「andante -唄う花-」



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「ベス、よい子だなぁ」
 ベスの頭をもふりと撫でて、オレは庭の木陰に腰を下ろす。
 休日。オレはベスと一緒に庭に出ていた。
 千切れそうに振られたしっぽがなんともかわいい。思わずもしゃもしゃと撫でまわしても、ベスはわふんと鼻を鳴らすぐらいで、とっても嬉しげだ。
 きちんと手入れされた芝生は小さく光をはねてさせて、つやつやとした緑が眩しい。丹精込めて育てられた芝生は、裸足で歩きたいぐらいとてもきれいだった。
「蓮様、お帽子をお忘れですよ」
「あ、ほんとだ」
 追いかけてきた名尾さんを見て、オレは頭に手を乗せる。陽射しを浴びた髪がじわりと焦げそうだ。
 ここのところ、ぐんと気温が上昇して、夏めいた暑さが続いている。オレは帽子を受け取ってかぶり、雲ひとつない空を見上げた。
「いい天気だねえ…」
「さようでございますねえ」
 名尾さんもどうですかと誘って、いちばん大きい庭木の下で並んで座ると、オレと名尾さんの会話も自然とまったりとしたものになる。
 音浜祭からお披露目、ディの演奏会にちょっとした冒険。
 にぎやかな時間の後は至って静かな日が続き、オレはおじいさまと一緒に出かけたり、ベスと散歩にでたりして、のんびりと穏やかな毎日を過ごしていた。
 ここのところは体調も良く、しまいっぱなしだった自転車を出して、屋敷のまわりをひとまわりすることもできた。相変わらずのろのろ速度なので、走っている人に抜かれるぐらいのものなんだけれども、歩くよりは幾分早いから気持ちがいい。
「そうだ。名尾さん、昨日ね。おじいさまに花火に行こうって誘われたんだ。夏休みが楽しみだなぁ」
「それはようございました」
 にこにこと名尾さんが目を細める。
 お披露目が終わってから、おじいさまはちょっとしたおでかけに、オレをよく誘ってくれるようになった。
 学校帰りにお茶したり、お店に行って小物を見つくろってくれたり。
 まだまだかくしゃくとしてオレよりずっと早い足取りをふっとゆるめて合わせてくれるのが、すごく照れくさくて、ありがたくて。ごくさりげなく、どこへ行きたい、なんて聞いてくれる。
 はじめはオレも、お忙しいおじいさまに合わせて動こうと気をつかっていたけど、むしろオレの希望にそうのがおじいさまの良い気分転換になっているらしいと気づいてからは、ほんの少し、わがままを言ってみる、というのか、オレの楽しみに付き合ってもらう、というのか、そんなふうにもするようになって。
 それで連れていってもらった楽器店では、おじいさまは何もかも珍しい、みたいな顔をしながら熱心に付き合ってくれた。
 ずらりと並んだメトロノームに驚いた顔をして、今じゃ手のひらにすっぽりおさまるような小さなものまであるのか、と言っていた。これまでおじいさまはオレの趣味なんて、興味なさそうだったから。どれを使っているのか、なんて聞かれて、すごく嬉しくなった。
 今までだってしちゃいけないとは言われていなかったけれど、やっぱりじぶんの好きなものを、面白いな、って言ってもらえるのはどうしようもなく胸が弾んで、顔がゆるんでしまう。
 オレは秀さんから簡単な調律をこなせるように仕込まれているので、おじいさまに聞かれるまま、ピアノの仕組みを説明したり、この番号の弦はこういった音でという実演をしたり、たっぷり時間をかけて店の中を堪能した。
 そこは秀さんが贔屓にしている店だけあって品ぞろえもよく、オレとも顔なじみだ。おじいさまの質問にも丁寧に答えてくれて、初心者でも分かりやすい説明を心がけてくれたらしい。
 らしい、と言うのは、その日は探していた楽譜が手に入ったということで、ちょっと見せてもらうだけのつもりがついついのめり込み、ああでもないこうでもないと担当の人と話し込んでしまったから。おじいさまはあきれたんじゃないかと心配だったけれど、怒っていなさそうだったのでちょっとほっとした。同じだけ反省もしたけど。せっかく来てくれたおじいさまを放置なんてとんでもなさ過ぎる。
 おじいさまはうなだれるオレに本当に好きなのだな、と言って、穏やかに微笑んでくれた。
 オレはその顔を見て、ちょっとどきりとした。そんな顔をされたおじいさまをはじめて見たから。
「名尾さん。おじいさまさ、…」
