冗談めかして、その後は笑ってばかりの面白楽しい話が続いた。
 そうしてから、じゃあまた後でと電話を切る。
 広也たちと電話で話していると幾らでも話せてしまう気がするけれど、あんまり長話はしない。お互いの時間があるから、というさばけた考えをしているのは広也で、和美や政春も似たような考えみたいだ。
 オレは携帯電話を静かに下ろして、サイドテーブルに置く。
 何とかごまかせたけど、隠し球というか、言えないでいることはあるなぁ…って思うと、ちょっと気が重くなる。
 …隠しごとなんて、誰にでもあるとは思うけれど。
 これまでだって小学校時代の話とかものすごく気をつかいながら話したりして、でも打ち明けられる類の話じゃないからと割り切るようにしていた。
 もやもやと胸の奥がよどんで出口が隠されたみたいな不安を感じながらも、オレはのろのろと立ちあがる。
 朝ご飯も食べていない体では、難しいことを考えても答えは出ないだろうから。
 別に広也たちを信じていないわけじゃない。でも、オレには打ち明ける勇気が出ないのだ。…たぶんそういうことだと思う。
 先延ばしすることに気は引けたけれど、ちょうどよく様子を見に来た名尾さんにこたえて、オレはとりあえず急いで服を着替えることにした。




「蓮。…蓮。…」
 ディが用意してくれた席は招待客用のいちばん良い席で、オレはすべての演奏が終わった後もそこから離れられないでいた。
 耳の奥から音の名残が響いて、ちっとも消えていかない。
 体のすみずみにまで、音が通り抜けていった気がする。少し意識をずらすだけで、聴き終えたばかりの音色がオレの中から鳴り響いていた。
 並べられた三連符。つづいて休符、そこから飛びはねるように音がはじけて散らばり。
 広々とした風景が、のどかでもの悲しい空気が、大きな波のように迫ってくる。
「こうなると周りの音が遠くなるらしいの。ごめんなさいね、先に行っておいてもらえるかしら。もう少ししたら動けるようになると思うわ」
「分かりました。じゃあ、先に行ってますね」
 ナギ姉の声と広也たちの声がする。
 でもそれは厚い壁を隔てているみたいに遠くて、聞きづらくて。すぐにかき消えてしまう。
 ここはどこだろう、と考えて、ああ、コンサートに来ているんだとぼんやり気づく。
「蓮、立てる?」
 つないだ手に引かれてそのままとろとろと歩き出すと、微笑んだナギ姉の顔が見えた。
 こんなふうに手をつないでいると、昔みたいだなぁと端っこで思いながら、体の中で鳴り響く音の流れを追いかける。
 ナギ姉はそんなオレに焦ることなくゆっくりすすんで、がらんとした客席を通り、みんなのいる方へ連れていってくれるのが分かった。ナギ姉はいつもそうだ。オレがうまく動けないときでもせき立てたりしないで、ゆっくりオレを導いてくれる。
 昔、幼い頃のオレにとって、ナギ姉はなくてはならない人だった。




 ときおり体調を崩していた母さんが長く入院するようになった頃の話だ。
「おかあさん、は?」
「わるいな、ちょっとだけ待っててくれよ。すぐ戻るからな」
「うん…」
 父さんはいつも目まぐるしく動きまわっていた。仕事の合間をぬって母さんの病院に通いつめ、そうしてまた忙しそうに仕事に戻っていく。
「おかあさん」
「蓮、いらっしゃい」
「うん」
 オレはあがったばかりの学校へあまり行かず、母さんの病室に入りびたることが多かった。
 きちんとランドセルを背負って家から学校に行き、そのまま歩きとおして病院に来ていたので、父さんはオレが学校が終わった後に寄っていると思っていたらしい。少しあれ、と感じることもあっただろうけれど、みるみるまに状態が悪くなっていっていた母さんを前に、その他のことを考える余裕がなくなっていたのだろう。
「音ないね」
「そうね」
 ふだんの母さんの周りにはたくさんの機械が置かれていた。母さんの声にかぶさるような単調な機械音があの頃のオレは少し苦手で。
 静かな部屋の中でほんの少し明るい色をにじませた母さんの顔を見ると、オレはとてもうれしくなったのを覚えている。
「少しお顔があかいわね」
「おかお?」
