「andante -唄う花-」



- 43 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



 ひとつ気になることがあると、どうしても満足するまで追いかけてしまう。
 ピアノを弾くこと、曲を作ること。
 いけないとは思うのにどうしても我慢できなくって、昨日の今日なのにオレは雨だれの彼のもとまで来ていた。
 彼は、セレスティノというらしい。
 あの音楽院の生徒で、5人兄弟の長男。家に置いてあるピアノはアップライトピアノだから、時々学校までグランドピアノの感触を確かめに行くんだそうだ。
「お邪魔します…」
 おずおずと足を踏み入れた家の中には、細い階段があって、幾つも写真が貼ってあった。それを眺めながら上へとのぼるとセレスティノの部屋にたどりつく。
 ベッドとピアノ、それにクロゼットがある部屋にはずいぶん前からはってあるらしい小さめのポスターがある限りで、飾り気というのが全くなかった。
「オペラ歌手かな…」
 てっきりピアノ科の生徒だから、ピアニストのポスターとか、あるいはずらりとCDやら楽譜やらが並んでいるのかと思ったけれど、いっそ潔いぐらいそういうものがなかった。
 唯一そういったものを感じさせるのがそのオペラ歌手のポスターだったけれども、ずいぶんと古そうだ。
 色あせたポスターからはドレスの赤色と、豊かなほほえみとが見てとれる。今にも歌声や拍手が聞こえてきそうな、いきいきとした姿だ。
「それ。俺の母親」
「あ…おかあさま…なんだ」
 ちょうどよく部屋の中に入ってきたセレスティノが、ぼんやりポスターを眺めていたオレに教えてくれる。
 玄関でオレを迎え入れてくれたダナおばさんは、いかにもふくよかで肝っ玉母さんといった感じだったけれど、ポスターの人は細身だし髪の色もどうやら金色で、赤毛のダナおばさんとは印象が違う。
 昔の写真かな、と思っていると、小さなテーブルにジュースのパックを置きながら、セレスティノが短くちげえよ、と首を振った。
「そっちは生みの親。ダナは育ての親だよ」
「………」
「いらねっつってるのにダナがはるんだよな」
 ダナは今の母親で、セレスティノだけ他の兄弟とは母親が違うようだった。
 ポスターの人とセレスティノはつりあがり気味のまなじりがとてもよく似ていて、言われて見れば血のつながりを感じさせる。でも、その隣に並んだダナおばさんとセレスティノたち兄弟がそろった写真の方が、目の前のセレスティノとつながってみえた。
 どう答えるべきだろうと少しだけ迷ったけれど、セレスティノの声音にはあっさりしていて、オレもただそうなんだと頷くにとどめることにする。
 適当に座れよ、と言われて、ベッドの縁にそうっと腰を下ろす。
 セレスティノはそれほど口数の多いタイプではないらしく、あまりさかんに口をひらくことはない。だからといってオレを無視している訳じゃなく、必要なところできちんと話しかけてくれるから、そういうものらしいとオレも少しずつ理解できた。
「で、雨だれだっけ」
「う、うん…」
 聞きたいのはそれだったけど、おそらくあれはふだん練習している曲ではなく、練習のあいまに弾く息抜きか何かだろう。
 だから後でも…と言いかけたオレの前で、ピアノのふたをあけたセレスティノは幾つかの音を鳴らしてから、さらりと指をのせた。
 あの旋律だ。
 セレスティノの音は正確で、きっちりしているのにあざやかだ。
 深くて広くて、息を吸い込めば体のすみずみまで部屋を満たす響きがしみこんでくる。オレは鍵盤の上に指を走らせるセレスティノを見つめたまま、かたく体をこわばらせた。
 それをなんと言えばいいのだろう。
 同じように感動することなら、これまでだって何度もある。同じピアノでも、たとえば秀さんの音色はとても華やかで奥深い。そこには秀さんだけが持つ響きがあって、オレとかがどんなにやってもたどりつけないものがある。
 セレスティノの音は。
 この音は広い。
 オレにはそんなふうに聞こえた。それはオレにはとても遠くて、そしてざわりと胸をはねさせる。
