「andante -唄う花-」



- 40 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



 ひいおじいさまは思っていたよりもかくしゃくとしていた。
 足が悪いらしくて杖はついているけれど、薄いヘーゼルの瞳はしっかりとしていて、ぴたりと閉められた口もとや小柄だけれどもぴんと伸びた背筋からは、凜としたものが漂う。
 到着したその日の夕飯は、家庭的な料理が並んだ。茹でたソーセージや、もも肉のワイン煮込み、ほうれん草のキッシュ。デザートは木苺のパイ。
 夜は冷えるらしい城の中をほっとあたたかくさせて、旅の疲れをふんわりととろけさせてくれるような美味しい料理だった。オレたちに自然と笑顔になって口をひらきあう。
 ひいおじいさまは無口な方らしくて、食事の間に話した言葉は、ああ、とか、そうか、とか短い単語ばかりだったけれど、不思議とそれで空気が重くなることはない。
 じいさまはいつも通りの穏やかな話し方でオレたちを紹介してくれたり、昔ここで暮らしていたときの話をしてくれた。
 リッフォートさんが言うには、じいさまは若い頃、だいぶ自由な人だったらしい。川に飛び込んだと思ったら魚じゃなくて石を集め、廊下にずらっと並べたこともあるとか。そんな少年時代のじいさま、すごく見てみたい。
 夕飯が済んだ後はそのままワインを楽しむのだという。未成年であるオレは部屋に戻って早めに休んでしまうことにした。
 あんなに飛行機の中で眠っていたから睡魔は来るだろうかと心配したのも関係なく、シャワーを浴びてパジャマに着替え、ベッドに入ればすぐに深い眠りにさらわれた。夢も見ない熟睡ぶりだった。
 こう…何というか、せっかく違う国に来ているのだから、夜の風景も楽しみたいという思いはあるんだけどなあ。今日ぐらい夜更かししてもトオ兄に怒られないかもしれない、なんて想像は、残念なことに睡魔に負けた。
 翌朝。
 オレは枕の上に少し重たくなった頭を乗せていた。
「少し熱が出たな」
「ん…」
 ベッドに腰かけてオレの額に触れていたトオ兄は、少し笑みをうかべてオレの頭を撫でる。
「気にするな。ひいおじいさまもご理解なさっている」
「そうだよ。このパーサさんが面倒を見てあげるからね。何の心配もないさ」
 どんと胸を叩いたのはひいおじいさまお抱えの医師チームのひとり、パーサさんだ。
 ひいおじいさまぐらいなら楽に持ち上げられるというパーサさんは、気前よく白衣の腕をまくりあげてくれたんだけれども、そこからのぞく腕は太く、医者と言うより格闘向きではないかと思える筋肉の付き具合だった。
 そんな腕を使って、安心してでかければいいさ、とトオ兄の肩を軽く叩くと、ぱしっじゃなくてばし、という音がする。オレだったら吹っ飛ぶレベル…。でも案外鍛えているトオ兄は平気な顔だ。
「すみません。ドクターパーサ。よろしくお願いします」
「ドクターシノミヤから話は聞いてるから、安心しておくれ。さあさ、遅刻しちまうよ。会社に行くんだろう」
 トオ兄をじぶんの子どもにするように気兼ねない口調で軽くあしらい、オレに対しても、すぐ良くなるさと笑い飛ばしてくれるパーサさんは、肝っ玉母さんみたいだ。パーサさんと呼びかけたら、こりゃあいけない、パーサって呼びな、と切れの良い口ぶりで話すのでオレも、蓮って呼んでください、と申し出る。
「街へ出るのはちょっとがまんだよ、レン。今日はゆっくり城の中を巡ればいい」
「はい、パーサ」
「いい子だ。こりゃすぐ社交界の人気者になりそうだね」
「社交界って…、そういうのにでるのはトオ兄たちで、オレはでないって」
「そうかい?」
「そうだよ」
 不思議そうなパーサにこっくりと頷く。
 トオ兄たちならそういったものにも慣れているだろうけれど、オレはぜんぜんだし。ディと出会ったのはそういった社交会場だったけれど、オレはすぐに人の輪から離れてひとりで遊んでいた気がする。