 言いためらうオレに、名尾さんはいつもどおり優しく相づちを返してくれる。
 オレは急に声がつまった口を閉ざしたまま、元気いっぱい庭を駆けまわるベスに目を留めた。
 花火を見に行こうと言ってくれたおじいさま。
 オレの趣味に付き合って、それを興味深く眺めてくれたおじいさま。
 それはとても嬉しいことだけど、どこか後ろめたくもある。
 おじいさまがそんなふうに変わられたのは、オレが入院騒ぎを起こしてからなのだ。
 本当ならばオレのことを後継者として、立派な世儀の人間として、と望んでいたおじいさまならば、ああいうオレの姿に失望してもおかしくない。がっかりだと、期待はずれだと、そう思われてもおかしくないことだった。
 世儀の跡継ぎとしてお披露目してしまう案というのも、実際のところあったらしい。多少不安な要素があるとしても、親戚の中から適当な人を選んで、オレの補佐としてつけてしまえばいい、とか、そういう話もあったみたいなのだ。少なくともそうすることを周りの人たちは望んでいたのだと。
 けれど結果的におじいさまは、待ってくれて。
 広也たちがそれとなく語ってくれたことによれば、こんなふうに先延ばしにするのはとても珍しいことなのだという。おじいさまの性格的にも、あるいは世儀の名の規模的にも。
 今まで離れて過ごしていたオレより、広也たちの方がおじいさまのことをよく分かっている。おそらく、オレでは分からないことも広也たちなら気づけるのだろう。
 そんなことはない、ってみんなは言ってくれるけど、オレ、経済界がどうこうって言われても分からないし、おじいさまのこともまだちゃんと分かっていないな、って思う。
 会社で見せる顔と家で見せる顔のどちらがより正しい、ってわけではないし、片方を知らないからいけない、ってことはないとは思うけど、おじいさまに関して理解が足りなさすぎると感じるのだ。
 だってオレ、…入院なんて、慣れたものだった。話に聞くのと実際に見たのとは大違いだったということだとしても、まさかそんなふうに、体調を崩したオレを目の当たりにしたからっておじいさまの何かが変わってしまうなんて、ちらとも思っていなかったのだ。
 誰もそのことを指摘したりなんかはしないけど、あのあとから家庭教師の数や勉強時間も減らしてくれて、体調がいちばん大事だ、って、言ってくれて。
 オレは平気だと言ったのだ。
 やれますって。勉強もおじいさまが望むとおり続けて、跡継ぎの大役はこなせなくても、何か世儀家の助けとなれるようにがんばりますと。
 でもおじいさまは頑として受け入れてくれなかった。オレはもうじゅんぶんやっているから、余計な分を外しただけだって。これまで通り期待はしているし、活躍を望んでいる。ただしそのことが全てじゃないし、元気で笑っている姿を見る方がずっといいって。
「オレ、おじいさまにすごく申し訳ないなぁ…って思って…」
「おやまあ…。近頃浮かない顔をされていたのはそのことでございましたか」
「ん…」
 浮かない顔って言うか、あんまりそれは見せないようにしてきたつもりなんだけどなあ。さすがに名尾さんにはもろバレだったらしい。
「蓮様が気に病むことはなにもございません」
「でも、名尾さん。オレがもっと…ちゃんとした、広也たちみたいな…そんな孫だったら、おじいさまに余計な負担をかけさせたりはしなかった…」
 オレだって、少しは、おじいさまの役に立ちたいって思う。
 おじいさまの気持ちに、精一杯応えたい。
 でも、考えれば考えるほど役不足すぎてへこむと言うのか。そんな感じもあった。
 無理や無茶がぜんぜんできなくって、気をつかってもらってばかりで。ちっともおじいさまの期待にそえていない。
「なにをおっしゃいます。そのようなこと、大旦那様が思うはずがございません。蓮様は蓮様だからこそ良いのですよ」
「それは、おじいさまがやさしいから」
「いいえ、一概にそうとも言い切れません」
 きっぱりとした声に、オレは驚いた。
 名尾さんならおじいさまとの付き合いも長いし、亡くなられたおばあさまをのぞけば、おじいさまのやさしさをいちばん良く理解している人だと思う。
 でも続けられた名尾さんの言葉は、もっともなことだった。
「大旦那様は厳しい方です。ご自身の判断によって大勢の方の一生が左右されてしまう、そういった事実をお心に重く据えて、様々なことに取り組んでまいりました。それは時に、ひじょうに冷たく堅苦しいととられるようなことであったと、わたくしは思っております」