 自然と指が音を追い、オレの中でふたつの音が重なっては耳から流れ込むセレスティノの響きにかき壊されて、オレは夢中になって組み立て直す。
 あんなふうに、とかじゃない。そんな余裕はない。
 どこか焦りに似た感情がオレを追いつめ、胸をしめつける。
「おい…」
「………っ」
「そんな顔で涙ぐむな」
 ぴしゃりとした声に気づかずうるんでいた目もとから涙がひっこむ。
 オレは半ばぼうぜんとこちらに向けられたセレスティノの顔を見た。
 どこか怒ったような顔をして眉を寄せたセレスティノはオレをにらみ、小さく息を吐く。
「うちの弟が地団駄踏んでるときの顔だぞ、そりゃ」
「そんな…そんな子どもじゃないよ、オレ」
 セレスティノの弟妹たちは、下は3才、いちばん上で9才だと言っていた。オレはもっと年上で高校生だし、幼い頃だって、そんなふうに悔しがったことなんて思う。
「どうだか」
 それなのにセレスティノは軽く鼻で笑うと、浅くあごをしゃくった。
「弾いてみろよ。弾けるんだろ?」
 こんな気持ちでピアノの前に行くのははじめてだった。ひと言で言えば最悪な気分。ぺたんこにつぶされて、その上で粗くかきまわされたみたいな感じだ。まともに響かせられるようには思えない。
 拒んだがセレスティノは場所をあけてオレを促す。強引といっていいぐらいのむりやりさだ。
 オレはむっとしたが、むしろ静かといっていいようなセレスティノの横顔を見て、なんと言えばいいんだろう。少しやけになったような、あるいは負けん気のようなものがむくりと頭をもたげてピアノの前に座った。
 セレスティノは楽譜を出してなかったけども、耳にした音を指にのせるのはわりと得意な方だと思う。
 そう思って放ったはじめの音は、わりとすんなりと出て、いつものように身を任せていけば旋律のうずが流れをつくってくれる。…はずだった。
「今のは違う。やりなおす」
「…どうぞ?」
「………」
 耳に馴染んだ連なって形をなす。
 ただそれだけ。
 オレは首を振った。
 こんなのは違うのだ。オレが弾きたいのはもっと別で、それは、確かにはっきりとした姿を持っている、のに。
「恨み節か何かか」
「………」
「ショパンもうかばれねえな」
 しれっとした顔で言うセレスティノから視線をそむけ、オレはもう1度、鍵盤に向き合う。
 何が足りないのか。何がいけないのか。
 まずそこを冷静に見つめればきっと、分かると思う。そう信じなければやっていられなかった。
 でも、オレは気づいていた。セレスティノも分かっていただろう。
 オレはこの曲を撫でているだけ。セレスティノは弾いている。
「………あんたさ。もしかしてこれ、今まで弾いたことなかったんじゃねえの」
「きのう…、楽譜見た…」
「まさか昨日がはじめてとか言うんじゃねえだろうな」
「…………」
「ちょ…ちょっと待ってくれ」
 ありえねえだろ…と小さな呟きがセレスティノからもれる。
 そうだよなあ…、こんな有名な曲なのにさ。
 オレ、もっと色んな曲を弾かなくちゃ。…弾きたいと思うし、そうしなくちゃいけないと思う。
「………オレ、好きな曲ばっかり弾いてて…」
「………っ、ふだんはどんなの弾いてるんだ。クラシック以外か?」
「が、多いかも…」
 というか、基本的にじぶんで作ってじぶんで弾いてみたいな、感じだ。秀さんから練習曲とかもらってそれ弾いたり、演奏会に行って気になった曲を弾いたりはするけれど、きちんと音楽学校に通っている人が必ず弾いてきた曲、みたいなものはあんまり弾いてないかもしれない。
「それ弾いてみてくれ」
「ん…」
 オレとしてはもっと雨だれと向き合いたい気分だったんだけれども、何かに追われるような顔をしたセレスティノの勢いにのまれるように、ピアノの前に向き直った。
 少し考えて、母の庭にしよう、と決める。
「作ったばかりの曲なんだけど、感想とかあれば、教えてくれると嬉しい」
 良くも悪くも、オレの周りにはオレの音づくりを気に入ってくれたり好きだと言ってくれる人が多いから、セレスティノみたいにオレの音をあまり知らなくて、おまけに年も近い相手からの言葉ってなかなかもらえない。
