夏休み直前に行われた期末試験が無事終了して、教室内がどこもうわついた雰囲気になってくると、学生会の仕事はぐっと減る。 「あー楽でいいねー」 「広也、しゃんとしなよ。まだ終わったわけじゃないでしょ」 「そう言ってもさあ、和美。気が抜けるって」 広也はそう言ってローテーブルの上にべったりと懐く。 オレも政春もちょっと苦笑いをうかべて、広げていた書類を片付けた。 「お茶にする?」 「するする。蓮、今日のお茶菓子はなあに」 「プリンだよ」 このところちょっとご無沙汰だったせいか、ちょっとスが入っちゃったけど、まあ、味はそれなりだと思う。朝いちに味見という名のつまみ食いをしていった父さんが、ちょっとうれしそうだったから。プリン好きなんだよな、父さん。ゼリーはあんまり食べないくせに。 和美と手分けして器から外していると、どこからともなく匂いを嗅ぎつけたらしい一ノ瀬さんが現れる。 「おお、プリン。いいねえ、俺のは? 俺の」 「今外してますからちょっと待っててください」 一ノ瀬さんあの。手もと狂いそうです。背中からちょっと離れてくれていたほうがはかどるというか。 こちらもいい加減慣れてきたせいか、べったりのし掛かった重みに辟易しながらも構わず作業を続けるけど。 「またここか。手伝う気がないなら座っていろ」 これもまたいつも通りだと言えるかも知れない。 大きな足取りで入ってきた遠見さんが一ノ瀬さんの首根っこをつかむと、あっというまにずるずると引きずっていく。つくづく思うけどさ、けっこう大きな一ノ瀬さんをああまで簡単に運べる遠見さんってすごいよなあ。 一ノ瀬さんはプーリーンと騒ぎながらあっというまに見えなくなる。 お菓子の匂いを嗅ぎつけるのはいつも通りだけどさ、なんだかいつもより哀愁こもっていたみたいな。プリンには…魔力が……? 父さんといい…、他にもおいしいデザートはいっぱいあるんだけど、いつもよりテンション高い気がするような。 少しわたわたしながら、急いでプリンを外していると、ひょいと新しい顔がのぞく。 「蓮。このマフィンも一緒にどうかな。いただきものなんだけど」 「わあ、すごくおいしそうです」 とても小さなマフィンだ。せいぜいプラムぐらいの大きさで、チョコレートや、あるいはバジルなんかが一緒に混ぜ込まれたごはんマフィンなんかもある。 柚木さんが持ってきた箱をのぞいて、オレもつい口もとをゆるめた。おおきのを丸ごとひとつ、というのもいいけど、ちいさいのを選んで食べられるのもうれしい。オレも今度、こういうの作りたいかも。 それもお皿に移していると、隅っこで作業していたカオ兄がジューサーのふたをあけてにっこりと笑ったのが見えた。お手製の野菜ジュースは今日もうまく作れたらしい。…カオ兄の満足度はあんまり味に関係ないからなあ…。ちょっとどきどきするけど、材料的には大丈夫だ。その辺今回はきちんと確かめたから、変な味にはなっていないはず。 おやつと飲みものを運んで、みんなでテーブルを囲む。 「いただきます」 「いたただきまぁす。うわぁ、マジおいしんだけど」 「うん。蓮のプリン、おいしいね」 「一家に1人蓮がほしいなー」 「あはは。広也、オレ、分身はできません」 「そういう人工知能でも開発できたらなー。ま、本人がいちばんだけど」 「ああ。まったく残念だが」 残念だという政春の顔は真剣に残念そうだ。 いや、そこまで真面目な顔で言ってくれると、その。 「政春…? オレがふたりなんていたら大変だって」 今でもふだんから、目が離せないとか、見ていてひやひやするとか言われる、ぶったいなので。 たぶんもうひとりいたりなんてしたら、気が休まらないだろうというか。迷惑かけられるのも倍じゃなくて3倍ぐらいには増すと思われるというか。 「蓮くんの分身なんて許可できないよ。あぶないからね」 「いやいやカオ兄…、そう言う話じゃないから」 道行く人全員が振り返りそうな、どきっとするほどきれいな憂い顔で言うことじゃないから。 そもそも分身出来ないから。 「薫がふたりいるかと思うと、ちょっと困るけど、蓮ならいいな」 「わかるわかる。美人は3日で飽きるとか言うけどさー、こいつらの場合、たまには見たい顔とずっと見ていたい顔に分かれるよな」 ちょっと困るぐらいで済む柚木さんも相当美人です…。一ノ瀬さんも、今にも頬を落としそうな勢いでプリンを頬張りながら、言われても…。