 母さんはオレの頬に触れて、額に手のひらをあてて心配そうに顔をのぞきこんでから、まったくふだんと変わらないオレの様子を見て少しほっとしたように微笑む。オレはよく熱を出す子どもで、母さんはよくオレの熱を確かめた。
 少しひんやりとした手だった。母さんの手はいつも水仕事のあとみたいに冷たくて、熱を出しやすいオレには心地よく、いつもずっとさわっていて欲しいみたいな、そんな気持ちにかられていたのを覚えている。
 逆に父さんの手はぽかぽかとあたたかく、気分が悪くて寒気がしても、それを忘れさせてくれるような頼もしさがあった。
「ねえ、蓮。ひとつお上の階に、こどものひろば、というのがあるでしょう」
「うん」
「そこで遊んでいていいのよ。お友だちをつくらなくちゃ」
「……ここ、いる」
 にぎしりめていたぬいぐるみを置いて、オレは母さんのベッドのそばに座り込む。
 オレはできるかぎり、母さんのそばから離れなかった。もともと大人しい子どもだった、というのもあるし、そうやって静かにしていればそばにいられる、というのも知っていた。
 けれども、出ていかなければいけない時もある。母さんの体調に良くない変化が起こったときがそうだ。
 その日もそうだった。
 オレは少しはしゃいでいて、いつもはそうっとあけるはずの扉を勢いよくあけて部屋の中に飛び込み。いらっしゃい、と笑う母さんの顔が、そのままみるみるまに青ざめるのを目の当たりにして呆然とした。
 これまでも具合の悪い母さんの姿は見ていたけれど、つねになく慌てる大人たちの姿に押し出されるように病室を出ると、何か良くないことが起きたのだ、ということは分かり、胸に刺さった棘がずしりと重くなるのを感じた。
 それまでは、ひとりで遠くにいってはいけない、と教えられていたし、病室にいられなくなってしまった後は、そのまま家に帰ることにしていた。
 帰る、と言えば、父さんが人を呼んで車に乗せてくれる。もうはっきりとは覚えていないけれど、近所に住んでいたおじさんだったのか、とにかく誰かが必ずそばに来てくれて、そういった人と一緒に家に帰った。
 でもその時は、ばたつく病室から逃れるように飛び出したままオレは、たまたま目に付いたバスに乗りこんで、誰にも言わずに病院を出た。
 そのバスに乗れば、おねえさん、に会えるのだとオレは知っていたのだ。
 その頃の三ツ原家とはごくたまに、年に1、2回会えばいいような、そんな付き合いだった。母さんに連れられて、おねえさんことナギ姉を連れた響さんと会うのは、家族で会うそれよりも少し回数が多く、オレははじめて会ったときからナギ姉にとても懐いていたらしい。
 カオ兄は幼稚園から小学校へあがってあまり会えなかったし、トオ兄は年が離れていたせいもあって、当時のオレから言えば少し遠くて。
 幼稚園に通っていなかったナギ姉に遊んでもらうことが、オレはとても好きだった。
 ナギ姉はオレと同じように小さくて、でもオレと違ってしっかりしていて、頭が良くて、どんなに困ったことがあっても難なく打ち勝ってしまうような、そんな印象を持っていたように思う。
 でもそれも、ナギ姉が学校へあがってしまってからは会うことができなくなり、オレはさびしくてたまらなかった。
 あまりしょっちゅうは会えないのだと、迷惑がかかってはいけないのだと。うすうすそういったことは理解していたつもりだ。だからそれまでは決して会いに行こうとはしなかった。
 病院と桜朱恩とが路線バスの範囲内だったのは、そもそも母さんの病気が分かって越してきたためで、子どもにとっては果てしない冒険のような距離も、今までの離れ具合を思えばだいぶ近く感じられた。
 鍵と小銭を入れた小さなポーチを握りしめ、真剣な顔をしてバスに乗り込むオレに、どこへ行くのかと聞いてきた人がいたような気がする。オレは学校へと答えて、降りるべきバス停を教えてもらい、そのまま無事に桜朱恩までやってくることができた。
 とはいえ、来られたからと言って、おいそれと入れるような門構えでもないし、以前に連れてきてもらったこともあったけれど、その時にも会わずに遠くから眺めて帰るのが常だったので、オレはそれからどうすればよいのかを知らなかった。
 途方に暮れて。でも会いたくて。
 ぐずぐずと鼻をすすりながら大きな門の前に立ち尽くすことしかできなかった。
「ん? どうした、迷子か?」