 いつも通りのさらりとした口調で話す名尾さんの声に、オレはじっと耳を傾ける。
 会社のトップに立つ存在としておじいさまのことを話す名尾さんを、オレははじめて見た。だから余計に、ひと言も、あるいはわずかな表情さえも見逃したくなくて、オレは沈黙を保つ。
「堅実に、確実に、それが大旦那様のやり方でございます。人によってはそれを何のおもしろみもないやり方だと、おっしゃることもあります。独創的な発想に基づいた革新的な経営、そういったものが持つ力は多くの人を惹きつけるものですし、素晴らしいことだと大旦那様も認めておいでです。しかしながら人には向き不向きというものがございますから」
「…………」
「他人様の土俵にあがらずとも、やれるところをやればよい。大旦那様はそういったお考えをお持ちです。それはもちろん、妥協ではございません。それをやろうとすれば、少なくとも成功させるためには、かたくなまでにそれを押し通す、決意と覚悟が必要です」
 おじいさまは大抵それをひとりでやり通してきた。
 早くにオレのおばあさまにあたる人が亡くなってからは、さらに熱心に、時には冷たいほど厳しく。
 それはどちらかといえば革新的タイプの父さんとは意見が合わず、衝突する原因ともなったらしい。結果的にそれは、1度はそれぞれの道に分かたれることになったきっかけになったのだと。
「大旦那様はご自身をいたわりや思いやりという言葉とは縁遠い、冷たい人間だと思っておられました。他人様から言われるとおり仕事だけがすべてで、家を守ることだけしか考えていないのだと」
 そこで名尾さんは少しだけ押し黙り、何かを懐かしむように目を細めた。
 それは遠い昔のことのようでもあったし、つい最近のことでもあるように感じられた。
 そうしてから、名尾さんはオレを見て口もとをふわりとほころばせる。
「蓮様がお生まれになって、大旦那様は少しだけ変わられました。まずはじめに、可愛いと感じられた。愛おしいと思われた。そのことが大旦那様には少し気恥ずかしく、そして、とても嬉しかったのでございます」
 おじいさまはたったの1度だけ、生まれたばかりのオレにこっそり会いに来たらしい。
 ふだんは着ないような服を着て、顔を隠すように目深に帽子をかぶって。
 病院の新生児室をそうっとのぞいていたおじいさまは、顔だけ確認したらすぐ帰るつもりだったのだけど、気がついた看護師さんがオレのそばまで連れていき、抱かせてくれたのだと。オレは少々小さく産まれたため、保育器に入っていた。まるで壊れもののように小さく、儚く、けれどその重みと熱さに、おじいさまは数瞬、呆然としていたのだという。
 おじいさまは気づいていなかったから言わなかったけれども、そのとき少し涙ぐんでいた、と名尾さんは内緒話をするみたいにそっと告げる。
「その後も表だって態度を変えられる、ということはありませんでしたが、今でもおそらく、あのとき感じた蓮様の重みは大旦那様の中に残り、息づいていらっしゃるのでしょう。ひとつのことをつきつめ、ご自身も厳しく律してきた方だからこそ、はじめて感じることができた自然ないたわりや慈しみが、とても大切なものだとお感じになられたのです」
 そのおじいさまが、オレのことを他の誰かのようだったら良いのにと思うはずがない。
 そう名尾さんははっきり続ける。
「大旦那様はああいう方ですから、1度決めたことをまげることはなかなかしませんし、できません。それが最良の選択だと理性で分かっていても、家の都合でふたたび旦那様を呼び戻す勝手さや、蓮様に対する申し訳なさというものがおありになりました。それでも、表向きそれを出すことは今さらできない」
「………、オレ、おじいさまのこと、好きだよ。たぶん親父だってそうだと思う」
「蓮様がそんなふうに思ってくれることを、大旦那様も感じておられました。だからこそ蓮様がもたらしてくれるそういった自然で、理屈のない気持ちが、あともう一歩を踏み出す勇気を大旦那様に与えてくれたのです」
「…………」
 オレは名尾さんの顔をじっと見上げてから、ゆっくりと考える。
 理屈ではないもの。自然な気持ち。
 それはたとえば、オレがベスに感じるものとも似ているかもしれない。
 守りたい、ともにいたい、と思うような。
 ただそうなのだ、というだけのシンプルな感情。