…それ、プリンか一ノ瀬さん好みの美人か選べと言われたら、プリン選びそうな顔です…。 「そういえば蓮は夏休み、どこかへ行くの?」 「あ、オレ、ひいおじいさまの家に行くことになってて」 あらかたおやつを食べ終え、お茶にうつると、室内の空気は更にまったりと穏やかになる。 柚木さんからふんわりとした笑みを向けられて、オレはそういえばまだ話してなかったな、と口をひらいた。 大抵オレの夏休みは日がな1日家で過ごして、それはもうのんびりと過ぎていくんだけど、今回はもうはや予定が決まっていた。 「ひいおじいさま?」 「手紙が来たんです。三ツ原のじいさまのお家から…」 「って、それはもしかしなくても…っ。って、あれ、なんだっけな」 勢い込んだものの後が続かない一ノ瀬さんに遠見さんが眼鏡の縁をついと指で押し上げた。 「ユール・ド・エルシュテット。先のエルシュテット侯爵は、一代で滅びの一途を辿っていた家を再興し、巨万の富を築き上げた方だ。その筋で知らぬ者はない。フランスの経済界の重鎮と言っても過言ではないな」 「気むずかしいことでも知られているよね。おひとりで城に住んでいるとか」 「すごい。遠見さんも柚木さんも詳しいんですね」 オレ、じいさまの実家は貴族とか言うらしい、ぐらいの認識だった。 だから改めてどういうお家なのかと聞いて、すごくびっくりして。ディも伯爵さまではあるけど、なんだか遠い話というか…。かつてひいおじいさまが住んでいるというお城へ行ったこともお会いしたこともあるらしいけれども、そんなにはっきり覚えているわけじゃないし。 「ひ孫の顔を見たい、ってことみたいで。まあ…オレはおまけなんですけど」 トオ兄とかカオ兄とかナギ姉とか。 間違いなくメインはそっちだと思う。 だから実のところ、遠慮しようかな、と思っていたのだ。ちょっと行って帰ってという距離でもないし、おじいさまのと花火の約束とか、広也たちと遊ぶ約束とか。できればそっちを優先したいな、と。 「オレ行かなくてもいいんじゃないかと思ったんですが、でも…おじいさまが、あっちの方が老い先短いだろう、って」 「うーん…。蓮のお祖父さまも言うようになったよなあ…」 広也が驚いた顔をうかべている。 オレが入学してからのおじいさまの話とか、広也たちには言ってあったから、その変化というか、そういうのにしみじみしてしまうらしい。 オレ自身もびっくりしたのだ。てっきりだめだ、と言われると思っていたのに、まるで冗談めかすみたいに、笑顔で背中を押されて。そういうことならば、早めに旅したくをととのえていかねばな、と張り切った様子で新しい服を頼んでくれたりして。 「じいさまにもできれば会ってほしい、って言われて…オレ、しばらく向こうに滞在することになったんです」 「それはすごいね」 じゃあもしかして会えるかな、という柚木さんも母親の実家であるイギリスに行かれるみたいだ。 日程的には会えそうで、オレはすごく嬉しくなる。いったんフランスに帰ったディとも、会えることになっていた。 ディはゆきちゃんとのお出かけの後、フランスに戻ったのだ。一緒に来る? なんて笑っていたけれど、こんなふうな形で向こうへ行くことになった、と報せたら、すごく喜んでくれた。 「遠見さんたちはどこかに行かれるんですか」 そうやって水を向けて、オレはすごく驚いた。みんな国内も海外も精力的に動きまわるらしい。 せっかくの長期休暇、有効利用しないとな、と一ノ瀬さんが朗らかに笑ったけれど、もしかしてのんびりだらだら過ごすつもりだったのはオレひとり…? でも学校がお休みでも、国内にいなくても、みんなと会えるかもしれない、というのは、とてもうれしい話だった。 「蓮。喉は渇いていないか。水分はまめにとるようにな」 「うん」 手渡されたペットボトルを受け取って、少しだけ水を飲む。 離陸後しばらくは書類を見たりして仕事をしていたけれど、今は一段落ついたらしい。オレの方を確認して、まめまめしく面倒を見てくれる。 フランス行きの飛行機は幾らか前に離陸して、今は安定した高度を飛んでいるらしい。 オレの隣にトオ兄が、通路を挟んだ隣側にじいさまが座っていた。カオ兄とナギ姉はうまく予定の都合がつけられなかったらしく、後日追いかけてくることになっている。 オレは窓の外に釘付けだった視線を外し、飛行機のエンジン音に耳を澄ました。 