「andante -唄う花-」



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「レーヌ、どうした?」
 ひいおじいさまが夕ごはんにしようと連れてきてくれたお店は、ベネチアングラスらしい淡い橙色のランプが室内をふんわりと照らしていた。
 その日迎える客はひと組だけ、というやり方をとっているらしく、オレたちの他には誰もいない。老夫婦と給仕がひとりいるだけの小さなお店だから、それがいちばん合っているんだろう。こぢんまりとしているけれどほっとするような雰囲気に包まれてる。
 ひいおじいさまもオレも食が細いので、あらかじめ少なめに作ってもらっている料理はどれもおいしかったけれど、オレは時々上の空になるのを止められなかった。
 それを気づかれてしまったらしい。オレは慌てて背筋を伸ばして、目の前に集中しようとしたけれど、ひいおじいさまはこつんと杖で床を鳴らされてしまう。
「…すみません」
 オレは肩を小さくして詫び、持とうとしていたフォークを置く。
 そうしてから、向かい側に座るひいおじいさまを見上げた。
「何かあったか」
「………」
 マエストロとのピアノのあと、カーヴェさんのフルートを聴けて、思いがけずオレの作った曲まで演奏してもらえて、オレはすごく嬉しいやら、感動するやらで言葉もない時間が続き、充実したといっていいひとときを過ごせた。
 あらかじめひいおじいさまに聴いてもらった「母の庭」という曲は、すごく変わってしまったと思う。でもすごく良くなった。たぶん、きっともっと変われる。
 いったんマエストロたちと別れた後、幾らか時間があったので、市内を観光する予定だったのだけれど、オレはそのまま学内の一部屋を借りて、休憩を挟みながらもずっとピアノと向き合った。
 指が動かなくなるまで弾きたいと思った。
 体の中であふれている音を外に出したくて、たまらなくて。
 それ以外のことが何も見えなくなるぐらい音の流れに身を任せて、うずもれて。
 オレが夢中になっているあいだにリッフォートさんがホテルを手配しておいてくれていて、1度眠らせてもらってから食事の席へと来たから、まだ体はどこか熱っぽさが残っているけれども、頭の芯は冴え冴えとしている。
 ひいおじいさまは続きを急かすことも、感想を混ぜることもなく、今日あったことをぽつりぽつりと話すオレの言葉に耳を傾けてくれる。
 お店の中には特に音楽もかかっていないので、部屋の中にはただオレの声だけが響いていた。
 話が終わりに近くになると、オレの口は重くなる。
 とうとうアルバムをと言われた話を終えたところで室内には沈黙がおりた。
「レーヌ」
「……はい」
「ミケーレ・アルベルティはくだらぬ世辞を言う男ではないだろう。そういった者がともにやりたいと言うのだ、信じてみてもいいのではないか」
「ひいおじいさま…、オレはただの素人です。そんなオレが加わっては、彼の名声に傷が付いてしまいます」
 そんなことで傷が付くほどやわな立場にいる人じゃないとか、せっかくの厚意を無駄にするのかとか、そういったことを考えないわけじゃない。
 でもやっぱり…オレは。
 弾けば弾くほど、ダメだと思った。
「ひいおじいさま。オレ、…。楽しみにしていたことほど、やり遂げられたことが、ないんです」
 やる前からあきらめるなんて、嫌だけど。
 でも、オレひとりでことが済むことならともかく、マエストロが関わるアルバムだ。とても大勢の人が関わり、楽しみにしている大切なもので、決してオレひとりの都合で台無しにするわけにはいかない。
「レーヌ…」
 ひいおじいさまのヘーゼルの瞳が、オレを見透かすようにじっと見つめる。
 オレは言いかけた言葉をのみこんだ。そう、これはただの言い訳に過ぎない。逃れようとするためだけにつむがれる言葉だ。
 でも今のオレの正直な気持ちでもある。
「…怖いのだな」
