「andante -唄う花-」



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「オレも。オレも行く」
「蓮くんはここにいてね」
「そうだよ、レン。君は顔を知られているから」
 ディとカオ兄は残るとわけもなく思っていたのに、そのカオ兄たちまで行くらしい。
 勢い込んで立候補したけれど、返る言葉はにべもない。
 そういうディの方が知名度は高いって、とは思ったけれど、単純に相手に顔を知られているのはオレの方なので、ここは我慢するしかないのだろう。
 でも、どうしようもなく不安がこみ上げた。
「…無理しないで」
「大丈夫。わたしにも、レンを手助けする機会を与えてくれると嬉しいな」
「この街に不慣れな分は、ちゃんとカバーするからね。彼は音楽界の至宝だし。ちゃんと守るよ」
「でも、カオ兄。オレ、…」
 もう充分、みんなに手助けしてもらってるから…。
 ナギ姉以外はみんな出かけて、いいなあ…っていうのも、あるけれど。
 やっぱり申し訳なさが先に立つって言うか…。
「オレ…こんなふうに迷惑かけるつもりじゃ」
「ねえ、蓮くん。それぞれできることを持ち合う楽しさは、蓮くんだって知ってるよね」
 カオ兄はさらりと、でもオレの目をじっと見て言う。
 音浜祭の準備に関わってきて、そういう楽しさや、大切さは、身にしみて分かっていた。
 誰かに迷惑をかけることを心配する気持ちをきれいさっぱりぬぐい去るぐらい、みんながそろって取り組んだことのすごさや、頼もしさは今も記憶に新しい。
 でも…、と諦め悪くぐずるオレに、ナギ姉が口をひらく。
「帰りを待つことも大切な仕事よ。それに蓮はそろそろひと休みしないと、透兄さまに大目玉を食らうでしょう」
 こまめな休息、って言うのが、トオ兄との約束だ。
 分かっている。無理はしないし、できない。でも後ほんの少しだけ。
 そう思う気持ちを感じ取ったみたいにちょうどよくトオ兄から電話が入り、オレはびっくりした。なんというタイミング。勘が良いというのか何というのか。
 しどろもどろになりながら、トオ兄にもうちょっとがんばりたい案を提案してみたけれども、すげなく却下されてしまった。
「……分かった。うん。すぐに休む…」
 そんなふうに電話を切って、オレはなるべく笑顔でカオ兄を見送った。
「いってきます」
「うん。気をつけて。…いってらっしゃい」
 送るときは笑顔で。これは鉄則。
 手を振り返してくれるところまで、後ろ姿が見えなくなるところまで、雑踏の中の余韻がなくなるまで。と、後もうちょっとだけを続けるのは、せめてもの自己主張だけど。
 しばらく車にとどまって、戻ってくる顔がないのを確かめてから、手配してあったホテルへ向かう。
 トオ兄はちゃんと今日のことを知っていて、それでも、楽しめばいいって送り出してくれた。
 車の中で休むことも出来るけど、それでは不十分だから、って、ホテルをとってくれて。大げさだとは思ったけど、これはたぶん、トオ兄の唯一ゆずれない条件だったのだろう。電話口でも念を押されてぐらいだから。
「でもなあ…オレもかっこいい変身したかったなぁ…」
 護衛のお姉さんが用意してくれた寝間着に着替えて、ホテルのベッドにもぐり込みながらぽつりと呟くと、ナギ姉は小さく微笑む。
「いつだってレンはかっこいいわよ」
「蓮様は格好良いです」
「蓮様以上に格好良い人はいません」
 ナギ姉に続いて答えてくれたのは、護衛のお姉さんたちと一緒に部屋を守ってくれている警護隊の人たちだ。
 今回オレに協力してくれている世儀家の警護隊の中でも、第五と呼ばれる人たちはオレ専属なのだという。つかず離れず、いつでも守ってくれているらしい。
 第五の人たちはみんな優しくて、オレをとっても可愛がってくれていた。オレとしては、何だか頼りになる兄やらおじさんやらがいっぱい増えて、少し気恥ずかしいぐらいなんだけども、ありがたすぎて申し訳ないぐらい、オレのことを思ってくれる。