こんなふうに長い時間、飛行機に乗るのははじめてだ。自家用ジェットと飛ばしてくれる、なんて話もあったらしいんだけれども、全員そろってならともかく、今回は分かれて向かうから、とじいさまが断ったらしい。じ、自家用って何…って感じだったけど、あんまりにもさらっと言われたから、オレ、誰にも突っ込んで聞けなかった。 飛行機の座席はエコノミーでお願いします、って言ったら、もうチケット取っちゃったから変えられない、ということで、オレは大きな座席にちまっと埋まっている。じいさまやトオ兄には相応しい席なんだろうけど、オレにはちょっと、あらゆる意味で立派すぎた。体より座席の方がかなり大きいもんなぁ…。 ひいおじいさまのところへ行くのが決まってから、今日の出発まではあっという間で。 準備とかどうしよう、と悩んだのなんて一瞬で、てきぱきと名尾さんがキャリーケースに荷物を詰めてくれ、殆どの荷物は送ったり現地手配とかにしてくれた。オレはとにかく篠宮さんと相談して、体調管理に努めていて。 まるまる12時間ぐらいかかるだいぶ長い道のりだから、いちばんの問題点はオレの体調。 具合が悪くなったからと途中下車できるものでもないし、おじいさまは船にしたらどうだとか言ってくれたけれど、いや、それだと夏休みが終わりそうなので…。 少なくとも今回はトオ兄がいてくれるから、万が一ってときも大丈夫だと思う。 トオ兄は仕事で忙しいのに、今日のために篠宮さんのところまで勉強し直しに行ってくれて、いつも以上にオレに目を配ってくれた。そのおかげでオレは今日の日を万全の体調で迎えることが出来て、ありがたいと思う。 オレ、あんまり遠出したことがなかったから、こんなふうに出かけられるのが楽しみでたまらない。空港の窓からずらりと並んだ飛行機を見て、ついはしゃいでしまって。 あんなにいっぱいあるんだ、飛行機、と口にしてトオ兄からも父さんからも苦笑いを向けられた。ふたりは乗り慣れているから、何にも思わないに違いない。すごいのになぁ。だって飛行機がだ。ずらっと並んでるんだぞ。あれがみーんな空を飛ぶのだと思ったら、気持ちがふわふわ高まって仕方ない。 力説すればするほど、周りにいたみんなの顔がまったりしていくのが謎だ。 おじいさまも見送りに来てくれて、じいさまとおじいさまが握手をしたあとに、ふたりで並んで話し込んでいた。トオ兄もおじいさまと話していたけれど、空港の様子に釘付けだったオレはどんな話をしていたのかはまるで分からない。でもたぶん、お気をつけて、みたいなことだと思う。 今回はオレとトオ兄たち兄妹、それとじいさまの4人だけでひいおじいさまのところへ行くことになっていて、塔子さんや響さんは来ない。 響さんはじいさまの子どもだから会いに行く権利というか、一緒に来られたらひいおじいさまはきっと喜ばれるんじゃないかと思うけれど、かつて同じように呼ばれて会いに行ったことがあるから、今回は遠慮する、って言っていた。たぶんじいさまとトオ兄が抜けた仕事の穴を埋めるので、忙しいっていうのもあるんだろう。 残念ではあったけど、違うときにみんなで旅行に行きたいなあ、って言ったら、とてもはりきってくれていたので、また近いうちに塔子さんや響さんたちとも一緒にそろってでかけられたらいいなって思う。その時にはおじいさまや父さんたちも一緒だと嬉しい。 「ねえ、トオ兄」 「…なんだ」 トオ兄は新聞を畳むと、ふっとオレの方を見る。 …えっと、大したことじゃないんだけれど。 「こんなふうにお出かけするのはじめてだなって。病院とかには付き合ってもらっている分、トオ兄とお出かけとかしないから、…」 トオ兄とはだいぶ年も離れているし、医師の資格を取得してからも経済学の勉強をしたり、家を手伝ったりと、トオ兄はいつも忙しそうで。 今回だってフランス支社に顔を出したりと、色々予定はつまっているらしい。できればトオ兄にもゆっくりしてほしい、とは思うけど、こんなふうに長い時間、一緒にいられるのは久しぶりで、少しわくわくしてしまう。 「確かに、そうだな。家族そろって出かけたり、薫たちと一緒にというのはあるが」 「うん。だからさ、ちょっとどきどき。オレ、トオ兄一人占め?」 カオ兄たちが一緒、と言うのはそれはそれでとても楽しいし好きだ。 だけれどいかにも兄妹な3人に囲まれると、オレはやっぱり別系統なわけで。