「andante -唄う花-」



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 オレのおじさん、父さんの弟であるその人は、吉春(よしはる)さんという。
 長男だということもあって色々と派手に語られる父さんとは違って、にぎやかな噂を引き連れているわけではなく、どちらかといえば大人しいけれども、音浜での成績も優秀だし、評判も良い。
 写真や映像の中で、やわらかな笑みをうかべた顔をよく見た。こまやかな目配りができる人だったらしく、お屋敷づとめの人たちによく声をかけていたらしい。
 誰に聞いても穏和な人だと言っていた。どんなことでも、鷹揚に受け止められる人だと。
 じゃあ父さんにとってはどんな人だろう、と思って尋ねれば、少しばかり思いを馳せるように黙り、ただひと言、すごいやつだ、と言っていた。オレは父さんがそんなふうに語る相手と会ってみたかった。話してみたいと思っていた。
 でもオレがおじさんの存在を知ったときには、それは同時に別れの日でもあり。オレは永遠におじさんと話す機会を失ったと。
 何の疑いもなく、そう思っていた。
「紅茶か、ココアかフルーツジュース、どれがいい」
「…え。えっと…じゃあ、ジュースがいいです…」
 おじさんは足取り軽く冷蔵庫に向かい、すかさず出てきた黒服の人がやんわりと押し止められて、残念、とか苦笑いしながらそのまま戻ってくる。家事スキル、絶賛鍛え中なのだけど、なかなかさせてもらえないって。どがつく下手でね、ということらしい。…かつての父さんを思えば、何となく予想はつく。
 黒服のひとりがグラスをふたつとジュースが入った透明なポットを運んできて、丁寧な手つきでオレとおじさんの前に注いでくれた。ローテーブルを挟み、向かい合わせで座るオレたちの前にフルーツジュースがふたつ並ぶ。
 顔なじみの警護隊のみなさんは、ちょっと怖い顔をしてオレの後ろに立っていた。南田さんだけ、オレのすぐそばで腰を下ろしているけど、隣にどうぞと言っても斜め後ろから近寄ってくれない。でもおじさんの後ろにもそんなふうにして黒服のみなさんが控えているから、そういう決まりなのかもしれなかった。
 オレが連れてこられたのはウィークリーマンションみたいなところらしく、いかにもとりあえずの住み処、みたいな空気が残る場所だった。使い込まれた家具などは一切ないし、食器も真新しいのが見て取れる。
「ありがとうございます」
 ジュースを受け取って口をつけたオレはちょっと驚いた。市販の味を想像していていたけれど、この味に覚えがある。名尾さん考案のオリジナルジュースだ。
 ほんのちょっぴり足した塩がうまく果物の味を引き立ててさ。もともとは名尾さんのおばあちゃんが考えたものだって言っていた。
「………あの、おじ、さん」
 オレは少しばかり緊張しながら、そう呼びかける。
 この味を知っている人は少ないだろう。
 名尾さんはいつもこのジュースを作ってくれるわけじゃない。特別なものだ。父さんは風邪を引いたときの味だって言っていた。これはうちの卵酒みたいなものだ、って。
 たとえば他人のそら似だとしても、年上の男の人に対してオレがおじさんと呼びかけても間違いはないんだろうけど。
 でもそこに叔父さんという意味を込めれば、気持ちだけでもやっぱり少し違う。
「吉春でいいよ」
「よ。吉春、おじさん……。その」
 これはハードルが上がったと見るべきか、下がったと見るべきか。
 でもこれで間違いないことがはっきりした。
 この人は吉春さんで、つまりは父さんの弟で、オレの叔父さんなのだ。
「…ひとつ、お尋ねしても良いでしょうか」
「うん。どうぞ」
「…あの、おばけの国から、よみがえられたんでしょうか」
「…うっ」
 思いきって直球を投げてみると、吉春おじさんは口もとを押さえた。
 やっぱり聞いてはいけなかったのかも、と危ぶむオレの前で小刻みに肩を震わせている。とても苦しそうな、まるで笑いをこらえているみたいな。
 …………。
 というか、笑って、…る。
 え…?あれ?