 そんなふうに大切に守ってもらうことなんて、何だか恐れ多い気がしないでもないけど。
 オレはオレのだめっぷりはよく理解しているわけだけども。
 せめて少しでも報いることが出来るように、ちゃんとしていたいと思う。
 トオ兄の言うとおり、思っていたよりも疲れていたらしく、1度瞼を閉ざすと、水に沈むようにするりと眠りに落ちた。色々と考えたいこともあったのに、それが全部後回しになってしまうのがいやだったけど、こればかりはどうしようもなかった。




「…ん、れん。…起きて」
 ぼんやりと目をひらいたオレの顔をのぞきこみ、カオ兄が頬にかかるオレの髪をかきあげる。
 寝起きに見るカオ兄って、夢の続きでも見ているみたいだ。
 思わず手を伸ばしたくなるぐらい、すごくきれい。
 カオ兄に手伝ってもらいながら体を起こし、部屋の中を見回した。
「広也たちは…?」
「ヒロヤはまだ外にいるよ」
 ディが微笑む。
「ディ…。おかえり…。大丈夫だった?」
「もちろん。カオルもヒロヤたちも元気だよ」
「そ、っか。良かった」
 オレが眠りこけている間にみんなはずいぶんと精力的に動きまわってくれていたらしい。
 集められた情報を見ていくと、頭の中でひとつずつパズルのピースを合わっていくのが分かる。点と点が繋がっていくと、分からなかったことが分かっていく。
 ゆきちゃんが感じていた違和感。
 オレが抱いたささいな印象。
 それがすべてひとつのことを指し示していく。
 答えが導き出されていくごとに、どんどん気持ちが落ち込んでいくのが分かった。
 堪えきれずにため息をひとつ吐くと、頬にそっと手のひらが触れた。オレを気づかうナギ姉の微笑みは、いつも通りの華やかさで、見ているだけで励まされるけど。
「蓮…。知っているでしょう。仕方がないことよ」
「ん…、でも…さ。ナギ姉、オレ…」
 お姉さまたちの中には家とはまったく関係ない人と出会って幸せに家庭をつくる人もいる。
 でもこんなふうに、残酷な現実に向き合わされると…、ただくやしい。
 オレは調べることを選んだけれど、ゆきちゃんはそうしなかった。
 そのどちらが良いとか悪いとかではなくて。
 ただ、そういうふうに、大切に守ろうとした思いがあるんだって分かってもらいたかった。
「守りたいのでしょう」
「…………」
「そういう気持ちがあるなら、お友だちのためにがんばりなさい、蓮。あなたは桜朱恩の卒業生だもの。きっとやれるわ」
「…うん」
 ずずっと鼻をすすると、気づかわしげなカオ兄とディに肩と手を引き寄せられた。
 オレ、涙腺弱くなってるな。
 もっとちゃんとしないと、だめだ。
 今は泣いているときじゃなくて。やらなくちゃいけないことがある。
 凛としたナギ姉の言葉に後押しされて、オレは姿勢を正す。
「連絡をとりたいところがあります」
「かしこまりました。まずはどちらに?」
 素早く応じてくれる警護隊の人たちに希望を伝える。
 それがうまく行くかは、たぶんオレ次第だけど。やるまえからべそついていても仕方ない。そう割り切ることが、今のオレには必要なのだろう。





 そんなオレにも変身の余地はまだ残っていたらしい。
 ざっくりとしたシルエットの黒いジャケット。ボトムスは細身のジーンズで、かつらは全体的にふんわりとボリュームをもたせた長めのものを使う。
 大ぶりのサングラスをかけると、顔が隠れて大人っぽく見えた。
「蓮くん、格好良いね」
「ん。ありがとう、カオ兄」
 オレはお任せしてただけで、オレは何にもしてないけど。どうやらかっこいい変身、をコンセプトにしてくれたらしい。夜の着替えは本当は予定していなかったから、寝ている間に至急、手配してくれたのだ。
 昼間着ていたのとがらりと雰囲気を変えたオレの格好に、戻ってきた広也たちはすごく喜んでくれた。
「おおマジで、蓮?」
「いいよ、蓮。すごく見惚れちゃう」
「…ずいぶんと雰囲気が変わるな」
「蓮。口もと」