 そんなふうに声をかけてくれたのは、正門を預かっていた警備のおじさんだった。髪の毛の半分ぐらいが白くなったその人は、ひとりでバスから降りてきたものの、うろうろと歩きまわっては学園を見てうなだれるオレを見て、声をかけてきたらしい。
「…な」
「…な?」
「な、なぎねえ」
「ん? なぎねえ?」
 オレがじいっと学園を見つめるので、この子の姉が通っているのだろうと思ったらしい。
 ぐずぐずと鼻をすすりだしたオレを持っていたティッシュでぬぐいながら、おじさんはさてどうしようと悩んだようだ。たとえ家族であっても学内の生徒とは会うことは出来ない。前もって約束をとりつけ、確かに家族である、あるいはその許しを得た者であるということが分からなくては、奥へ通すことは出来なかった。
 かといってたったひとりでここまで来た小さな子どもを、そういうことだから、と追い返すのもためらわれたおじさんは、とりあえず該当の人物がいるかどうかを確かめるために、オレを警備室に連れて入った。
「お姉さんのお名前は?」
「………。なぎさ」
「そうかそうか。なぎささんな。何年生かなぁ」
「………。にねん、せい」
 学園に問い合わせを出しながら、うろうろしている間に転んですりむいた手足を見つけて、救急箱を探した。えらいなぁ、良く来たなぁと声をかけながら手当をしてもう大丈夫だと、おじさんはやさしい顔で笑った。
「そういや、おじょうちゃんのお名前は?」
「…れん、……」
「れん、か。いい名前だねえ」
 口数の少ないオレにも根気よく話しかけてくれて、おじさんは必要な情報を集めようとしてくれたけれど、オレはひとりで来たのか、親と来たのか、そういうことには一切口をひらかなかった。
 見知らぬ相手を警戒していたというのもあるし、オレはすでにいっぱいいっぱいで、何を言っていいのか、聞かれているのか分からず、言葉をうまくつくることができなかったということもある。
 そうしている間に連絡が付き、ナギ姉自身から、れん、という名前に心当たりがある、という回答を得られたおかげで、オレはとりあえず学内に通してもらえることになった。その当時からナギ姉はずいぶんとしっかりしていたしたし、三ツ原の娘の知り合いならば、すぐにオレの保護者との連絡もつくだろう、と思ったようだ。
「初めまして、レン。わたしはケイト」
「は、はじめまして…」
 シスターケイトとの出会いはそれが最初。学園に着任したてだったシスターケイトは、オレの手をにぎって手近な面会室に入り、手のひらと涙の後をあたためたタオルでぬぐってから、たっぷりと盛りつけたおやつを出してくれた。
「レンはいくつ?」
「…………」
「幼稚園生かしら。年長組さん?」
「…………」
 そんなふうに尋ねかけながら、いつまでもじっと座ったままオレを見て首を傾げ、おやつの中から1枚クッキーを手に取った。それをどうぞ、と差し出す。
 オレがおやつの方へまるで手を伸ばさないので不思議に思ったのだろう。
「食べていいのよ。誰も怒らないわ」
「…、……」
 知らない相手と向き合って座り、すぐ来ると言われたナギ姉もなかなか姿を現さなかったので、それは単純に授業が終わるのを待っていたせいなのだけど、オレには途方もない時間に思えて。
 知らない人からものをもらってはいけない、というのがオレに唯一分かることで、シスターケイトはナギ姉の学校の人だったから、どうにもその区別がつかずに、オレは凍り付いたように動けないでいた。
 そうやって差し出されて、食べて良いのだ、とはじめて理解し、おずおずとクッキーをかじる。じんわりと広がる甘さにぽろぽろと涙があふれた。
 いきなり泣きだした子どもにシスターケイトは大いに驚いただろうけれど、オレの頭や背中をゆっくり撫でて落ち着くの待ってくれた。
 そうやってシスターケイトに抱いてもらっている間にオレもだんだん落ち着いていき、クッキーを3枚ほど平らげたところで、ナギ姉が現れた。
「蓮、目がとけるわよ」
「な、なぎねえ」
 オレはぱっと立ちあがってナギ姉にはりつくと、べそべそと泣きだし、ナギ姉は慣れた様子でそれを拭う。
「三ツ原さん」
「シスターケイト。ごめいわくをおかけしました。蓮」
「あ、ありがとう、…ござい…ました」