 家のことや役割や、そうしたことも大切だけれど、はじめにある気持ちに立ち返ってみる。そんなふうにしてみる、あともう一歩。
 そうやって考えれば、ほんの少し、気持ちが楽になれる気がした。
 もっとたくさんおじいさまのことを知っていかなくちゃというところはあるけれど、おじいさまが軽々しく考えを変えないこと、1度こうと決めたことには厳しく向き合うこと、そういったことはオレでも分かる。
 だからその上で決めてくれたことに、オレはオレらしく向き合うほかない。
「ありがとう、名尾さん」
「どうか自信をお持ちくださいませ。蓮様なら、大丈夫でございます」
 妙に力づよい名尾さんの言葉につられるようにして微笑み、オレは頷いた。
 やりすぎたかもしれない、とか、どこかで間違ったかもしれない、と思うことは、ついつい気持ちを後ろ向きにしてしまうけど。
 やりすぎた、うん。
 間違えた、うん。
 それは次にすることがまたできた、ってことだから。オレ、おじいさまにも笑ってもらえるように、がんばっていきたい。
 よし。
「オレ、ちょっと散歩に行ってこようかな」
 気分を変えるには散歩がいちばんだ。
 散歩という言葉に反応したのか、ベスが戻ってきてぱしぱししっぽを振ってから、急にきびすを返す。
 そのままどこへ行ったかと思ったら、リードをくわえて戻ってきた。その後ろから慌てたようについてくるのは、ベスの散歩担当の人だ。そうしてオレの顔を見るとなるほど、という顔をうかべる。
「ご一緒いたしましょうか」
「いえ、ちょこっと歩いてくるだけなので」
 ベスの散歩に行くんじゃなくて、オレの散歩だから。
 ベスにちょうどいい散歩の長さはオレにはちょっと長いときがあるので、途中で交代したりと気づかってもらっているけど、今日はもう行ったよな? と首を撫でると、ベスはなんだかちょっと得意げな顔で、はふんと鼻を鳴らした。




 いつもの散歩コースを行こうかな、と思いつつ、ふっと思いついて違う道に入る。
 この辺りはお屋敷通りとでも言うのか、大きめの家が多くて、緑がたっぷりあるお庭が多い。高い塀に囲まれてはいても、そこからのぞく木の端っこが道ばたに木洩れ日を落としていた。
 日陰の道を通りながら、オレはきょろりと周囲を見渡す。
 学校まで車で送ってもらうときに一瞬のぞく暗がりがあって、いつも気になっていたことを思い出していた。とても細い通りで両脇をぴたりと木の塀に囲まれているから、薄暗くて奥が良く見通せないのだ。べつだん、何てこともない路地だとは思うけど、妙に目について。1度確かめてみたいと思っていた。
「あ、ここだ」
 びっしりとツタに覆われた古い塀に見覚えがある。雨風にさらされた木の塀は黒く色を変え、それが余計に細道を薄暗くさせているのだろう。
 そろっと中に入ると、少しひんやりとした空気が肌に触れた。
 入って、いいんだよなあ? と、ちょっと後ろを振り返ってから、ゆっくり奥に進む。だれかのお家っぽかったら、そこで引き返せばいい。門らしきものは見えなかったし、もしかしたらどこかへ通り抜けられる道かもしれない。
 足もとの道には灰色の四角い大きな石が使われていて、つなぎ目にこけや草が生えていた。塀の向こう側から竹林がせり出しているから、あまり日が当たらないんだろう。
 竹や木が生い茂っているせいで、隣の家の様子はまったく見て取れない。ひとけがなく、ただしんとした中に葉擦れの音が響く。住人がいるのかいないのかさえ、はっきりとしなかった。
 そのまま少し進んだところで、オレははっとした。
「ここ、神社だったのかあ」
 赤い鳥居が見て取れた。
 もう少しだけ近づくと、狛犬の位置にいるのはおきつねさまで、かすれてうまく読み取れないのぼりに、稲荷の文字がある。
「ごめん、ベス。ちょっとここで待ってて」
 おきつねさまは犬を怖がるとか、顔見知りのおばあちゃんが言ってたのを思い出して、オレはベスを手頃な場所で休ませた。
 商店街のおばあちゃんとかは、商売繁盛とかの願をかけに神社やお寺に良く足を運ぶので、そういう決まりごとにけっこう詳しいのだ。
 オレ自身はよくは知らないけど、ベスにはちょっと待ってもらって、ひとりで奥へ入ることにした。
 ごそごそベスとのお散歩セットをさぐって、小銭入れを取り出す。はじめの頃はお財布なんていらないや、と思っていたのだけれど、携帯電話と一緒に置き去りにしてたら、そのどっちも持ち歩いておいてください、って言われてさ。