「ごめんごめん。つい、思い出して。兄さんの子どもだなぁと」
 こらえきれないみたいにくすくすと笑い声をもらして、おじさんは小さなしわの入った目もとを拭った。そんな、涙が出るぐらい笑わなくても。
 オレは毒気が抜かれたようにぽかんと口をあけて、こそこそとジュースを飲んだ。誰よりも父さんのことも良く知っている人にそう思われるなんて、妙に気恥ずかしい。
 ひとしきり笑った吉春おじさんはグラスの中に視線を落として、口もとの笑みを消す。でも、その眼差しはやわらかい。
「おばけになれ、って言われたんだ」
「…………」
「君のお父さんに」
 おばけになれ、って。
 どういうこと。おばけって、なれるのか。
 おばけ試験AとかBとかあって、それを受けて合格したらめでたくおばけに。
 ……いやいや、オレちょっと落ち着け。
 理解が追いつかないオレに、正しくは、とおじさんが続ける。
「家を捨てるつもりがあるのなら、おばけにすることもできる。って、ね」
 それは、それはつまり。
 おじさんを死んだことにした。
 そういうふうに父さんが仕組んだ、ということだろうか。
 今こうして、どう見ても死んでいる人には見えない姿を目にしているのだから、実は生きていたって考える方が当たっていると思う。…いや、オレはおばけには詳しくないので、もしかしたらおばけでもジュースが飲めたりコップが持てたり色々するかもしれないけど。
 でも、たぶん。この人はおばけじゃない。世間的にはそうだとしても。
「あの…」
「ごめんね、びっくりさせちゃって」
 思っていたよりも動揺しているみたいだ。吉春さんは立ちあがるとオレのそばに寄って、小刻みに震えるオレの手から、そっとグラスを外してくれた。
 あたたかい手だ。
 おばけの定義は良く分からないけれど、生きている人の手だ。
 そう思うと、堪えきれないものがあふれた。
 オレ、ほんとうに、この頃だめだ。すごく涙腺が弱い。でも、今は泣いてもいいだろうか。
 オレはとても嬉しくて。本当に嬉しくて、たまらないのだ。
「蓮…」
「す、すみ、ません、…」
 おじさんが手渡してくれたハンカチを借りて、あふれる涙を押さえる。
 会えたらいいなって思っていた。
 話してみたかったって思っていた。
 はじめて会ったのがお葬式で、それがお別れで、オレはおじさんのことを知ろうと思っても、人に尋ねるぐらいしかできなくて。
「オレ、嬉しいんです…」
 ものすごく鼻声になってしまった。
 それを聞きつけたらしいベスがすっくと立ちあがる。
 オレとおじさんの間に置いたラグの上で寝そべっていたベスは、真っ直ぐオレのそばにやってくると、べろんと頬をなめてくれる。
 ちくちく当たるベスの毛がこそばゆくて、オレはつい笑ってしまった。
「ベス…、だいじょうぶだよ。オレ、元気」
 笑顔を見せるとちょっと納得し、そのままラグに戻るかと思えばオレのそばに座り込む。
「ベスは蓮が好きなんだな」
 そういったおじさんは目を細めて、ベスを見つめる。とてもやさしい顔だ。まるで我が子を見るような、慈しみがにじむ。
 それはそうだろう。おじさんは子犬の頃のベスを知っている。それからずっと、そばにいたのだ。
「ベスのこと、ありがとう。…ずいぶん心配したけれど、蓮のおかげで立ち直ってくれた」
「いえ、屋敷のみんながいたからです。むしろオレの方がベスのおかげで、馴染んでいけたみたいな部分がありますから。…よかったな、ベス。また会えたな」
 本当はベスもおじさんと一緒に行けたら良かったのだろうけれど。そうできなかったんだろうな、と思う。
 おじさんもベスも、お互いのことをすごく思い合っているのが分かる。
 一緒にやってきたんだ、というつよさ、というのかな。そういうのがある気がした。オレにとってもベスは家族だけど、おじさんとの間にはもっと長い年月をかけてつちかわれた深い絆があるのだ。
 それはとても当たり前のことで、そこにはオレの知らない過去がつまっている。
 しばらくベスを挟んで沈黙が満ち、おじさんが少しだけオレと間をとった。
「蓮。すまなかった」
「………っ」
「このような形で無理矢理世儀の家に加えることになり、蓮には大変な苦労をかけたと思う」
 おじさんがオレのそばで頭を下げていた。オレはひどく慌てて、腰と手をあげたまま動揺する。
 おじさんに頭を下げられる理由なんて何ひとつない。慌てて顔をあげてくださいと、気にしないでくださいがまぜこぜになって、わ、とか、う、とか、うまく言葉が出なかった。