 それにひいおじいさまは、今はもうそういったところへ出かけたり、自らひらいたり、というのはやられなくなったという話だから、わざわざオレが出る必要はないだろう。
 そういったことを話すと、パーサはうーんと少し考える顔になった。
 にぎやかなのもいいものだよ、と答えたパーサは、もし再びパーティがひらかれるようになったらいいな、と考えているみたいだ。その方がひいおじいさまが元気になれる、って。
 そんなものなのかなあ、と、オレは思ったけれど、もともとはすすんでそういったものをひらいていたわけだから、にぎやかさが嫌いではないのかも知れない。だとしたら、また…、ひいおじいさまがそんなふうに楽しめる場が持てたらいいのに。
 そんなふうに思えたけれど、それにオレがでるかいなかはまた別の話だった。
 社交界なんてさ。正直どこか遠いところの話としか思えない、というのが実際のところだ。




 ル・リラン城にはバラ園がある。
 お昼過ぎにはやや熱も下がって、オレは散歩に出かけることにした。部屋でじっとしていると、ピアノばかりに目がいってかじりつきたくなるので、ゆっくり外を歩くぐらいがちょうどいい。
 庭を管理してる園丁さんにあいさつをしてから、オレは庭の中に足を踏み入れた。
 赤、ピンク。白に黄色。
 こんもりと花びらがつまったものや、大きいもの小さいもの。バラにはこんなに種類があるのか、とオレは驚き、あふれんばかりのバラの洪水にただただ圧倒された。
 格子を伝う華やかなツルバラ、大きくて丸い植木鉢からわっとあふれた伸びのよいものや、垣根となって咲きほこる、きっちりせん定されたバラもある。
 ふくいくとした香りが庭に広がり、その数の多さで頭が痛くなりそうなのに、決してそんなことにはならない。色も香りもその性質も考えてぬいて配置されているからだろう。飲みこまれそうなほどの花が間近まで迫ってきて、目を奪われた。
 城の正面から続く庭にはきっちりと形づくられた常緑樹が配置されて、幾何学模様を代表とするフランス式庭園が広がり、オレが今借りている、ひいおばあさまの部屋からはイギリス風の庭園が見えるようになっていた。
 目が慣れてくるとバラ以外にも様々な花があることが分かる。
 ふんわりとやわらかい色合いに満ちた庭でも、折り目正しく誠実で、でもその分だけ人をはばむような厳しさのある庭でも、なく。
 女主人であったひいおばあさまの人となりが伺えるような、堂々としていて、とても包容力があって、気品高くて。
「女王さまのお庭だ…」
 オレにはそんなふうに見えた。
 オレが思い描く女王さまなんて、つたないものだけれど。
 お姫さまじゃなくて、女王さま。誰かの上に立ち、まとめ、引っ張る人。
 そんなふうなつよさが、庭の至るところから感じ取ることが出来た。でもそれでいて、冷たくはなく、とてもあたたかい。
 小道に敷かれた石は丁寧に凹凸が埋められているせいか、とても歩きやすく、オレは頭の中で音符をくるくるまわしながら歩く。新しいメロディが幾つも流れて飛びはね、深く吸い込んだ息の中に溶け込んでは外へ出ていくようだ。
 五線譜がなくても、体のすみずみに行き渡った音の流れは消えない。
 えいっとばかりに小ぶりのアーチをくぐり抜けてなだらかな階段をあがっていくと、そのリズムさえ組み込まれて、ひとつの曲になる。
 そうやって奏でられたものの中にいると、とても楽しくて、時間を忘れてしまう。
 ふと気がつくと、振り返ってみてもどんな道だったか思い出せないまま庭の奥深くまで入り込んでいることに気づいて、オレははっと足を止めた。
 引き返してくださいね、と言われていたのだ。
 お城と同じ青みがかった灰色の屋根と白い石壁でつくられた東屋がある。その屋根が見えたら、戻ってきてくださいって。その先は、ひいおじいさまだけの特別な場所だから。
 オレはどうやら、その東屋のすぐそばまで来てしまったようで、柱の影にひいおじいさまの姿が見て取れた。しんと沈黙をたたえ、長いすにひとりで腰かけている。