 ひいおじいさまの声はオレを責めているような感じではなく、ただ事実だけを語る素っ気なさがあった。
 だからオレも素直にこくりと頷く。
 怖かった。
 もう…味わいたくなかった。
 楽しみにしていて、今度こそと思って、関わってきたことに最後まで関われない。そういった悔しさや無力感は、消そうと思ってもなかなか消せなかった。
「レーヌは今まで音楽院に通いたいと思ったことはないのか。その道を歩みたいと」
「…それは」
 全くないと言えば嘘になると思う。
 そもそもオレの曲づくりは、オレのピアノの演奏力に頼っている部分がある。つまり自分が弾ける範囲での音づくりをしている、ということだ。
 もっとうまくなりたい。
 もっと音を形にしたい。
 オレはオレが弾きたいから曲をつくっていて、根っこにはピアノを鳴らしたいから、好きな音を追いたいから、という部分もある。
 そういうことを考えればきちんと学んでいくことも必要だと切実に感じるし、色んな人に教えを請うのはとても好きだった。
「オレは…迷惑をかけたくないんです。本当は誰にも…」
 いちばんは、たぶん…父さんに、だ。
 オレが望むとおりにすればいい、と父さんは言ってくれるけれど、たまには無茶もいいものだ、とも言ってくれるけど。
 父さんの性格を思えば、若い頃からずいぶんと大胆に、小さくまとまるなんてこととはものすごく遠いところにいながら、それを心から楽しんできただろうとは思う。
 迷惑をかけられてきた、とか、恩返ししてほしいとか、そんなふうになんて父さんは思っていないと言ってくれる人も多いし、オレもそう感じる。
 願うことがあるとすればより健やかに、笑顔でいてほしい。誰よりもそう思っているだろうと。
 でもオレだって。オレだって、喜んでもらいたいし、家のことや会社のことでたくさんがんばっている父さんに余計な悩みごとをふやしたりなんてしたくない。
「何を迷惑だと感じるかはひとそれぞれだ」
 オレはこくりと頷く。
 こちらで勝手にああだこうだと決めつけて、気持ちをねじまげたって、それこそ相手にとっては厄介なことだってこともある。
 でも、どうしたらいいのか分からなかった。気持ちも体も錆びついてしまったみたいにひどく動きづらくて重かった。オレの沈黙にひいおじいさまはじっと寄り添い、室内に静けさが満ちる。
 音の少ない部屋はオレのさざなみだった気持ちをゆっくりとなだらかにおさめてくれる。それを見計らったようにひいおじいさまはふたたび口をひらいた。
「そなたの手は動く」
「………っ」
 オレはどきりとひいおじいさまを見上げた。
「手の取り方が分からなくても、動かすことそのものをおそれてはいては、前にも後ろにもゆけぬ」
 オレが無意識にじぶんの手を見下ろすと、ひいおじいさまはやわらかに眼差しを細め、細く小さな息を吐いた。
「まずはすべきは、このフォークを手に取ることかもしれんな」
「………?」
「ここのデザートはおいしい」
 おいしいものは、食べると元気になれる。
 そう続けられた茶目っ気のあるひいおじいさまの言葉にオレはついつられて笑みをこぼす。
 ぐるぐる考えこんで、せっかくのおいしいデザートを味わえないなんて、残念だって。
 確かに、そうだった。
 そう思えたことが少しうれしくて、オレは小さく笑みをうかべた。
 ずっと先のことや、遠くことに手は届かない。けれどすぐ近くにあるものなら、その限りじゃないのだ。
「いただこう」
「…はい」
 フォークを手に取る。
 口に運んだケーキの欠片はふんわり甘くて、とてもやさしい味がして、オレにそうっとやすらぎを与えてくれるようだった。




「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
 席を立ったところで、挨拶に現れた老夫婦にオレは心からそう言う。
 オレの気持ちがぐるぐるしていたせいで、途中ゆっくり味わえなかったのが申し訳ないぐらい、料理はどれもとてもおいしかった。