「わたしが名を捨てたことで、すべてを兄と蓮に押しつけてしまった」
「そんな…、オレも父さんも、気にしていないです。おじさんが元気なら、おじいさまも喜ばれます。あ、おじいさまは…その、このことは」
「ご存じだ。…この歳になってこのような不義理をするわたしを、お恨みかもしれないが。蓮。まずはわたしの事情を話そう」
 おじさんは思いつめたような気持ちを振り払うように立ち上がり、黒服の人からB5サイズのノートパソコンを受け取ると、さすが企業人といった手つきで素早く画面をひらく。
 当たり前かも知れないけどその手つきはとても慣れてて、キー操作ひとつとってもこなれた感じがする。
 いったいオレの機械音痴はどこから来たんだろう、と思うぐらいだ。ぼんやりそんなことを思いながら待つと、ほどなくしておじさんがそれを目の前に置いてくれる。
 夜の暗がりの中に埋もれるようにしてひとりの男が佇んでいた。
 そういった写真が数枚あって、どれも隠し撮りみたいな感じだ。光の具合かもしれないけれども、その人の目はまるで獲物を狙う獣のような金色で、獰猛そうな笑みが口もとに張りつき、全身から鋭く尖った空気がにじむ。
 こわい。でも視線を外すことが出来ない。
 そんな感じの人だ。写真に合わせてどこからか引用したらしい記事が並ぶ。
「この方は…」
「わたしの恋人だ」
「…そうですか、恋人で。…えええええっ」
「良い反応だな」
 おじさんは苦笑いだ。
 いやでもだってその。
 慌ててもう1度目を落としてみると、下の方に少し毛色の違う写真があった。公園かどこかの昼の光の中にいる。短く整えた黒髪に茶色の目だった。口もとに小さな笑みがうかんでいるけれど、その顔は驚くほど優しげで、リラックスしていることが良く分かる。
 たぶんこれだけ、隠し撮りではないんだろう。
 彼の目線の先に誰がいるのか。それを思って、オレはそばにいるおじさんを見つめた。
「金狼なんて呼ばれ方をしている、…非合法の塊みたいな男だ。リグ・シジマ。本名じゃない、ただの自称だ。半分日本人なんだと言うが、どうだろうな」
 当たり前と言えば当たり前だけれども、そんな話を聞いてもオレにはまるでぴんと来ない。
 おじさんの顔と画面を交互に見て、オレはベスに手を伸ばした。
 ベスのぬくもりが、オレを現実に引き戻してくれる。どこで何の話を聞いているのか、夢を見ているわけではないのか、そういったことが少しずつ落ち着いて、オレの中で定まっていけるような気がした。
「詳しい話は省くが、…これと生きるためにわたしはおばけになった。そうするしかなかった。こんな男と付き合いがあると知られれば世儀は破滅だし、彼も無事では済まなくなる」
「…………」
「なんでこんなやつに出会ったんだろうか、と繰り返し思ったよ。しかしな、どうしても離れられないんだ。ばかばかしいぐらい、お互いに傷つけ合ってな。いいかげん、あきらめた」
 別れるための試行錯誤ばかりしていた、と、おじさんは懐かしいような、少しばかり疲れのにじむような笑みを口もとにうかべる。地位も名誉もある。それまでいた場所に不満など持っていなかったし、真っ当に生きていくことに何の疑いも持っていなかったのだと。
 まるで予想もしていなかった事態、まさにそうだったのかもしれない。
 突然起きて、抗いようもなく巻き込まれて、混乱して。
「嫌悪してくれていい。相手は同性、おまけに真っ当とは言えない人間だ。危ない橋にすすんで寄る愚か者だとそしられても、わたしはそれを否定することは出来ない」
 オレはおじさんの横顔を見つめながら、父さんの言葉を思う。
 すごいやつだと言っていた。
 穏やかに語るおじさんには、急な川の流れのような激しさが閉じ込められていて、表面はせせらぎのように見えても、その中ではあっという間に人をさらう奔流がひそんでいる。
 それはオレや父さんにはどんなに真似しようとしてもできないこと。
 たったひとりのために、そこまでできるのかといえばオレはたぶん、できない。
 そうまでする気持ちを知らない、というのもあるかもしれない。
 でも、それはおじさんだからこそ、成し遂げられたことではないかとも思う。おじさんと、この人。ふたりだからこそ。
「もう2度と世儀とは関わらない。それを条件として、わたしはすべてを捨てた。名も家も過去も、丸ごとそっくりなげうって、こいつと生きることに決めた。ひどい人間だと思う。たったひとりのために、恩ある相手も作り上げてきた信頼関係も、みんな裏切った」