 もちろん秀さんたちからも、わりと厳しいことを言われたりはする。でも付き合いが長すぎる分、お互いの好みとか癖とか把握しちゃっているから、セレスティノの感想をもらえることはとても貴重なことだと思う。あれだけの音を響かせられるセレスティノに、オレは聴いてほしい。
 息をととのえて鍵盤と向き合う。
 はじめの1音がうまく響くと、あとは風が吹くようにわき水があふれるように、体の中にこもっていた旋律がつむがれていく。
 オレはただそれに従い、さらわれていくだけでいい。
 マエストロとの演奏で、驚くほどの早さで形を得た曲は、思っても見なかった勢いや姿を描いてオレの中におさまり、響き合う。
「…もう1度」
「……え?」
「もう1度弾いてくれ。いや、他の曲もっ、あるんだろう」
「あるけど…雨だれ…」
 オレ、セレスティノの雨だれがもっと聴きたいんだけども。
「こっちが先だ」
「あ、雨だれも」
 オレだって、言うときは言うんだ、ぐらい強く言い張ってみたけどセレスティノも引かない。なんだかそうしているうちに、押し合いへし合い、雨だれと庭の二重奏のような感じになってくる。
 お互いそれに感想なんて口にしている暇はなくて、鍵盤の譲り合いをしているんだか奪い合いをしているんだかの鳴らし合いになったけれど、オレはそれが妙に楽しくて、おかしくて、夢中になってセレスティノの雨だれにのめりこむ。
 しまいにはオレが雨だれを弾いてセレスティノがオレの曲を鳴らしてという逆さまに、体がぽかぽかと火照って頭がぼうっとくらんだ。
「楽しいな…!」
「ああ」
 ピアノを弾くってすごくすごく楽しいんだ。
 オレは改めてそれを思う。
「よし次は…。おい。…レン、どうした?顔色悪いが。……、ダナ!ダナ、来てくれ!」
「なんだいセレス…」
「こいつの様子が」
 ふらりと傾いだ体をセレスティノの腕が支えてくれる。
 心配ない、平気だと言おうとしたけれど、その言葉はうまくつむがれず、支えてくれる腕にすがるようにしてオレの意識は否応なく沈んでいった。
 もっと弾きたい。
 もっと、もっと。
 そう思ったけれど、滑り落ちていく意識を止めることは出来なかった。




 空白の中からぽかりとうかぶように、瞼を押し上げる。
 ゆっくり体を起こすと、体の上にかけられていた見事なキルティングの布団が体から滑り落ちた。
 手作りらしい、縫い目の細やかさが心地いい。布の上に手のひらをあてると、ほんの少しひんやりとした。
「あ。めぇさましてるっ。ままん! めえあけたよ!」
「こら、ノエ。さわぐんじゃないよ」
 幼い声が響いてとびあがるほど驚いたオレの向こうで、薄くひらいた扉からまんまるな瞳が瞬く。
 そのままぱっといなくなったかと思えば、聞き覚えのある声がかぶさって、小さな男の子を抱き上げたダナの姿が現れた。
「どれ。うん、顔色は悪くないみたいだね。お腹はすいてないかい」
「はちみつみるく、おいしいよ。あ、おれ、にいちゃん呼ぶ」
 小さな体は身軽な様子でダナの腕を飛び出して、まるで突風みたいな勢いで駆け出すのがちょっとした衝撃だ。
 びゅんと空気が揺れるぐらいの迅さに驚いていると、すぐに部屋の外からノエがセレスティノを呼ぶ声と、それに応じるセレスティノの低く落ち着いた声が響くのが分かった。
 さわぐな、とか、ころぶぞ、というセレスティノの声に他の兄弟たちらしいにぎやかな笑い声がかぶさって、何が何やら分からない騒がしさだ。
「すまないね、うるさくて。さっきまで外で遊んでいたんだけど、戻ってきちまって」
「いえ…」
 よく見れば外は少し暗くなっているようだ。
 あたたかな色づかいの部屋はセレスティノの部屋とは違い、少し甘い香りがした。もしかしなくても、ここはダナの部屋なのかもしれない。
 そう思って、オレはがばりと頭をさげる。いつもやりすぎるなとトオ兄に言われてたのに、よりにもよってはじめて来た家で倒れるなんて、とんでもない失敗だ…。セレスティノやダナには、なんとお詫びを言っていいのか分からない。
「すみません…。ご迷惑をおかけしてしまって…」
「あの子はピアノのことになると、頭に血がのぼるからねえ。悪気はないんだけど、他人を気づかうってことがすっぽり抜け落ちちまう」