 褒められてとろけかけた口もとをはっと、引き締める。
 指導はナギ姉だ。同じように黒でまとめていても、ぴりっと具合が違う。
 オレにはちょっと荷が勝ちすぎるんじゃないかという格好も、こまめなナギ姉のフォローが入るので、何とか維持できるのだ。
「お手をどうぞ、レン」
「ありがとう、ディ」
 差し出された手を取って車を降りた。
 そんなふうにうやうやしげに扱われると、たまたま通りかかった人から視線が集まる。いったい何ごとだと思っているのもあれば、ディたちの姿にただ見惚れているような感じのもあった。
 何かの撮影なんじゃないのという声は、サングラスの威力を感じる。顔が半分以上隠れてるってすごい。学校にもサングラスで行っていいかな。…だめだろうなあ。
 ごみごみとした雑居ビルの通りに掲げられた看板を見据えて、オレは薄暗い階段に足を踏み入れる。ひとひとりがやっと通れるような細い階段だ。close と書かれたプレートを無視して扉に手をかける。
「こんばんは」
「あ、お客さん…悪いけどまだ準備…中」
 モップを握っていた男の口がぽかんとあけられる。
 そりゃ驚くだろう。オレの後に続いてぞろぞろと男たちが入り込んでくるんだから。
 机の上に載せられたイスの向こうに小さな扉を確認して、オレは真っ直ぐそこへ向かった。後ろから困ると声がかかったけれど、気にしない。
「失礼」
「はいはいちょっとお邪魔するよー」
「道あけてもらいまーす。うちのカワイイ子が通りますんでねえ」
 ディと広也と一ノ瀬さんの声が笑みを含んで、追いかけてくる男を押しとめた。
「え、ちょっとちょっと何」
「んんん、なんなのあんたら」
 中にいたのは20代そこそこといった感じの若い男たちで、オレたちを見るとあっけにとられたの半分不快そうな顔半分でソファから体を起こした。
 むせかえりそうになる煙草とアルコールの匂い。換気扇のスイッチが入れられて勢いよく空気がかき混ぜられると、ばたばたと大きな音が響いた。あんまり動かしていなかったのか、動きが粗い。
「こんばんは、地川さま」
「お? もしかして蓮莉ちゃん? どしたの、怖い顔をして」
 サングラスを外すと、うやうやしく広也が引き取る。さっきのディに触発されたみたいだ。
 覆いがなくなった目で、オレは真っ直ぐ相手の顔を見据えた。
「それおとり巻き? 隅に置けないなあ、イケメンばっかりじゃん。どこのホストクラブから引き抜いてきたの、そんな上玉さ。まあそっか、金にもの言わせたんだよなあ」
 相変わらず早口なしゃべり方の後に続く笑い声に、仲間たちもそれにならう。
 はやしたてるような声がオレを脅すように響き渡った。
 オレひとりだったら、勢いに飲み込まれたかも知れないけれど。残念ながら、オレはとても落ち着いていた。
「どうしてですか」
「どうして? なんのことかなあ、うーん。俺分からないんだけど、あ。もしかして俺のこと好きになっちゃったったとかさ。そういうことかなあ」
「残念ながらそういうことはありません。…理由を聞かせてください。どうしてゆきちゃんをだましたのですか」
「だました? あは、蓮莉ちゃんおかしい〜。さすがおじょーさま、難しい言葉を知っているもんだ」
「ぼくたちばかなのでワカリマセーン」
「おやさしい言葉でおねがいしまあす」
 オレの中は静まりかえっていて、相手からかけられる言葉にはひと筋も揺れない。
 それが分かっているからだろう。
 ふっと沈黙が降りると、相手の眉がひそめられた。
「あのさあ、お姫さま。あんたは何にもできないよ?」
 お姫さまときたか。
 まあ、今のオレにはずらっと騎士か何かのように守ろうとしてくれる人に囲まれているわけだから、あながち間違ってはいないかもしれない。
 ここにいるのは蓮莉であり、悲しいかな地川たちはオレが男だとは全く気づいていないようだから。
「あなたはある程度の財産がおありなのに。そんなに魅力的でしたか。ゆきちゃんのお金が」