「…………」
 裏切りという言葉は、とても重く響く。
 ここでオレがどんなふうにおじさんに言っても、おじさんの中ではそれは裏切りという言葉でしか言い表せないんだと思う。
 でもそうなることが分かっていて、それを選び取り、受け入れた。そういうことだ。
「わたしひとりだけでなく、四番たちまで巻き込んでな」
「わたくしどもはそれが定め。どこまでも喜んでお伴いたします」
 おじさんの言葉に素早く、おじさんのすぐ斜め後ろにいる人が応じる。
 その言葉にはまるでよどみがなく、きっぱりしていた。
「……その。この方々は、警護隊の人たちなのですか?…第五の人たちと同じ」
 ためらいがちにオレが尋ねると、おじさんは少し悩むように目を細めた。
 その視線をオレの斜め後ろに投げかける。
「同じであり違うものでもある。なあ、南田。蓮には話しているのか」
「吉春様。我々はこの件に関して一切の口を挟まぬことをお約束しました。第四警護隊がそっくり抜けたことも不問に付した。逆もしかり。お気づかいは無用です」
 南田さんが静かに口をひらく。
 第四警護隊って…、おじさんについていた警護の人だ。
 本来は同僚、そういったくくりにすることもできるはずだけど、南田さんの声はかたい。きっぱりとおじさん側からの干渉を拒んでいる。
 その声に南田さんの差し向かい、おじさんの斜め後ろにいる人の眉がわずかに歪む。
「主人に仕えるのが我々の務めである。吉春様には何ら咎はない」
 たぶんこの人が、第四警護隊の隊長ではないかと思う。南田さんとは同格にあたるはずだ。
 けれどその人の言葉に反応を見せたのは南田さん自身ではなく、他の隊員の人たちだった。
「名を奪い、隠れ暮らすことが第四のつとめと言うか」
「ふん。念願の主人を手もとに迎え入れ、はしゃいでいる第五風情が何を言う」
「主人を危険に近づけて何が警護隊だ」
「なにを。そなたらの方こそ」
「双方…やめ。…蓮が驚くだろうが」
 ぴしゃりとしたおじさんの声にふくれあがりかけた熱が一気に鎮まる。
 急に始まった言い合いにびっくりしたのは確かだけど、何よりそう割って入ったおじさんの気迫に驚いた。
 別に大きな声をあげたわけじゃない。でも、おじさんの言葉はすっと体の中に響く。
 ずっと上に立ってきた人だからこそ、抑揚ひとつで場を従えることが出来るのだろう。精神的にも肉体的にも強靱なものを持ち合わせた警護隊の人たちでさえ思わず気圧されてしまうみたいだ。
 静けさが戻ると、おじさんは小さなため息をひとつ吐く。
 そうしてから、おもむろにオレの方を見た。
「蓮。実はな…。先日蓮が采配を取ったひと騒ぎで、うちのばかが盛り上がってしまって。ひとりで喜んでいれば良いものを、祝いをすると言って聞かないのだ」
「…………」
 先日のひと騒ぎ、ってもしかしなくてもゆきちゃん関係のあれだろうか。
 …あれぐらいしかないけれど、でも祝われるようなことは何もない。
 きょとんとしていると、おじさんは大きなため息を吐いた。あいつはまったく…、と呟くのは、恋人に対して、と言うよりは家族へのうんざり感がこもっている気がする。どんなにけなしても、最後の一線はきっちり繋がったままみたいな、そんな感じだ。
 それはとてもほほえましく、あたたかく。
 なんだかそのひと言だけでも、オレは妙に嬉しい。
 おじさんにとってその人は、恋人と言うよりは、もはや己の一部分なのだろう。
「わたしの甥っ子だからと、それとなく注意していたようでな。基本的に他人は他人だという、線引きがはっきりしているやつだから、時々思い出して眺めていたぐらいのようだが。あれがどうもツボにはまったらしい」
 ツボかぁ。何か変なこと、してたかな。…してたか。女の子の格好だったし。
 そうするとオレはおじさんにもおじさんの恋人にもあんな姿がバレバレってことかと気づいて、うわ、と思った。いたたまれない。穴があったら入りたい。いつもじゃないですからと言っていいのか、いや、いつもだったときもあるけど、そのっ。
「幸いあれの手回しが早くて、蓮の情報は押さえてある。裏ルートは、ということになるが、表はまあ、言わずもがだ」
 あたふたしているとそれを別の意味にとったらしいおじさんが安心するように、みたいな顔になる。
 何かの情報が漏れそうで、それを押さえてもらったらしい、ということなのだろうけれど。
 流れるルートは裏表ふたつあったってことか?