 オレの手を取ってかたく握り替えしてくれた店のご主人の手はすみずみまで使い込まれた職人の手だ。爪がまるくて、包丁を握ってできたたこや、やけどの痕がとてもかっこよい。
「ありがとう。いやあ、坊ちゃまぐらい若いお方に食べていただくのは久しぶりでねえ。侯はどんな子を連れて行くのか、なあんも言ってくれんし、どんな料理がいいのかはじめは悩んだんだが」
「…言っただろう」
 唇の端をにっとつりあげて言う店の主人に、ひいおじいさまがむっつりと眉をよせる。それに、がははと大きな笑い声が返った。たぬきの置物を思わせる見事なたいこ腹からでる笑い声だ。びりびりと灯りの硝子が震えるようなお店を包む。
「バラが似合うよい子だ、と言われてもねえ。侯、そりゃあよそで言うのはお控えくださいよ。うちらぐらいしか対応できませんて」
 どういうことだろうかと思ったら、お客ひとりひとりに合わせて食材から選んでくれるらしい。
 でもバラ…。バラ…に、似合うだろうか。
 光栄だと言っていいのか、それともバラに申し訳ありませんとわびるべきだろうか。
 …い、いやそれはともかくとして、それで料理を作ってくれたご主人がすごすぎる。
 でも何より驚くのは、ひいおじいさまとのやりとりだった。いかにも下町の職人風の主人とひいおじいさまがそんなふうにぽんぽんやりとりし合うのは、見ていて驚きだ。
 でもとても楽しくてつい微笑むと、奥さんがそっと近づいてきてくれてオレの上に小さな包みを握らせてくれる。
「クッキーよ。お夜食にしなさいな。ぼうやはもっとほっぺにお肉をつけなくちゃね。侯みたいなしかめっつらのおじいさんになっちゃうと大変よ」
「そなたの手にかかるとふくふく丸くなりすぎるがな」
「あら、かわいいでしょう」
 どうやら老夫婦のお子さんはみんな少々丸い体型らしい。
 でもいやみの応酬というにはどちらの声もとてもさっぱりと明るくて、笑い声がたえない。
 オレはありがたくクッキーの包みを受け取った。オレのほっぺたがふくふく丸くなったら、父さんとかカオ兄とか、ものすごく嬉しそうにつまむに違いない。今でもカオ兄なんかは抱きしめる度にもっとふっくらやわらかになっていいんだよ、とお願いしてくるし。
 夫婦そろった見送りの言葉にひいおじいさまが頷いて、オレはひいおじいさまの傍らに立った。
 ひいおじいさまはオレの手を取り、ゆっくりと店の前の階段を下りる。
 控えていた車の扉がひらかれて、ひいおじいさまをまず乗せてから、オレは反対方向へまわるんだけど、そこでオレの足はぴたりと止まった。
「レン様…?」
 リッフォートさんが声をかけてくれたけど、オレの視線はぴたりと建物の奥の方へと向けられてなかなか外せない。
「…ピアノの音が」
「ああ。きっと、セレスくんよ。でもぼうや、耳がいいわねえ。ちょっともれちゃうけど、あのお部屋防音になっているのよ」
 あの雨だれだった。
 窓明かりの下に吸い寄せられる。たぶん、小さな隙間があるのだろう。音は少しくぐもっていて、聞き取りづらいけれども、今日聞いたばかりの音だ。
 こうして耳を澄ましていれば、オレはただ、この音がもう1度聞きたかったのだと、はっきり思う。
 いつまでもひいおじいさまたちを待たせているわけにもいかない。車の方へ戻ろうとしたオレと合わせたようにふっとピアノの音がやんだ。そのすぐ後にがたんと、窓があけられた音がする。
「………あれ、あんた」
「………っ」
「よく会うな。あ、ちょっと待ってくれ」
 窓辺から乗り出した顔がひょいっと引っ込むと、どたどたとした足取りとちょっとびっくりするぐらいの幾つもの声が重なる。どうやら小さな子どもたちがいるらしい。
 少しもしないうちに正面の扉がひらいて、中から昼間見たとおりの樫の木色の髪が姿を見せた。夜灯りの中では少しだけ暗くなり、雨に濡れたような深みのある色になっている。
「ほら、これあんたのだろ」
「あ…」
 差し出された手のひらの中できらっと光るのは、見覚えのある小さな飾りだった。慌てて鞄の中から昼間かぶっていた帽子をだすと、やっぱりついていない。