「当たり前だろうが、は。お金っていうのは正義なの。分かるかなあ?」
「ははは。なよっちい男ばっかり連れやがって、ぼくたちだいじょうぶですかぁ?」
 ふうっと息を吐きかけた相手は柚木さんだ。
 ほんわりとほころんでいた柚木さんの唇がすっとつり上がる。
 何でこう、怒らせちゃいけない人にわざわざ声をかけるんだろう。
 誰よりここで弱いのはオレなんだから、相手を間違ってもらっては困る。
 オレは小さく息を吸った。
「黙れ。あなたたちには聞いていません」
 騒ぐ外野にぴしゃりと言うと、しんと静まりかえった。
「地川友数さん。あなたが目を付けた女の子たちを食いものにしてきたことは、分かっています。甘い言葉をかけ、気持ちを向け、恋人になれればよし。貢がせるだけ貢がせた後に世界が違ったのだと振る。なれなくても直接会って話した際の映像や会話を編集し、それを使って脅していたそうですね。恥を知らないお嬢さまだと言われなくなければと、こづかい程度を払ってくれればそれでいいと」
 確かにその額はさほど大きなものではなかった。
 でもそうやってだまされたことは、消えようがない。
「えー、俺なんか悪いことしたぁ? 人を好きになっちゃうのも嫌いになっちゃうのも仕方ないことだと思うしー、あんなの慰謝料だよ慰謝料」
「慰謝料。そう、おっしゃるのですね」
 へらへらと笑う顔にオレは頷く。
 そう言ってくれるなら、こちらもやりやすい。
「慰謝料を払ってくれないような相手には、お父様の名前を出せばいいと、そういうことですか」
 話がこじれたとしても、解決方法は幾らでもある。
 そううそぶいていたことを彼らの顔見知りたちから聞いている。広也たちが足で稼いできてくれた話は、かなりの量になった。だからこそオレは自信を持って判断することが出来る。
「蓮莉ちゃんはいけない子だなぁ。それだけ分かるんなら、俺にけんかを売ったらどうなるかも、かしこーい頭で理解しなくちゃ。君がどのお家の子か知らないけど、端から勝負になんないの。分かる?」
 あいにくと。
 賢さよりも堅実さがモットーの一般市民なので。
 微笑むと、オレの両脇に広也と一ノ瀬さんが立った。
「はいはーい」
「そのことについてひとつ、提案があるんだけどぉ。聞いてくれるかなあ」
 手のひらサイズのボイスレコーダーがぷつ、と音をたてて、録音していた音声を流した。
「"友数、何てことを。申し訳ない…。お詫び申し上げる。どうか"」
「"会長。どうぞお顔をお上げください。我々はご子息からの謝罪を受け入れる用意があります。ただ万が一、こちらの意に染まない結果になった場合、ご処置を任せていただけませんか。大丈夫、悪いようにはいたしません"」
「"ああ。…すべてをお任せいたします。しかしどうか公表することだけは"」
「"すべてはこちらにまとめてあります。この書類にサインをいただけますか"」
「はいこれ。コピーだけど、よーく見て。君が何をしてもかばわない、って書いてあるよね?」
 実際にそれをとってきてくれたのは遠見さんたちだ。広也たちも奮闘してくれたけど、これはもう後々まで先輩たちのすごさを語りたいぐらいだった。
 会話の全てを流す時間がないのがとても残念なぐらい、ものすごく爽やかかつ、隙のない口ぶりで話をまとめていく素晴らしさが堪能できる。
 オレは後でそれを聞かせてもらって、すごく感心したのだ。
 肝が据わっているというのか、交渉とはこんなふうにするんだなあって。
「他人事だと思うなっかれー。君たちの分もあるよー」
 一ノ瀬さんがひらひらと委任状を振ると、この場にいる仲間たち全員の、同じような内容を録音したものが流れ出す。
 これだけ早く集めることが出来たのは、みんながそろって協力してくれたから。
 探れば探るほどかつての悪行がでてくるのだから、なかなか興味深かかった。いったいどこまで出てくるのだろうと。さすがに幼稚園時代はいらないなあとは思ったけど、むしろその頃の方がはっきり覚えてます、なんて言う人もいたりして。