 どうやらセレスティノが悪いということになっているらしい。あの子はまったく、というため息混じりの声に、オレは慌てて首を振った。
 オレが悪いのだ。セレスティノは何も悪くない。
 そういったことを力を込めて話すと、ダナは頬をゆるめてオレの体をぎゅっと抱きしめてくれた。
 オレはびっくりして、救いを求めるようにぱたぱたと腕を振ったけれど、ダナの手のひらに髪を撫でられると、不思議と跳ね上がった鼓動がゆっくりとしずまっていくのが分かった。
 やわらかくて、あたたかくて。ダナの手がオレを包み込んでくれると、なぜか懐かしい気持ちになる。
「いい子だねえ。だいじょうぶ。あたしは音楽はからきしだしだけど、いい音だったよ。うちの子をああまでムキにさせるなんて、こりゃすごいと思ったね」
 ダナがいた台所には少し音がもれるらしい。
 オレは指にこびりついた焦りをぬぐうように、布団を引き寄せて首を振る。
「オレ…オレ、は…でも…」
 オレにはただ好きという気持ちしかない。
 それに思い至って、胸をふさがれたような苦しさにあえぐ。
「体力なくて…すぐ…倒れて…」
「そうだねえ。でもあんた、まだまだ足りない、ほしいって顔をしてるよ」
 ダナはオレから腕をとくと、そばの椅子を引いてそこに腰かける。
 ノエがミルクに入れる蜂蜜のスプーンを見て、後もうひとさじ、ってねだるときみたいなね、と微笑むダナの声はとてもやさしくて、ふんわりとしていたけれど、セレスティノにも幼い弟妹たちと似ていると言われたことを思い出したオレは、少しだけ複雑な気持ちになった。
 そんなにオレ、小さな子どもみたいな顔をしてるのか。
 ほしい、ほしいって、誰が見てもすぐ分かるみたいな…?
 そう思うと頬がかっと赤らむ気がしたけれどもダナやセレスティノに指摘されることは、不思議といやじゃなかった。
「ほしがりでいいんだよ。うまく叶わなくて悔しい気持ちになることもね。…セレスはねえ、小さい頃から幾つも賞をとってるんだけどさ」
 振り向いた棚に並ぶトロフィーや盾は、すべてセレスティノがとったものらしい。
 それもそのはずだ。あの音を聞けば納得できる。でもダナはあまり嬉しそうな様子ではなくて、オレは戸惑った。
「たくさん稼げるようになって、楽にしてくれるとか言うんだけどさ、…それよりあたしは友だちとバカ騒ぎをしたりさ、今をせいいっぱい楽しんでほしくてねえ。でも、セレスにとっちゃ、今ほしいのはピアノのことだけなんだよねえ」
 暇さえあればピアノの前にいるので、近所にはろくに友だちもいない。音楽学校に行けば話が合う人に囲まれて友だちが増えるかと思えば、どうやらセレスティノは同級生の間でも別格扱いらしかった。
 オレはセレスティノの静けさを含んだ横顔と、圧倒的な響きを持つ音色を思い出し、そこに一種の近づきがたさがあるのを感じ取る。
 たぶんあの雨だれがなかったら、オレもそのひとりだった。すごいな、って思って、そのままじぶんとは別の遠いところにあるみたいにとらえて。
 でも、オレは…あらがえなくて。オレはセレスティノのピアノをもっと聞きたかった。セレスティノがどういう人だとか、どれぐらいのすごい評価を得ているひとなんだとか、そういうことは思いつきもしなかった。
 本当ならもっと迷惑にならないようにとか、慎重に動くべきなのに、それがすっぽり抜け落ちてしまっていたように思う。
 そに気づいて言葉につまるオレの髪をもうひと撫でしたダナはまなじりにぎゅっとしわを寄せてほほえんでから、よいしょと腰をあげた。
「あたしがぐだぐた言うより、本人同士の方がいいだろうね。おや、うわさをすればだ」
 ノックの音に続いて現れたセレスティノにダナが微笑む。
「レモネードかい。あんたも好きだねえ」
「疲れてるときにはこれがいいんだよ。あ、ダナ。ごはんはちっと遅らせてくれないか。晩飯近いからどうかと思ったけど、うるさいからガキどもにおやつ出しちまった」
「あいよ。あ、レンのお兄さんはまた後で来るって言ってたからね。それまでゆっくり休んでるといい」
 お兄さん…お兄さん…って…。
 ………何となく意識の端っこに、弟だと連呼していたトオ兄がうかぶ。