 言わずもがなって、いったいどこの誰がどんなふうに。できれば言っておいてもらいたいというか。いや…まずやっぱり、オレが不注意すぎたってことか。どんなに他人に見えても同一人物なわけだし、お披露目なんかしちゃった後だし、オレはもっと気をつけないといけなかったのだろう。
「すみません…。ありがとうございます」
 オレの桜朱恩秘密とか、あるものな。
 気をつけないといけない。
 誰かの迷惑になるのがいちばんいやだ。おじさんの…その、恋人には、感謝しても仕切れないかも。
 オレが頭を下げると、おじさんの向こうにいた第四警護隊の人たちがあっけにとられたような顔になった。
 ん? と思ったけど、誰も何も言わない。少しばかり沈黙が満ちた後、おじさんが微笑みをうかべた。
「蓮は怖くないのかい?」
「…えっと…、怖い、ですか」
「その記事は事実だよ。多少の脚色が入っているときもあれば、むしろもっと凄惨なときもある」
 オレは改めてモニタの中の記事に目を落とす。
 遠い世界。あるいは、何かの物語にあるような。そんなことばかりがたんたんと、あるいは派手派手しくつづられている。
 今はオレのことに興味を持ってくれていて、多少好意的に捉えてくれているのかもしれないけれど、ひとたび敵に回したら、こんな怖い相手はいないかもしれない。
 正直に言ってしまえば。そこはオレの知らない世界で。
「確かに…、怖いです」
「理解できない相手を嫌うのは当然の反応だ。無理しなくていい」
「いえ…。無理はしてない、です」
「本当に…?」
 オレはこくりと頷く。
 付き合い方を間違えれば大やけどする。
 オレの常識も一般論も通じなくて、こうではないかと想像も出来なくて。
 でも、こうも思うのだ。
「オレはつよくないです。腕っぷしもですし、たぶん…危ない目ひとつで、すぐに体がもたなくなる。でも…。この方はおじさんが選んだ人です。おじさんが一緒に生きていくと決めているなら、たとえオレとはそりが合わなくても、一生分かり合えなくても、オレの家族のひとりです」
「家族…ね。こんな男が身内なんて、とは思わないのかい?」
「オレ、欲張りだから。みんなに笑っていてほしい。俺の好きな人たちに、楽しいとか嬉しいとか思っていてほしい」
 すごいことはできないし、望めない。
 それでもオレは、誰かを守りたいし、そうありたいと願う。
 そう言うオレにおじさんは虚を突かれたような顔になる。
 そんなことをオレが言うなんて、思ってもみなかったというような。あるいは、それを恥じるみたいな、そんな顔だった。
「そばにいる人たちが幸せそうに笑ってくれれば、オレも嬉しいし。そういった相手が増えることがオレには何より嬉しくて。…できるだけ長く、たくさん、欲張りたいなって思うんです」
「蓮、…」
 ふわりと伸びたおじさんの手がオレの頬にあてられ、そのまま抱き寄せられた。
「そんなふうに言ってくれるな。先は長い。もっと多くの人と蓮は会える。…」
「吉春…おじさん。オレ、会えて嬉しい、です」
「……ありがとう。わたしも、蓮と会えて、本当に本当に嬉しい…。大きくなったな、蓮…」
 父さんとは違う感触だ。
 でも、どことなく似ている気がする。
 吉春おじさんみたいな立派な人でも泣くんだってはじめて知った。
 不思議とそれは、長く生きてきた人の複雑さじゃなくて、ただただ悲しみや喜びがこもっている気がする。たぶんこういうところに、おじさんの恋人は惹かれたんじゃないかな。
 オレのおじさんはとても真っ直ぐで、すごくきれいな涙をこぼす人。
 俺の手が届かない遠くにいる人だけれども、とても近しい。
 そんな感じがした。




「蓮様、お疲れではありませんか」
「はい…。大丈夫です…」
 まだ外は明るくて、ぼんやり外を眺めているとなんだか今まであったことすべてが夢みたいだと思う。