「みなさんずいぶんお困りみたいでした。限度を超えたやんちゃぶりだったようですね」
「てめえ、ふざけんな…っ」
 地川は赤く染め上げた顔に怒りを乗せて、飛びかかってくる。
 ぎらりと輝いた折りたたみナイフは、まるで時間が間延びしたみたいに、ゆっくりと振り上げられ、オレに向かってあきらかな敵意を伝えてくる。
 ほんの少し、顔か腕か。その辺りに傷を付けようとしているのだと分かった。
 広也たちの視線がオレをとらえ、かばおうと前に出るのが分かる。でも、ただでさえ狭い部屋にひしめきあっているのだ。下手に動くと、思わぬ結果を招いてしまう。それは良くない。
 大丈夫だ、というように広也を一瞬だけ見つめ、オレは地川にぴったり視線をはり付けた。
「…っ」
「……、!」
 腕をとって肘をあて、本来の腕の動きとは逆方向へと力をかける。人の体っていうのは、小さな力でも無理な方向へ曲げられると、かなり痛みを発する。それになれているならまだしも、大抵の人はそこで一瞬痛みに流された。
 地川の腕からナイフが落ちる。そのままずるっと体が滑り、床に尻もちをついた。
 オレは素早くナイフを蹴り込んでカウンタの裏に蹴り飛ばし、間合いをとる。
「な…ッ」
「………」
 どうして転ばされているのか分からない、といった顔をうかべる地川に、オレは鼻から吸った息を口からゆっくりと吐いた。
 お手本通りのなんの変哲もない技だ。
 警護隊の人相手に復習しているのを見たディはすごく感心してくれたけれど、運動不足を解消するために父さんが教えてくれた護身術は、筋力が弱くても、体つきに差があっても、逃げるための隙をつけるようにと考えられたもので、本当に強い相手の前では太刀打ちが出来ない。
 頭に血が上ってくれて助かった。
 父さんにはまったく歯が立ってないけど、隙を突くことだけはだんだんうまくなってきたように思う。
「てめえ…っ」
「はいはい、次のお相手はおれ。ひっくんが承ります」
 いきり立つ地川の仲間たちが次々にナイフを取り出して迫ってくるのに、広也が名乗り出る。
 それをきっかけにばらりと人影が散らばって、小競り合いの開始だ。
 混み合う中からすかさず抱き込まれて、後ろに下げられた。
「大丈夫だよ」
 カオ兄、でも、と言いかけた口は、そのままぽかりとあいた。
 まるで映画でも見ているみたいだ。広也は身をかがめたかと思うと鋭く掌底を相手の顎に打ち込み、ナイフを持った手首を打ち払う。
 和美はその場で飛び上がって相手の肩を踏んづけたかと思えば、そのまま首根っこに腕を回して床に引き倒し、政春はあっというまの早業で相手の胸ぐらをつかむと一本背負いだ。
「あ、ディ…っ」
 ディはやめておいたほうが、と止めかけた声はそのままやっぱり停止する。
 両腕をきっちり守ったまま長い足をすっと振り上げたディの蹴りが太ももに入ると、相手の体が吹き飛んでソファにめりこむ。ほこりの舞い上がり方からして、かなりきつく入ったらしい。
「あーん、狭いよー」
「遊ぶな」
 一ノ瀬さんがにこにこ笑いながら振りかぶった相手の前で屈むと、遠見さんが相手の腕を払い、立ちあがった一ノ瀬さんがさすがの動きで、つかみかかってきた相手をそのまま引き倒す。
 柚木さんはオレの隣でそれをにこにこ眺めながら、そばにあった重そうなお酒の瓶をひょいっと放り投げた。
 それはものの見事に後ろから狙おうとした男の足にめりこむ。膝から力が抜けてかくりと沈んだ相手に、近くにいた政春がすかさず動いた。よく見れば少し前に柚木さんを挑発した相手だ。ぽーんじゃなくて、どすっ、ぐらいの瓶のめりこみ音が響いていていたのは、その程度で良かったと思うべきだろう。
 人壁をすりぬけて殴り込んできた地川はカオ兄の微笑みを真っ正面からのぞき込んで一瞬動きを止め、そのまま悠然と近づいたカオ兄のかかとを顔にめり込まされた。
「お兄さま。えげつないですわよ」
「蓮様を狙われたのですから、仕方ありません」