 飛行機の中だけでのことだと思えば、どうやらここでもそれが引き継がれたらしい。でもまあ、それがいちばん通りが良いなら、そうするべきで、その。ちょっとだけ気恥ずかしいけど、嬉しくもあって。
 小さくほほえむと、目の前にぬっと、表面に水滴をつけたグラスが差し出された。
「すっぱいの、平気か」
「……うん。ありがとう」
 セレスティノがいれてくれたらしいレモネードは、生の果実のきりっとした酸味と、少しの甘みが喉をさらりと通りすぎていく。それが不思議と体に残るほてりをぬぐってくれるようだった。
 ダナはセレスティノの腰を景気づけるようにぱしりと叩いて、何するんだよとセレスティノに噛みつかれたけれど、どちらもそれを気にしたふうもなく、部屋に現れたときには少しばかりこわばっていたセレスティノの空気がやわらぐのが分かった。
 セレスティノはダナが座っていた椅子には腰かけず、オレから少し離れた壁際にもたれかかった。
「あんたの兄貴。すげえ美形なのな。いっちょまえにカリナが見惚れてたぜ」
 カリナちゃんは、セレスティノの9才になる妹だ。最近ずいぶんませてきたからな、と呟くセレスティノの顔は、妹思いのお兄さん顔だった。悪い虫が付くんじゃないかと今から心配している気苦労が伺えて、オレも自然と頷き返すことができた。
「トオ兄はわりといつもしかめっ面なのにね、人気あるんだよね。小さな女の子たちにも、もちろん奥さま方とかにも」
 顔立ちのととのいぶりはカオ兄の方に軍配が上がるんだけど、なんと言うんだろう。男の色気? フェロモン? みたいな?
 篠宮さんには生意気にも、とか言うけれど、ちょっと憂いを含んだ表情をしているときなんて、ものすごく大人気なのだ。何か悩み事? なんてオレがうっかり聞くと、まずいことになるんだけど。
 そうだ、おまえのことだ、とかになるからさ。昨日、夜更かししたらしいな、とか言われてオレはたいそう慌てるはめになる。
 オレ、ふだんは寝るの早いんだけど、たまに起きていられるとそれがうれしくて、ちょこっと遅くまで音符追ってしまったりする。でも昨日の今日で、いったいどこから聞きつけるのやらの耳の早さなのが毎回驚きだった。いや、文明の利器ってものがあるのは分かっているんだけどさ、つい地獄耳だと言いたくなるわけで…。
 オレが倒れた後、セレスティノはすぐに向かいのお店に飛び込んだらしい。ひいおじいさまと一緒にごはんを食べたお店の主人に連絡をとってもらって、そこからわりと近くにいたのだというトオ兄へと話が行ったみたいだ。
 トオ兄はすぐやってきてオレの様子を確かめてから、病院に運ぶほどじゃないがこのまま休ませてくれないかとダナに言ったのだという。
 すぐにも連れ帰りたいが、今無理に動かすよりは休ませたい、仕事の都合で付きっきりで見てやることも出来ないが、ホテルに置き去りにするよりはひと目のあるところにいてほしい、と。ダナは二つ返事でうけおってくれて、いちばん寝心地がよくて、すぐに様子が見られる部屋のベッドをかしてくれたらしい。それがこのダナのベッドだ。
 セレスティノはオレがここにいるいきさつを短くまとめて話してくれてから、ぼそっと、悪かったな、と付け足した。
「閉め切った部屋で空調入れ忘れてりゃ、どこの我慢大会だって感じだよなあ…」
 ダナにもしょっちゅう叱られるんだが、つい、な、と呟くセレスティノも、ピアノと向き合いすぎて周りが見えなくなる質らしい。
 そういえば、あの時いた部屋はずいぶんと暑くなっていたように思う。オレ自身、まるで気づかなかったのだから同罪だ。
「セレスティノは悪くない。オレがいけなかったんだ。オレよく…叱られる。少し音を追いかけまわすのもいいが加減を覚えろとか、ピアノは逃げないぞ、とか…」
「でも音は逃げるからな。その時追わないと忘れちまう」
「…うん」
 冷静になってみれば、後でも良かった気がするときもあるけど、そこはそれ。その時はそんなこと思いつきもしないから。
 セレスティノにもそういう時があるらしいと分かると、オレは妙に親近感というのか、幾らかほっとするような気持ちになって、レモネードに視線を落とす。