 夢じゃないんだけどさ。
 そのことはオレの中で、深くしっかりと焼き付いている。
 帰りの車の中にはベスと運転手をつとめてくれる警護隊のひとりと、隊長である南田さんしかいない。他の顔ぶれは他のルートで戻るのだという。一緒で良いんじゃないか、とは思ったけれど、やんわりと第四警護隊の人に押し止められた。喜び倒れますからほどほどに、だって。…良く分からなかったけど、おじさんも苦笑いしながら頷いていたから、どうやらそういうことらしい。本当に謎だけど。
 マンションから出るとき、おじさんは晴れがましいみたいな、何というか、ものすごく爽やかな笑顔をうかべていた。
 背後に並んだ第四警護隊の人たちはみんな片膝をついて頭を下げて、なんだか時代劇みたいで圧倒されてしまったけれども、驚くオレに、おじさんは彼らなりの礼なのだ、と言った。
「蓮が困ったとき、四番も手をさしのべてくれるだろう。彼らにとっての主人はひとりだけだが、忠誠を誓うのに値すると思えば、番違いであっても協力は惜しまない」
「あの…もしかして、…みなさんってボディーガードとは少し違う、んでしょうか」
 第四警備隊と第五警備隊が同じようで同じじゃない。
 そういった話を思い出してそう口をひらいたオレに、おじさんは微笑む。
「ん。どうしてそう思う」
「気配の消し方とか、その…三ツ原のお姉さんたちと違うから」
 ナギ姉についている護衛のお姉さんたちは職業人って感じの、なんていうか…洗練された技というのか、訓練を積み重ねた先にあるこなれた感じというのか、そういうのがあるんだけれども。
 南田さんたちはちょっと違う気がする。
「なるほどな。どう思う、滝崎(たきざき)」
「は、蓮様は我々が発する空気の違いを感じていらっしゃるようです。おそらくは生まれつきの聡さであられるかと」
「なるほど。その辺りはわたしと似ているところがあるのかもしれんな。心して仕えねばならんぞ、五番の」
「は」
 短く応える南田さんには何の含みもない。
 オレとおじさんとが話し込んでいる間に、いつのまにかお互いの警護隊の間にあった緊張感が消えているみたいだった。もともとは同じ流れにいる人たちだし、わかり合うことが出来ないわけではないんだろう。そう思うと少し嬉しい。
「蓮。彼らはな…、わたしたちが彼らを選ぶのではなく、彼らがわたしたちを選び、仕えてくれる。そういった一族だ」
 たったひとりの主人の為に尽くす。
 そのことを選び取った人たち、そういうこと、らしい。
 亡きおばあさまに仕えていた第二警護隊の人たちが墓守として過ごしているように、一生をかけてそばにいてくれる。そういうものなのだと。
「脅すわけではないが、彼らの人生もまた蓮の肩にかかっている、ということだ」
「そのように考えてもらっては困ります。我らは我らの喜びのため、お仕えしているだけのこと」
「と、まあ。このようにな。わたしたちがどう望もうとも一蓮托生なのだ」
 そうやってからかうように目を細めるおじさんは、もうすでにその覚悟ができているのだろう。
 守り守られる。ただそういうことだけではなくて、もっとつながりは深く。
 後で聞いたところによれば、おじさんとその警護隊の人たちはこれまででいちばん、そういったものが深いらしい。
 おじさんは本来ひっそり隠れている警護隊の人たちをことごとく見つけては、遊び相手にしていた強者なのだという。勘が鋭いとでも言うのか、だまされてくれないというのか。
 オレの場合はうっすらと気配の違いを感じる程度だけど、おじさんはどこに誰がいるのかまで適確に感じ取ってしまうみたいだ。だからオレが殆ど会ったことがない他の警護隊の人たちともわりと顔見知りなんだという。
 同じであって同じじゃないというのは、つまり、警護隊だからとひとくくりできるものではなく、それぞれの主人のために独立してあるもの、と考えた方が良いかららしい。