 それを見たナギ姉が護衛のお姉さんと一緒にのんびりそんなことを言っている。そんなナギ姉もナギ姉で、お姉さんと一緒に時々スプーンやらフォークを投げて援護だ。主な役割は逃走防止だけど、もしかしたらこれがいちばん脅威かもしれない。いや、壁に刺さっていたりするから。冷静に考えてそれは怖いんじゃないかと。
 それにしても、なんでこんなに強いんだろうこの人たち。
 それなりに荒事にも慣れているだろう顔ぶれを感心するぐらい鮮やかに床に沈めていく。
 ほどなくして怒号がうめき声に変わり、まとめて縛られ隅っこにまとめられた顔を、オレはゆっくりと見回した。ひとりだけ顔に足形をつけた男の前に近づき、その顔を見下ろす。
「地川さん。もう2度と、ゆきちゃんにも他の女の子たちにも悪意を持って近づかないと約束してください」
「は。被害者はこっちだよ。向こうが引っかかってきたんじゃないか。訴えてやる。後で後悔するのはそっちだからなッ」
「…どうやって?」
「はあ?そんなの決まって…ッ」
「あなたには何も出来ません」
 オレはきっぱり首を振る。訴えれば勝つのだと思っているのだろう。少なくともそういった噂が立つだけでも、こちらが困ると。
 確かに彼にはもともと生活に困らないだけの財産もあるし、それなりにツテもある。懇意にしている弁護士に話を通すことは出来ないのだとしても、腕が良く、お金で動いてくれる人を新たに雇えばいいと考えるのは、当たり前だった。
 でもそれは認めない。オレが、はばむことにした。
「あなたの口座はすべて凍結されています。またあなたの保有している自動車・株・土地、すべて正式な手続きに基づき没収済みです」
「そんなことできるわけねえだろうが」
「お好きなんですよね」
「は」
「権力を使って脅すのが。使えるものは使う、という考えもある意味正しいかと思いまして、真似しました」
 どうやったのかを一部だけかいつまんで説明すると、想像以上に地川の顔が青ざめるのが分かった。
 何が有効なのか、って人によって違うんだなというのが良く分かる。オレ、それほど大したことはしていない。たとえばそれをしたと思われるのだとしたら、それはオレの力ではなく、周囲の力だ。
 今回のことがこれで済んだとして、また後々同じことをしてもらっては困る。
 それにはどうすればいいだろうと考えていたとき、オレのもとへ1本の電話が入った。
 桜朱恩の理事長からだった。
「蓮は悩むだろうと思ってな。やり過ぎないように、なんて気にするな。めいっぱいむしりとって来い。有効活用してやるぞ」
 うちの生徒に手を出すやつは尻の毛の永久脱毛してやらねばならん、と言っていた。
 うん。…理事長、電話の後ろでシスターが一生懸命、蓮さん耳を塞いでくださあいいと叫んでいた気がします。最終的にはこっちが耳を塞がれてあっちは口を塞がれて、みたいな会話になってしまったわけだけど、理事長っていうのはこう、オレを入学させたぐらいなのですごく、思考が柔軟というかなんというか。
 発破をかけられたのもあり、オレはやれるだけのことをやってみようと思ったのだ。
 それで、考えたあげくに決めたことは、ある人と連絡を付けること。
「うわぁ、…まじで直接会いに行ったのかぁ」
「うん。行った」
 話を聞いた広也は驚いた顔になったけど、困ったことが遠慮なく来なさい、って言われてたから。
 ベスの散歩で、時々会うこともあったし、お家を使わせてもらうときに改めてごあいさつをしたその人は、さすがにこんな話を持ち込んだオレに驚いただろうけれど、まるでそんな素振りも見せなくて。
「章子さんの旦那さん、すごくいい人だった」
「ん。って、つまり、高ノ原のおじいさんってことだよな、…」
「……確かあの方、…」
 たぶん誰でも知っているだろうすごい人だ。
 地川たちもそのことに気づいたらしく、青ざめるのを通り越して顔が白い。
 高ノ原って改めてすごいよなあ。あんなに立派なおじいさんの孫でも全然それを気にした素振りもないし。