 ごめんなさいと姿を見せるべきか、このままそうっと立ち去るか。
 迷ったのは一瞬だった。
 怒られるだろう。でもそれはもう仕方ない。ごめんなさいと謝って、それからそうっと戻ろうと決めたのはいいんだけど、踏み出した足もとがぐらっと傾く。
「うぁ…っ」
 どうしてこんなところで、と焦るものだから余計にバランスがうまくとれなくなった。
 ずいぶん熱は下がったからと思って過信していたのかもしれない。歩きすぎて体力が減ってしまっていたみたいだ。
 慌てて姿勢を戻そうとしてぐっと踏ん張ったつもりがそのままべちゃ、っと転ぶ。
 それはものの見事に。
 垣根の隙間から、ひいおじいさまのいる方へ、どべしゃっと。
「す、すみま。ごめ、ごめ、うわぁあ」
 折れるっ、痛むっ、棘が刺さるうっ。
「……は」
 バラを傷つけないようになるべく体を揺らさずに垣根から外れようと思ったら、斜め45度ぐらいの傾き具合を保ったまま、3分の1回転をしつつ、前進するしかない。これがもう想像以上の無理姿勢だ。
 四苦八苦しながらどうにかこうにか外に出ると、ひいおじいさまの真正面だった。
「も、申し訳、すみま、…」
 オレ、涙目。
 もうなんと言っていいのか、情けないのと申し訳ないのと色々痛いのとで、しょんぼりうなだれてしまう。
「レーヌ、来なさい」
「は、はい…っ」
 よろよろとよばに寄って、オレは、あれっと思った。
 今、ひいおじいさまって、レーヌって呼んだ。違和感を感じるはずなのに、オレにはそれがない。むしろすごく懐かしいような、馴染んだ音で。
 それで、気づく。
 昔もそう呼ばれたのだ。ひいおじいさまは覚えたてでうまくなかったオレのフランス語を聞いて、そう、オレのことを呼んでいた気がする。レンっていう名前がそんなふうに聞こえたらしい。
 ひいおじいさまは傍らにオレを腰かけさせると、手にしていた杖を置いて、オレの髪や服から丁寧に葉っぱや土を払ってくれた。
「力任せに出ればよいものを」
「は、はい…。バラを傷つけないようにと思って…。でも…穴あけてしまって…。ごめんなさい」
 オレの形にあいた垣根の穴は、無事戻るだろうか。
 ひいおじいさまは折れてくっついたバラの枝を摘みあげ、少しだけほころんだ花を撫でる。やわらかなピンク色のバラだ。花びらが折り重なったふっくらとしたシルエットで、とても愛らしい。
 あともう少しで、咲ききることができただろう。今はまだ幼さが残る花をひいおじいさまは持ち上げ、そのままオレの耳もとに挿した。
「植物はつよいものだ。時が経てば戻る」
 低くしわがれた声が思いのほかはっきりと紡がれて、土で汚れたオレの手をひいおじいさまの手がしっかりと握る。
 お邪魔してごめんなさい、と口にすると、ひいおじいさまはオレと手を繋いだまま、顔を正面に向けた。静けさにざわりとバラの葉が鳴る。
 深い花の香りと土の匂いが混ざって、みずみずしい夏の陽射しが青い屋根にかかって見えた。
「熱は」
 短い問いかけに、オレははっと顔を上げた。
 まさかそんなふうにオレのことを聞いてもらえるとは思わなくて、ややうろたえながら首を振った。
「はい。…おかげさまで、だいぶ下がりました。朝食、ご一緒できなくて…すみません」
 オレが答えた後は、ふたたび沈黙が降りる。
 でも不思議とそれが辛いとは感じなかった。ひいおじいさまの手のひらはさらりと乾いていて、まるでオレの手についた小さな傷をいたわるように添えられている。
 それがとても嬉しくて、ここにいていいのだ、という気持ちになれた。
 オレも同じようにひいおじいさまと一緒になって庭を眺める。
 はじめは気づかなかったけれど、そうしてみて、オレは違いに気づいた。この東屋からの風景は、これまで見てきた庭とは少し異なって見える。女王さまの雰囲気は残っているけど、でも違う。