でもこうしてトオ兄とふたりだけだと、いかにも兄弟って感じに見えるんじゃないかとつい期待してしまう。 「fre`re(兄弟)って言っても通じそうだなあって」 「そんなことか」 トオ兄はあっさり言う。 いやまあ、そんなことなんだけれども。オレにはちょっと特別な感じがするわけで。 すると何を思ったかトオ兄が客室乗務員のお姉さんを呼ぶ。 トオ兄は格好良いものだから、声をかけられたお姉さんの笑顔が3割り増しぐらいに輝いていた。金色の髪をきりっとまとめたそのお姉さんは流暢にフランス語を操るトオ兄に少しぽうっとなりながら、大きく頷いてみせる。 「すみませんが、毛布を1枚。弟に」 「かしこまりました。弟さまに毛布を1枚ですね」 「ええ、弟に、お願いします」 「すぐにお持ちいたします」 オレはいったい、何が起きたのかと呆然とした後、頬が赤くなるのが分かった。 と、トオ兄。 petit fre`re(弟)って。きょ、強調して、な、ないか…。 「と、トオ兄…」 「良かったな、蓮。ほら、何の違和感もなく通じたぞ」 「確かに通じたけど…いや、そのでも…な」 そりゃ、天下のトオ兄に断言されて、いや違うでしょうなんて言えるわけないかと。 というか、わざわざ弟かそうでないかなんて、思わないし。 トオ兄はすごく満足げに口もとをつりあげると、それ以降も徹底して弟だと言い続けてくれて、オレも終いにはごくふつうに、兄さんは、とか口にしていた。 「兄さん、このお菓子おいしいよ」 みたいに…。ちなみに耳を慣らすために、今からフランス語に切り替えていこうということになったから、余計違和感なく使えるというのもあるんだけど。 まあ…ふだんから、トオ兄と呼んでいるわけで、オレにとっては兄同然なんだけれども。 親戚のお兄さん、と、兄です、というのは響きが違うわけだし。 でもいつもは使っていない外国の言葉だと、それほど気恥ずかしくもなく言えるみたいだ。 トオ兄の向こうで静かに本を読んでいたじいさまは、オレたちふたりのやりとりに、時々広げた本で口もとを隠していた。ふだんは見ることが出来ないはっちゃけたトオ兄の姿に笑いを堪えているようだ。…まあうん。旅の恥はかき捨てって言うわけだし。 トオ兄も忙しかったからなあ。飛行機の中の移動時間にちょっとした遊び心がくすぐられたって、誰も文句は言わない。 そんな感じにふたりで遊びながら、同じ映画を見たり、ガイドブックを眺めたりして、ふと気がついたらオレはトオ兄と一緒になってぐっすり眠り込んでいた。 空港に着くと、ひいおじいさまから迎えの車が来ていて、それに乗り込む。 同じように空港に降り立った旅行者はみんな大ぶりのスーツケースを持っているものなんだけど、オレたちの荷物は本当に少ない。日帰りか、せいぜい1泊かというふうだ。 飛行機の中でだいぶ慣れたけど、オレはじいさま発音に近くなるよう気をつけて話す。言葉のつくりから、オレじゃなくてわたしは、って言っているんだけど、雰囲気的には僕って…感じで、少しよそいき言葉を使うのは、塔子さんから失礼がないようにという厳命が下っているから。 ある意味、オレたちは塔子さんの名代でもあるわけで。 丁寧な言葉づかいをすることに越したことはない、という考えでそうしていたのだけど、じいさまもトオ兄も、いつも通りのオレでいいから気にするな、とあっさりしたものだった。何というか、これが大人の余裕ってやつか…。 それはともかく、車で2時間ぐらい行ったところに、ひいおじいさまのお家がある。 ひいおじいさまが住んでいるのは古城で知られたロワール地方の隅っこにあるお城で、ル・リラン城と呼ばれているらしい。青みがかった灰色の屋根に白い壁で形づくられており、丸みを帯びた塔が四角い建物の中に配置されている。 城のそばには四季折々の花が楽しめる見事な庭園があり、ひいおじいさまの奥様、じいさまのお母さんが生きている頃には盛んに人が招かれて、毎週のように華やかな夜会が執り行われたのだという。今はひいおじいさましかいなくて、そういうこともなくなったそうだけど。 小さなお城だよ、とじいさまは言っていた。 エルシュテット家伝来のお城ではなく、ひいおじいさまが後々になって手に入れたものだから、こじんまりとしている、って。 けれどその姿が視界に現れたとき、オレはぽかんと口をあけてしまった。 「こ、こぢんまり…!?」 あれだ。城は城だ、ってことだった。 