 オレはナギ姉に促され、少しばかり舌を絡めながらそう言う。
 丁寧な話し方はナギ姉を見て覚えたものだから、板には付いていない。
「いいのよ。気にしないで。それより三ツ原さん、この子はどちらの…?」
「いとこです。こう見えて1年生です」
 それを聞いたシスターケイトは少しびっくりした様子になった。
 シスターケイトは僕をせいぜい4歳か、小さめの5歳ぐらいだろうと見ていたし、少なくともナギ姉の近くには従兄弟と呼べるような人がいないことを知っていたのだ。
「……聞いても良いか、分からないのだけれども」
「平気だと思います。シスターならばおゆるしいただけると思います」
 ナギ姉はそこで小さく声を抑え、ゆっくりと、でもはっきりと聞こえるようにそれを口にした。
「この子は、結おばさまの子どもです」
 息をのんだシスターケイトは、結さんの…、と小さく呟く。
 それはシスターケイトにとって、今いちばん行方が気になっていた人の名で、ごくごくひっそりと入院しているらしいと聞いたばかりだったから余計に、驚いたのだった。シスターケイトにとって母さんは知らない人ではなく、はじめてオレを見たときどこか既視感を覚えたのは、なるほどそういうことだったのかと思ったらしい。
 オレはナギ姉の言葉を聞いて、唇を震わせた。
「なぎねえ、おかあさん…。…、おかあさん…」
「病院にいたのね、蓮。…どうしたの」
「……、…きゅう、に」
 しゃくりあげながら話す。
 新しい家の庭に咲いた白詰草。母さんに見せたくて摘み、急いで病室に飛び込んでいった。それがいけなかったのだと、オレは思っていた。
 たどたどしい、とりとめのない話をナギ姉はよく聞いてくれて、青ざめ小刻みに震えていたオレのの手をしっかり握ったまま、ときおり頷いてくれる。オレはそれだけですくわれる気がした。
 すべてを聞き終えるとナギ姉はシスターケイトや他の大人たちと幾らか話をして、その日はそのまま帰ることになった。学校に迎えに来たのは響さんで、オレはナギ姉のいる学校だからナギ姉のお母さんが来たのだろう、とそれぐらいに思っていたのだけれど。
 学園側も塔子さんたちも、ずいぶんとこの出来事を重くみたらしかった。
 もしかしたら途中で事故にあったかもしれないし、事件にあった可能性もある。それだけではなく、あまりにも目が行き届いていないと。父さんはオレを迎えに行くことを許されなかったのだ。
 後々になってうっすら知ったことによれば、いちばん怒っていたのはじいさまだと聞いた。
「あなたは結を大切にしてくださると約束してくれた。世儀の家とも三ツ原の家とも縁を切ることになっても、必ず守り抜いていくと。その言葉には嘘はなかった。あなたは家族を幸せにするために、たいへんな力を注いできた。しかし、ひとりで成し遂げなければならないと思うあまりに忘れてはならないことを忘れてはいませんか」
 そう言ったらしい。それは違うと、父さんはがんばっていたと、言うのはたやすい。
 父さんはそれまでもオレを大事にしてくれていた。妻と子のどちらがより大切などと考えていたわけではないと思う。オレは父さんも母さんも同じぐらい好きだし、オレはただ、ナギ姉に会いたかっただけだ。
 でも実際にオレが殆ど学校にも行っていなかったことや、教育も世話も母さんに任せきりだったこと、そういった現状をはじめて知って父さんはショックを受けた。
 親子3人だけでやっていくのだと、そう覚悟し、奮闘していた父さんが悪いわけではない。誰にも責められるようなことではないとオレは思う。たとえばオレが同じ立場だったら、父さんほどがんばれたとは言い切れない。父さんには家族だけでやり遂げる強い信念もたくましさもあった。
 でも、さしのべる手があるのなら、それをとることも必要なことなのだと、父さんは思ったのかもしれない。そうしてその後しばらく、母さんの病状が落ち着くまではオレは三ツ原家に預けられることになったのだけれども、オレはナギ姉から離れられなくなってしまっていた。
 ナギ姉が少しでも見えなくなったり、遠ざかろうとすると恐怖が襲う。
 いったいどうしてそんなことになってしまったのか、詳しいことは分からないのだけれども。