 あ、一応訂正しておかなくちゃいけないかな、と思ってオレは言葉を足した。
「今回みたいな小さなことに直接動いてもらったなんてことはあり得ないので。恨む相手は間違えないでください」
 ちゃんとオレを恨んでくれ、と言ったつもりだったけど、全てを言い終える前に一ノ瀬さんが割ってはいる。
「つまりだ。けんかを売った相手を間違えると、こういうことになるんだぜ。分かるかー? こっちにまたいらんちょっかいをかけてみろ」
「ぺちゃんこになった体がもう2度とふくらまなくなるよ」
 それはそれで何だかおかしな言い方ではあるんだけど。どこの誰にも恨むな迷惑をかけるな、という路線変更は、何ごともなくうまくいったらしい。そりゃそうだろうなあと思う。
 柚木さんがほわほわした笑顔でそれを言うものだから、こわい。
 相当に恐ろしいです。
 こんな笑顔を向けられた日には、素敵な悪夢が見られる気がする。
 でも、高ノ原のおじいさんたちに手伝ってもらったことは認めるけれど、それはほんとうにちょこっとだけで。恨むならオレひとりを恨んで欲しい。
 全部任せてもらっていいって言われたけれども、オレにできることはオレがしたいです、って言ったら、章子さんの旦那さん、なぜかすごく楽しそうな声で、じゃあ魔法の言葉を教えてあげよう、って言ってくれたのだ。
 のろのろがびゅんびゅんぐらいの速度で書類が動くから、って言っていた通り、オレがお願いしたことがあっという間に正式な手続きを通して完了した。
 カタツムリにロケット用の加速装置がついたみたいだった、とか、和美が口にして、みんながうんうん頷いていた。
 カタツムリにつく推進装置って、どんなだろう。
 まず小さいな。それで、宇宙服みたいな覆いも必要だ。
 なんてちらっと思ったことはともかく、なぜだか思っていた以上に衝撃を受けているらしい相手の顔を見た。これで気持ちを改めてもらえるなら、凍結解除できるよ、って言おうと思ったけれど、その辺りのことはオレがすることではなく、もっと手強い人たちの判断待ちになるだろうし、はっきりしていないことだからと思って口をつぐむ。
 そんなオレの沈黙をどう感じのたのか、相手ががっくりうなだれた。
 本当にぺちゃんこだ。
「後は我々が」
「…お願いします」
 後片付けまでできたら良いんだけど、もうだいぶ遅い時間になってしまったし。警護隊のみなさんの申し出をありがたく受けてから、外へ出る。
 外へ出て、オレは小さく息を吐いた。
 全部終わったんだなあ、という気持ちは、徐々にしぼんでいく。
 喜べるはずがないのだ。
 車が近くまで見えたところで、オレはがばっと頭を下げた。
「オレのわがままに付き合ってもらって、ごめんなさいっ」
「わ?」
「おお…?」
 こんなに遅くまで、つまらないことで迷惑をかけてしまって。
 本当ならオレひとりで始末を付けるべきことだった。それなのにみんなを巻き込んで、奔走させて。おまけにその間、オレは休ませてもらっていたりして。
 それはやっぱりとても、情けなくて、申し訳ない。
 そう言うことを途切れ途切れに言うと、みんな、少しだけ押し黙る。
「蓮はそういうところが律儀っていうか」
「水くさいとも言うかもね」
「気にするな。お互いさまだ」
「みんな楽しんでいたよ」
「そうだぞー、気にすんな」
「ああ。なかなか味わえない充実した時間だった」
「こういうのって、面白いと思うよ。時々やりたいぐらい」
 みんながそろって、からかうみたいなおもしろがるみたいな笑みをうかべてくれるのを、オレは呆然と見つめた。
 でも…、とオレは言葉に迷う。
 すごく危ないことや。厄介なことや。
 そう言うことに巻き込んだ責任は、オレにあって。それで…。
 うまく言葉が出ないオレに、みんなが微笑む。
「お礼を言うなら、わたくしからです」
「ゆ、ゆきちゃん!?」
 オレは不意に現れた人影を見て、本当に驚いた。
 帰ったと思ったのに。
 いやたぶん。1度戻ってから、また来てくれたのだろう。