 どうしてそうなるかは分からない。たぶん角度や光の加減だとは思うけれども、とてもやわらかに目に映るのだ。凛々しい姿にやさしい笑顔が加わったみたいな、そんな感じがした。
「ここは、母の庭という」
「………」
 オレはこの風景を見たことがあるのかもしれない。
 そんなふうに思う。
 誰かに手を引かれて、同じように母の庭だと教えてもらった気がする。
「シルヴィはよく、ここにレーヌを連れてきていた」
「シルヴィ…、ひいおばあさま…?」
 思わずもれた小さな小さな呟きだったけれども、ひいおじいさまが頷く。
 そうだ。ひいおばあさまだ。
 もうだいぶ、記憶がすれてしまっているけれども。優しい、ゆっくりと語りかけてくれる声がうっすらと思い出せる。
 ここに連れてきてもらった頃。オレは母さんを亡くしたばかりだった。
 以前よりはナギ姉から離れられるようになっていたけれど、いつも胸が押しつぶされるような気持ちに襲われては、不安定な気持ちを持てあましていて。たぶん違う土地、遠く離れたこの国まで来れば気持ちが少し変わるかもしれない、そんな期待をこめて、連れてきてもらったのだろうけど。
 大人たちの目から逃れては、オレはいつもひとりでじっと庭の中でうずくまっていた。
 そんなオレにシルヴィはなぜかいつもすぐに気がついて話しかけてきてくれたのだ。
 どうして分かるんだろうとあの頃は不思議に思っていたけれど、あれはたぶん、今オレが泊まらせてもらっている部屋から見えていたのだと思う。
 ぐずるオレにゆったりと微笑みかけて、シルヴィはオレと一緒に庭を歩いてくれた。
 レーヌのおかあさまは、どんなふうに笑うのかしら。
 はじめはそう言って、庭の中から似た花を探すのを手伝ってくれて。じゃあ、どんなお花が好きかしら。そんなふうに、ゆっくり先をつなげてくれて。
 いちばん最後に、この東屋まで連れてきてくれた。
「おかあさまは笑っているわね。って…」
 幸せに、明るくほがらかに。オレがいちばん好きだった微笑みをうかべて。
 きっと誇らしく思っているでしょうね、とシルヴィは言った。
 あなたのおかあさまは、レーヌと一緒にいられたことをとても誇らしく思っているはずよ、と。
 別れのさびしさばかりにとらわれていたオレにとって、その言葉と、ここから見えるバラ園の姿はとても深く心に灼き付くものだった。
「レーヌ…」
 もうシルヴィはいない。オレが思い出を忘れてしまっている間に、シルヴィは亡くなってしまっている。
 ここにはオレとひいおじいさましかいなくて、母さんもシルヴィもいないけれど。
 でも、庭の姿を見つめているだけで、微笑みや、微笑みかけらた嬉しさがこみ上げる。
 この庭で微笑むふたりの姿を思い描くとどうしようもなく涙があふれて、オレはそのまま微笑んだ。
「…新しい音が、流れてくるんです」
 かりているピアノ室にいると、思っても見なかった音色があふれてくる。
 それは庭を見ているときにも続いていて、今も鳴り響いていた。
「この庭の名で、曲を書いても良いでしょうか。シルヴィにありがとう、って、…」
「………ああ」
「ありがとうございます。ひいおじいさま」
 オレとひいおじいさまは、そのまましばらく庭でそっと語り合った。
 オレとひいおじいさまの共通点なんて、殆どないに等しい。初対面といってもいいような間柄ではあったけれども、今、同じ庭で同じ思いを抱えている、それだけは同じだったから、ちっとも気後れはわかなかった。
 そうやって話した後は、ひいおじいさまに肩をかして一緒に城に戻った。
 出かけていたじいさまとトオ兄が戻ったとき、オレとひいじいさまがのんびりチェスで遊んでいたものだから、ふたりはすごくびっくりした顔になり、何があったのかと聞かれたけれど、オレもひいじいさまも、すました顔で何も、とこたえた。
 あの庭でのひとときは秘密。オレとひいおじいさまだけの、思い出だ。



- 40 -

[back]  [home]  [menu]  [next]