 万が一、というか、ちょっとした用のときに使えるからって。
 そんな遠出もしないし、行き先だってはっきりしているから、今まで使ったことはなかったんだけど。今回はじめて役に立った。
 名尾さんに感謝しながら5円玉を落として短く手を合わせ、ベスのところに戻ろうと後ろを振り返る。そのままオレはぎくりと足を止めた。
「…………」
 鳥居のそばに、人がいた。
 いや、神社なんだからよその人が来てもおかしくはないんだけど、気配がなくて。振り返るまでオレはその人に気づかなかった。
 チャコールグレーのトレンチコートに、目深にかぶった中折れ帽子。
 もしかして赤ん坊のオレにこっそり会いに来たおじいさまってこんな感じかな、とぼんやり思う。顔はよく見えなかったけど、背の高さや、体つきがなんとなくおじいさまに似ている気がした。
 その人はオレの視線に気がつくと、ひょいっと軽い仕草で帽子を手に取った。
「こんにちは」
 耳障りの良いテノールだ。
 オレはその人を見上げて、手にしていたお散歩セットをばさっと取り落とす。
「………!?…」
 オレの目がどうかしたわけじゃなかったら。
 何かしらの特殊技能が身についたというわけじゃなかったら。
 それか夢を見ているわけじゃないのなら。
「……お。おばけさん…?」
「うん。おばけです」
 その人はにっこり笑う。
 うわあ。おばけって、頷かれたけど。えっとおばけがおばけってじぶんのことを言ったんだから、その人はおばけなわけで、でも、オレにはちょっと区別はつかないけど、その、状況的にはそれで、でも。
 目まぐるしく考えながらもちっとも答えが見つけられず立ちすくんでいたオレに、相手が一歩動いた瞬間だった。
 ざわりと梢が揺れたかと思うと、急に視界がぶれた。オレの目の前に複数の人影が現れる。何ごとか分からないでいるオレのそばでその人たちから、押し殺した低い声が聞こえた。
「去れ。戻らぬという約定だ」
「急くな。我らとてそのことは重々承知している。ほんの数刻だけでいい。そなたらの主人に用がある」
「近づくな」
 片方は知らないけれど片方は分かる。
 オレの前に立つのは警護隊の人たちだった。
 相手とのやりとりをしているのは、南田(みなみだ)さん。おもにオレについてくれている第五警護隊の隊長さん。
 南田さんは常にない張りつめた様子で相手と向き合い、壁のように立ちはだかる他の警護隊の人たちにもそれが伝わるのか、厳しい表情をして油断のない構えをとる。相手側も同様だった。南田さんと向き合うひとりと、おばけさんをかばうように立つ人たちには、ひとすじの笑みもない。
 さっぱり分からなかった。
 戸惑う惑うオレの向こうで、すっと声が分け入る。
「おやめ。四番五番」
 大声と言うわけではないのに、耳に響く声だ。にらみ合っていたふたりもぱっと距離を取り、四番と呼ばれた相手側が一斉に地面に膝をつく。
 しかしと言いつのった第五のひとりを視線ひとつで黙らせたその人は、オレを見て目を細めた。
「蓮。君を傷つけることはしない。ただちょっと、一緒に来てもらってもいいかな」
「…………」
 オレにとっては、その人は、おばけのはずだ。
 でもその人のそばで千切れんばかりにしっぽを振っているベスにとっては、おばけなんかじゃない。
 今にも飛びついていきたいのを必死でこらえるベスの体を、その人がゆっくりと撫でる。とてもやさしい、慣れた手つきだった。
 ベスから伝わる喜びが、オレにどうにか冷静さを保たせてくれる。
「……おじさん」
「ん?」
「……で、良いんですよね」
 見間違いじゃない。勘違いでもない。はじめて会うけれども、オレはこの人の顔を知っていた。
 そう確かめるオレに、その人が頷く。
「なら、オレ。良く分からないけど、…行きます」
「お待ちください。蓮様。それは」
「南田さん。オレ、…おばけのおじさんと、話がしたいです」
「………承知」
 その人は。
 オレのおじさんだ。亡くなったおじさん。
 父さんが世儀家に戻ることになった理由。
「ありがとう。蓮」
 おばけのおじさんはそう言って、眩しそうに、嬉しそうに、オレを見た。
 オレには何が起きたのか、あるいは起きているのかさっぱり分からない。
 でも少なくともその笑みは、オレの目から見ても、生きている人のもののように思えた。



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