「窓辺に置きっぱなしだった荷物に紛れ込んだらしくて。悪いな」
「ありがとうございます。これ…ハスの花で…、オレと同じ名前の花なんです」
 ハスの花を身につけるなんてちょっとなんというか、その、オレの名前の字がそれなわけで、恥ずかしいというか訳が分からないというか。どうしてよりにもよってと困惑するオレに、お守りみたいなものだって、と笑い飛ばしてくれた広也の顔がうかぶ。
 このピンは音浜祭でクラス賞をもらうことになった、その記念品だ。見城が指揮をとってひらいたクラス模擬店は幸いにも評判が良くて、賞をもらえることになり、好きな意匠を出せばクラスの生徒分同じピンを作ってもらえる、そういう副賞がついてて。
 幾つかあったはずの候補からなぜかこの花が選ばれたのだ。オレとしてはもっと他の…なんというか、喫茶のカップとかそういう無難な感じとか、分かりやすく1−Eをあしらったりさ。そういうのがいいんじゃないかと思ったんだけど。ひとりが言い出したら、なぜかみんなそろってそれがいいって言ってくれて。
 夏休みに入る直前に仕上がったピンが届けられると、クラスのみんなはそれはもうすごくはしゃいで。制服につけたり、鞄に付けたり、思い思いのところにそれぞれ付けて。オレは考えた結果、ふだんから何かとかぶることが多い帽子に付けることにした。
 これなら旅行の時にも付けていけるし、思いのほか愛着もわいて、かぶり忘れ防止にもなってさ。危なくないように、って、父さんが少しだけ針先を丸めてくれているから、うっかりぶつけても大丈夫だし。
「大事なものだから…本当に助かりました」
 落としたことに気づかないなんて、本当にうっかりしていた。感謝してもしきれないぐらいだ。
「ん。ああ…。じゃあな」
 ありがとうという言葉だけじゃ足りないぐらい、がばりと勢いよく頭を下げると、彼はきつめの眦を少しやわらげて頷く。そのままさっと家の中に戻りかけるのを、オレは無意識に手を伸ばして引き留めた。
 そうしてしまってから、わ、とつかんでしまっていた裾を離した。
 なにやっているんだろ、オレ。
 初対面の上、練習を邪魔して、それで落としものまで渡してもらっててさ。
 それで急に服の裾つかまれるって、かなり嫌だろ。
 でも幸いにも、相手はあっさりとした様子で、なに、と聞き返してくる。
「あ、あの、それと。雨だれ、…邪魔して、すみませんでした」
「いや、べつに」
「………オレ、その」
 手のひらに妙な汗がにじむ。言葉がぐるんと一回転してめまいがしそうだ。オレはぎゅっとピンを握って、喉に絡む言葉をぎゅうっと押し出す。
 オレは、色々ダメで、迷惑ばっかりかけてて…でも、それをやめることができないでいて。
 でももう少しだけ、ほしがっていても…いいのだろうか。
「…オレも、ピアノ、してて」
「うん?」
「…雨だれ、好きで。今度、聞かせて、もらえませんか、…?」
「かまわねえよ」
 いつも上の部屋で練習してるから好きなときに、と素っ気ないぐらいの応えが返り、来たときと同じような素早さで扉の向こうへ消えていく後ろ姿を、オレは半ばぼうぜんと見送った。
 こうまであっさりと、次の約束を取り付けられるなんて思わなかった。
 また聞きに行ける、と思うと、どうしようもなく胸が高鳴る。
 オレ…。オレ、ピアノ好きだ。音を追いかけるのをどうしてもやめられないんだ。
 それを実感する。
「レン様、そろそろ」
「あ、はいっ」
 リッフォートさんに言われてはっと我に返る。
 車の中に乗り込むとひいおじいさまは少しだけ微笑み、良かったなと言うように小さく頷いてくれた。オレは嬉しくて、大きく頷く。
 まだ正直…怖いし、答えも出せないけれど、もう少しだけ前へ進めるかも知れない、そんな気持ちになれた。



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