「にしても…まさか蓮が受け取ってくれるとは思わなかった」
 おじさんの妙にしみじみとした声にオレは首をすぼめる。
 穴があったら入りたいけどその穴はいくら増やしても足りないっていうか。
 おじさんとオレとが話していた大半はそのことだ。ゆっくり思い出話とかもしてみたかったけど、今回はすみやかにそのことを話し合う必要があって。
「過分なものだとは重々承知しているつもりです…。まさか島ひとつ贈ってくださるとは思ってもみなくて」
 つまりはそれ。
 おじさんの恋人がオレに祝いだと言ってくれたのがなんと島まるごとひとつだったのだ。
 だからこそおじさんはわざわざ、本来の取り決めを飛び越えてオレに会いに来てくれたわけで。
 勝手に処理しても良かったのだが、そういうことをするともっと面倒をかけてくるどうしようもないばかなので、ということだったけど、贈りものが島であることにはまったく気にした様子がないおじさんも、けっこう何というか、もしかして似たもの同士ではないかという。
「まあ、それだけ気に入っているのだ。あれもまさかこうなるとは思っていないだろうが」
 ちょっとしてやったり、という顔するおじさんだ。
 いや…。うん…。
 そもそも祝われちゃったそのことも、別にオレひとりがやったことではないんだけれども…、というより、殆ど広也たちががんばってくれたのだけれども、吉春おじさんの恋人がそんなふうによくがんばったな、と認めてくれるのはありがたくもあり…。
 おじさんいわく、権利関係とかきれいにしてあるので何の心配もなく使ってもらっていい、売り払ってもいいし、開発してもいい、と言うんだけれども、宇宙から写真が撮れてしまう今の時代に地図に載らない無人島なんて、なんだか空恐ろしい。
 正しくは載せない…というのか、そういった感じのものは他にもわりとあるらしい…。本当に何というか世界は広いよなあ。
「ずうずうしくてすみません…。裏の達人の方がご用意してくれたものなら、とつい」
「いや、…嬉しいよ。確かにあの島であれば、わたしたちのような立場の人間でも蓮たちと過ごせるだろう。しかし、裏の達人な…」
 おじさんは口もとを押さえて、笑みをかみ殺す。
 案外笑い上戸だよなあ、吉春おじさんって。盛大に笑ってもらっても構わないです…。とは思ったけれども、オレがしたのはただの提案に過ぎない。実際にがんばって動いてくれるのはおじさんや、警護隊の人たちになる。
 贈りものだと言っても島ひとつなんて、本当ならぜったいに受け取るわけにはいかない。オレにはあまりに荷が勝ちすぎる。
 でも、オレはふっと思ってしまったのだ。
 そんな地図にも載らないような島であれば、おばけであっても裏側の人であっても、立場のあるおじいさまみたいな人でも、ゆっくりすごせるのではないか、って。
 いくら世儀から完全に離れるためにやった苦肉の策だといっても、やっぱりオレは、このまま会えなくなる、なんてことは受け入れがたくて。できることなら1年に1度でもいいから、おじさんたちが父さんやおじいさまと話す機会があればいいのに、って思ったのだ。
 でもそれは、あまりにおこがましいことなのかもしれない。
 おじさんたちが覚悟をして決めたことだ。
 たぶんもっと違う案もたくさんあって、その中から決めたのが今回みたいなことで。オレがそこに口を挟んで良いことなんてなにひとつなくて。
 もっと会いたい、話したいっていうオレの気持ちは、おじさんたちの生活を狂わせてしまう可能性がある。だから、そろそろとお伺いを立てながらできれば… という、感じではあった。たったそのことのために島ひとつ確保しておくなんて、あきれた無駄づかいではあるけれど、この際それは…その、盛大にばーんと目をつぶってもらってと言うか。
 そういうことを切り出したとき、おじさんは目を見ひらき、第四の人たちは明らかに絶句していた。