どこからどう見たってお城にしか見えない。いや、確かにそれはお城ではあるんだけれども。少なくともこじんまりという言葉の定義を真剣に考えてしまうぐらいには想像と現実の間に差があった。 あっけにとられたまま車寄せに降り立つと、柱ひとつでさえ芸術品としてしばらく眺めていたいような浮き彫り模様に目を奪われる。 「おかえりなさいませ、ロラン様」 「ただいま、リッフォート」 「遠いところをはるばる、ようこそおいでくださいました。トオル様、レン様。まずはお部屋にご案内いたしましょう」 出迎えてくれたのはエルシュテット家執事のリッフォートさんだ。じいさまと同い年らしいその人は、優雅な足取りでオレたちに近づき、やさしげな微笑みをうかべる。 そういえばじいさまってロランっていう名前だったな、なんてぼんやり思っていると、トオ兄の背中が先に行ってしまって慌てた。置いて行かれたらまず間違いなく迷子だ。それぐらい広い。 じいさまはもともと使ってたという部屋へ、トオ兄は2階のいちばん見晴らしの良い部屋、オレは3階を案内してもらう。トオ兄と一緒の部屋で良いんだけどな、とちょっと思ったけれど、たくさんある部屋の中からせっかく選んでもらった部屋だから、断るのもどうかと思っている間に、このお城にはいったい何部屋ぐらいあるのかと心配になった。 いや、掃除とか…。ものすごく大変だろうなあと思って…。専属のメイドさんたちとか、いるみたいだけど、使っていない部屋が相当余っているらしいし…。 部屋の中にはそろいの服を着たメイドさんがいて、中を案内してくれる。じいさまのお部屋は落ち着いた枯れ葉色の壁紙に、三ツ原の家でも使っている古い家具が並んでいた。じいさまは家具集めが好きなのだ。好きな作家を追いかけて少しずつ集める趣味は、若い頃から続いているらしい。 その後に着いたトオ兄の部屋はわりあい現代的な内装で、パソコンのモニタや配線がうまく合うようにつくりかえられていた。お城の中にそれって違和感がありそうだけれど、隠せるところは隠したり色をそろえたりすれば、意外にしっくりするんだな、って新発見だ。 トオ兄の部屋を眺めた後は3階に向かう。 オレが両腕を広げても余りある幅広い廊下にはぶどうの房みたいな形をしたシャンデリアが並んでいて、そっと置物が並べられている。 ひとつのギャラリーだといってもおかしくない調和の取れた光景は、見ていてすごく楽しい。 あれやこれやといわれを教えてもらったり、見方を教えてもらったりしているうちに上へと進んで、大きな黒い扉の前に立つ。 「こちらは奥様が使われていたお部屋でございます。吹き抜けになっておりまして、中2階に寝室、下はこのようにピアノが置いてございます。窓をおあけになって弾かれても、壁が厚いものですから他の部屋には届きません」 それはまるで小さなホールだった。 グランドピアノを中心にすり鉢状につくられた壁と半円状の天井。 ゆるやかな螺旋階段を上がると古風な織物飾りがつけられたてんがい付きのベッドがあり、色をぐっとおさえた枯れ葉色のソファが並べられている。 「これは見事な」 トオ兄が思わずといったように口をひらく。 「懐かしい…。当時のままだね」 じいさまは目を細めて部屋を眺め、嬉しそうに小さく息をこぼした。 それをどこか遠くでとらえて、オレはふらふらと引き寄せられるようにグランドピアノのそばに寄る。 ベーゼンドルファーだ。かなり古そうだけど、きちんと手入れされてきたのが一目で分かる、黒く濡れたような輝きが素晴らしくて、見惚れてしまう。 促されてひと音叩くと、指と耳がじんとしびれるような癖の強さがにじみ出た。 清冽な音を響かせる切れの良いスタインウェイや、オレがふだん弾いているベヒシュタインの応えの良さとは違う。それはどことなく、三ツ原の家にあるピアノの音とよく似ていた。 同じメーカーだから、ということもあるとは思うけれど、とても馴染んだ音が鳴るのだ。 「長く主人の絶えたピアノでございますし、少々気むずかしい音を響かせますが、レン様がよろしければどうぞご自由にお弾きくださいませ」 リッフォートさんは穏やかに微笑む。 オレはどうにも堪えきれず、じいさまとトオ兄を振り返った。 ふたりはオレを見て頷き、オレはおずおずと、でも夢中になって白く輝くような鍵盤に指を走らせた。 この旅はきっとすごく楽しいものになる。そんな気がした。 |