 たぶん、病室を飛び出した後の母さんの状態があまり良くなく、あの日起きたことをゆっくり話すことができなかったこと、それがずっと胸の奥で引っかかっていたのが大きな理由だとは思う。
 オレのせいではないと言われても、やはりじぶんのせいでそうなってしまったのではという思いがつきまとい、その恐怖からいったん救ってくれたナギ姉のそばにいないと不安に押しつぶされそうになる。
 とはいえナギ姉だってずっとオレについているわけにはいかず、オレはしょっちゅう泣きすぎて熱を出し、倒れるようなことを繰り返していたため、日に日に体力が落ちていっていた。
 ふつうなら、オレを入院させて快復を待つほかないとは思うのだけれども、事情を知った学園から、引き離すことでパニックを起こすなら一緒にいさせてみればよい、という思い切った判断が下ったのは、たぶん母さんが桜朱恩の卒業生で、学校関係者に母さんの知り合いが多かったというせいもあるのだろう。
 オレはとにかくナギ姉と離れなくても良いというのがうれしくてうれしくて、浮かれていたように思う。ナギ姉と手をつないだまま一緒に出かけることが出来て、ここでお別れと言われることもなくて。
 でもそのときしていた格好が、ちょっとした間違いを引き起こす結果になったのは間違いない。
 男女の違いをあんまり理解していなかったオレがナギ姉の服を着たがったのだ、という説もあるけれど、その時のオレの髪はわりあい長めで、淡いピンクの服など着ればどこからどうみても女の子にしか見えなかった。
 かわいいからいいや、というのが、その時のみんなの考えだったみたいだ。
 ちょっと待ってください、と今のオレがいたら止めに入ったかも知れないけれど、その時のオレはまったくこれっぽっちも気にしていなかった。子ども同士で遊ぶことをあまり経験せずに来て、本来の年齢よりも幼い見た目だったオレは、実際成長が遅れ気味だったせいもあり、とにかく憧れのナギ姉と似たような格好ができるというのが、うれしくてたまらなかった。
 とにかく、そういったかわいい格好でナギ姉について学内に入り、ナギ姉と一緒に授業を受けたり、見学したりと過ごし、その間に渚さんの妹さんですって、という話はあっというまに広がって、従姉妹よ、ということになり、気づけば秀さんの親戚の子どもということになっていた。笹山蓮莉という名前はその頃付けられた。
 ちまちまと歩きまわってナギ姉の後を付いて歩くので、ナギ姉のクラスメイトにはひよこさんとか呼ばれていたような気がする。女の子の方が発達が早いせいか、体が小さく、体調を崩しがちなオレのことをみんな小さなお母さんのように見守ってくれて、オレは少しずつナギ姉とも離れていけるようになった。
 そのままごく自然な流れで桜朱恩の編入試験を受けることになったのだけれども、正直なところ、オレの学力は底の底だったのでちっとも授業についていけず、試験も受かるかどうか、とったところだった。
 とにかく必死だった。ナギ姉といたくて、はじめてできた友だちと離れたくなくて、父さんやナギ姉やトオ兄、カオ兄がそろって協力してくれたからこそ、オレは桜朱恩にいられたのだと思う。もちろん今となってはどこかで止めてくれ、という気がしないでもないけれど、桜朱恩での思い出はオレにとっての宝物みたいなものだ。
 桜朱恩に入ってほどなく母さんを失うことになり、オレはまただいぶ調子を崩したけれども、桜朱恩のみんながいたから、立ち直ることができた。
 今のオレにとって、桜朱恩のみんなやナギ姉は、とてもかけがえのない人たちだ。
 たぶん一生頭が上がらないのだろうし、こんなふうに手を引かれて歩いていると、昔を思い出して気恥ずかしいような照れくさいような、でもあたたかい、そんな気持ちになる。
「…蓮?」
「ごめん。ぼんやりしちゃって…」
 もう大丈夫、と言いかけたオレはそのまま動きを止めた。
「………わ、ゆきちゃん…?」
 頭の中が桜朱恩時代に戻っていたオレはそう呟いて、目を丸くした。
 あの頃の友だちの中でもいちばん仲が良くしてもらったゆきちゃん、白川雪乃(しらかわ ゆきの)はオレの視線の先で、ふっと振り返り、オレに気づくと嬉しげに目を細めた。



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