「第五の御方はたいそう大物だな…」
「我らの蓮様であるからには」
 けれども第五警護隊のみんなはなぜかそう自信満々胸を張っていた。
 いや、その。ここはむしろ何をばかなことを、って文句を言うのが筋というか。
 でもそんな感じに和やかに話は進み。
「わかった。それで契約を交わそう」
 考え込んだのも1分ぐらいで、その後はさすがもと社長らしく、ノートパソコンのキーを叩いたり、どこかに電話したりをして、オレにも細かい話を振ったりして。
 だいたい整った、とおじさんが言ったのは、オレがそういうことを言い出してから1時間も経たない間だったと思う。第四の人が用意した紙と筆を受け取ったかと思うとさらっと文書をつくり、オレをちょいと手招いて、内容を確認してくれと言われて。
「この島の整備・維持はわたしが行うが、所有者は蓮だ。所有者である蓮の依頼を受け、わたしが島内・島外の環境を整える」
「はい」
 オレは脳みそを一生懸命動かしながら、内容を確認する。
 殆ど丸投げとはいえ、オレが言い出したことだから、しっかり確認しておかなければいけない。
 頷くとおじさんは顔を上げた。
「滝崎」
「…南田さん、お願いします」
 オレは小さく南田さんに頭を下げる。
 ふたりに確認してもらって、拇印をもらうとそれで契約は完了だった。
 世儀内での内々の取り交わしには、こんなふうにそれぞれの警護隊隊長に代印してもらうそうだ。そのことからしても、とても重要な位置づけにあるのが彼らだということが分かる。
 そんなことを思い出しながら、オレはおじさんと別れの挨拶をする。
「蓮、元気でな」
「はい、吉春おじさんも」
 ベスは…分かっているみたいだ。
 おじさんに首を擦りつけた後、当たり前のようにオレのそばに来た。
 もう少し生活が安定したら、ベスと一緒にいられる余裕もできるかもしれない。そうしたら、きっと。
 それまでにオレは心づもりをしておくから。だからそれまでは。
 ベスと一緒にいて、オレもすごく励まされて。だからもう少しだけそばにいたい。そういう気持ちが伝わったらしいベスはオレの手のひらをべろんとなめ、おじさんは優しげに笑って頭を胸の中にぎゅっと抱き込んで撫でてくれる。
 まるでそろって、大丈夫、だと言われたような感じだった。
 そんなふうに出会い、話して、オレはベスと一緒にマンションを出た。
 青野さんの運転はうまくて、いつもオレの送迎してくれている牧田さんみたいに車を走らせる。とても静かで、揺れが殆どない。
 車窓を流れる景色から視線を外し、オレは隣の南田さんを振り返った。
「南田さん…」
「はい」
「…。父さんたちには今日のこと、オレ、黙っておこうと思います」
 たぶんオレが黙っていても、すぐに伝わるんじゃないかと思うけれど。
 けれど尋ねられるまではオレからは言わないでおこうと思う。
「これはオレが勝手にしたことだから、父さんやおじいさまに迷惑をかけたくない。だから、せめて呼べることが確定するまでは…」
「蓮様の胸ひとつにおさめられるということでしたら、我らはそれに従います」
「…………」
「ですが蓮様。我らはいつでもおそばにいます。蓮様がお抱えになるどのような秘密も重荷も我らがともにお抱えいたします。どうかそのことをお忘れなきよう」
「…ありがとうございます」
 おじさんの言葉がふっと胸に過ぎる。
 彼らの人生もまたオレの肩にある、ということは、こういうことなのだと少しだけ感じた。
 それはとても身が引き締まる思いで、そしてそれ以上にとても心強いことなのだと。
「これからもよろしくお願いします」
 オレがそう言うと南田さんはみるみるまに顔をほころばせて、こちらこそ、と笑顔になった。



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