 ぐるぐるとわだかまっていた気持ちはどうしようもなく絡んで言葉になりそうにもなかったけれど、口の中にほどよく広がる酸味に、ふっと言ってみようかという気持ちになった。
「オレ…。すきなんだ」
「……?って」
「えと…、音を追ったり、組み立てたり。オレは色んなことが途中でだめになるけど、これだけは最後までやりたくて…」
 とりとめないオレの話にセレスティノが顔を上げる。
 その顔は少しだけいぶかしそうで、でも続きを促すようにつよめの眼差しがオレを見る。
「でも…、すごくこわくなる。曲づくりやピアノが思うように出来なくなったら、そのことで多くの人に迷惑をかけたらって思うととてもこわい」
 オレは怖じけているんだと思う。アルバムの話がたとえば現実のものとなったとき、そこにはとてもたくさんの人が関わる。そこでもしまた音浜祭のときみたいに急に体調を崩して、最後まで関われなくなったら。
 オレはたぶんとても申し訳なくて、かなしくて、つらくて。
 そうなったとき、オレはどうなってしまうんだろうって。もう2度と曲づくりやピアノをやりたいと思わなくなるんじゃないかと思う。
 失敗すると決まったわけじゃないのにそのときのことを考えてしまうなんて、いけないとは思う。でも、…。
「オレは…、オレの中だけでそっと音を守っていけたらそれでいいんじゃなかいって思って。そうしたらきっと、何も誰も…壊れたり傷ついたりしない」
「後ろ向きなんだな」
「…………」
 本当にそうだった。
 オレはすごく、後ろ向きに考えてる。
 うつむいたオレにセレスティノは少し考え込むように黙り込むと、ぽつんと小さく口をひらく。
「俺は見てみたいけどな」
「……え?」
「まだだめだ、まだ先がある、って体いっぱいに悔しいって思いをあふれさせてるやつが、つまづいて盛大に転んだからもうお終いだ、で済ませるわけねえと思うし。俺はあんたの音がこれからどうなっていくのがすげえ気になる」
 要領の得ないオレの言葉を気にした様子もなく、セレスティノはあっさりと口をひらく。
 オレはセレスティノの声に吸い寄せられるように顔を上げた。
「俺もまあ、相当ピアノばかだとは言われっけど。レンも相当だろ。小難しい音楽理論に文句を付けるのも、偉大な作曲家ってやつの曲に感動してちょっと旅に出たくなるのもさ、楽しいし、ピアノでめちゃくちゃ落ち込んでもいつのまにかその前に座ってるのもやめられねえ」
 オレはこくりと頷いた。
 何があってもどんなときでも、ふと気づいたら真っ白な五線譜がオレの前にあって、ピアノの前に行きたくなる。
「もしかしたらいつか、弾けなくなる日が来るのかもしれない。でも、今ならできる。それでいいんじゃねえの」
「…今なら…?」
「そう。今日がだめなら明日。またあの曲、弾いてくれないか。他にもレンが作った曲があるならそれも。てか楽譜あるなら寄越せ」
「そ、それを言うならオレに雨だれ。セレスティノ、雨だれ弾いてくれ」
「あの曲が先だ」
「先に頼んだのはオレだって」
「そりゃレンが隠し球持ってるからだろ」
「隠してない」
「いや、他にもある気がする」
 妙に確信を持ったセレスティノと押し合いへし合いあっちが先だこっちが先だと言い合っていると、扉がばたんとあいた。
「はいはい、わんぱくミューズたち。そんなに元気ならちびたちの話相手をしておくれ。気になって仕方ないようだからね」
 ダナが威勢良く言い放つ後ろで小さな顔がひょこりとのぞく。
 オレとセレスティノは顔を見合わせ、どちらともなく吹き出した。
 音楽の神さまからは離れられそうにもないけれど、ダナのひと声にはあっさり白旗だ。…たぶん、それぐらいのことなのだ。
 小さくてささやかで、でもオレたちみたいなのにはとても大切で。白旗上げてもこりずに戻ってくる。
 にいちゃんたちがわらってる、と騒ぐセレスティノの弟妹たちの楽しげな声に包まれながら、オレはゆっくりと静かに、ほんの少しだけ前とは違う音が響いていくような、そんな気持ちになる。
 それはとても心地よくて、前向きになれるような。そんな音だった。



- 43 -

[back]  [home]  [menu]  [next]