 ゆきちゃんはオレに近づくと深々と頭を下げる。オレにもみんなにも。その後ろで前澤さんや運転手さんだろう人もそろって、腰を折っていた。
「お調べいただいたことや店内での会話、すべて伺わせていただきました。すべてはわたくしの油断がもたらしたことです」
「そ。そんなことない…っ」
 オレは大きく首を振った。
 こんなふうに声を張り上げたことなんてなくて、少し語尾が震えてしまう。
「これは、オレが勝手に…。ゆきちゃんの思いも聞かずに…」
「確かに、前もって話しておいて欲しかったとは思います」
「………っ」
「でもね、れっちゃん。わたくしは嬉しいの。そんなふうに気をつかってくれたれっちゃんの気持ちが。だから言わせて。今回のことはわたくしがいけなかったのよ」
「そんな。お願いだから、ゆきちゃん。オレは、ただ…ゆきちゃんや、桜朱恩のみんなに降りかかった悩みの種をどうにかしたいと思っただけで、それで、オレ」
 ゆきちゃんが悪いなんてことはない。
 それは間違いだ。
 そう言いたいのに色々な感情がせめぎ合って、喉に息が絡む。動揺するオレの背にカオ兄とナギ姉の手がそっと触れた。
「蓮くん。慌てなくていい」
「蓮。雪乃さん。こう思うのはどうかしら。犯人がいちばん悪い」
「…………」
「…………」
 間違いないです。その通りです。
「うん、ナギ姉。そうだよね…」
「ええ。おねえさまのおっしゃるとおりですわね…」
 ナギ姉は無敵だ。
 ゆきちゃんは真っ直ぐオレを見て、小さな小さな笑みをうかべる。
 オレがどうしてゆきちゃんに言わなかったのか、そのことをゆるしてくれている。
 その上で、一緒にナギ姉の言葉を受け入れようと伝えてくれる眼差しだった。
 オレは…。…少し。
 気を張りすぎていたのかもしれない。みんなに嫌われたくなくて。守りたくて。
 もし次があるのなら。もっと上手に助け合うことが出来るように。そんなふうに考えられることが、大切なのかもしれない。
 ほころんだ空気に、一ノ瀬さんがずいと一歩前へ出る。
「美しい方々。我ら男たちはすべて、素敵な女性たちのしもべ。悪しき者より救うのが我らのつとめでございます。また何がありましたときには、いつ何なりとお申し付け下さい」
「……一ノ瀬さん…あのう、それはありがたいんですが、そこにオレも加えてませんか…」
 軽く膝を折って胸に手を当て、どこかの騎士みたいにさしのべる手はどう考えてもオレごと指し示している。
 それを指摘すると、みんなから、ぶは、っと笑いがもれた。
 明るい、楽しさのこもった笑い声だ。
 人影の少ない路地の中にひとしきり笑いが満ちて、オレも、ゆきちゃんも、ごく自然に笑みをうかべる出来る。そんなあたたかな空気を含んだ、みんなの微笑みだった。
 こんなふうに笑えるから。オレはみんなが大好きなんだなあって思う。
 オレもその中に加わって微笑むことができるのが、すごくありがたくて、嬉しい。
 オレはぺこんと一礼した。
「みんな、ありがとう…」
「ありがとうございます」
 一緒にやれたこと、すごく楽しかったこと。オレ、たぶん忘れない。
 頭を下げるオレに合わせてゆきちゃんや、カオ兄ナギ姉もならう。蓮に付き合ってくれてありがとう、という言葉はたぶんそれと意識したわけではなくて、みんなオレの保護者が板についているものだから、ついそうなったのだと思う。
 それを見た広也たちは慌ててそんな、とか、いえいえとか口走り、ひとしきり騒いだ後、誰かのお腹がぐうっと鳴って、みんな顔を見合わせた。
 夜食にしよう、とひとりが口をひらき、賛成とひとりが応えて、よしきたと動き出す。
 相変わらず息のあった動きがなんだかおかしくて、オレも笑顔をうかべた。
 みんながいてくれて、オレはとっても心強くて。だからほんとうに…。
 ありがとう、と、思った。



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