「andante -唄う花-」



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「あー、この感触だよね。蓮くんはやっぱりこうじゃないと」
「か、カオ兄…っ」
 ぎぶ、ぎぶあっぷを訴えますっ。
 ぎゅーっと押しつけられるカオ兄の感触にもがいていると、ため息混じりの助っ人が入って、オレはどうにかカオ兄の腕から離れられる。
 い、息が止まるかと思った…。
「薫…、ほどほどにしておけといつも言っているだろう」
「すみません。でも透兄さんは蓮くん独占できてお肌つやつや、男ぶりも上昇してるなんて。もっといっぱい蓮くんを補充したいです」
 カオ兄の腕からトオ兄の腕の中に移ると、カオ兄はしょんぼり悲しそうな目でオレの方を見る。両腕はまだ足りないというように中空をさまよい気味だ。
 これはなんというか、カオ兄、ものすごく疲れちゃっているのだろう…。
 大変だったんだろうなあ。カオ兄。いつもすごく忙しいんだ。今回のことだって、ほとんどむりやり時間を作ったとか聞いたし…。
 トオ兄の腕の中から手を伸ばして、お疲れさま、とカオ兄の頭を撫でると、うっ、とうめいたカオ兄がもう1度両腕を伸ばしてきたけれど、次はわたくしですわよ、というきっぱりとした声に阻まれて届かない。
 ナギ姉によしよし怖かったわね、とばかりに撫でられながら、オレはおろおろとふたりを見る。
 なんだかふたりともいつもよりテンションが高いというか…。そんな気がするんだけども気のせいかなあ。真上のトオ兄を伺うように見上げたけど、トオ兄はどうした? とさりげなくオレの前髪を撫で上げて、弟妹ふたりのやりとりにはそ知らぬ顔だ。
 カオ兄もナギ姉もトオ兄とは年が離れているせいか、トオ兄にはあまり絡まないし、トオ兄も基本的にあまり口を出さない。でも無関心かと言えばそうじゃないし、いつもそれとなく見守ってくれるような安心感とかあって。
 ナギ姉たちもオレに合わせて動いてくれようとするけれど、小さな頃はそういうのがうまくいかないこともある。トオ兄はいつもそんなオレたちをうまく取りなして、力配分というのか、バランスをうまくとってくれていた。
 ああほんと、トオ兄にもいつも迷惑かけっぱなしだよな、オレ。それなのにトオ兄の疲れたところとか、あんまり見たことない。
 何となくトオ兄にも手を伸ばして、ぱふりと頭を撫でると、なぜか3人ともがぴたりと動きを止めた。
「どうした、蓮」
「ん? …トオ兄も疲れてないかなって思って。オレにできることとかあったら言ってくれよな。肩もみとか、お弁当とかぐらいならできるぞ」
 トオ兄が好きな食べものだけを詰め込んだお弁当とかさ。もちろん、オレがでしゃばるまでもなくトオ兄の好みを把握した料理のプロが完璧なお弁当を用意してくれるだろうけど、ちょっと小腹が空いてるときとか用にさ。
「ありがとう。じゃあ、今度おにぎりを握ってもらおうか」
「うん、おにぎりな」
 トオ兄が好きな具は梅干しと昆布だ。できるだけおっきく握っていっぱい具を入れよっと。
 少しうれしそうに目を細めたトオ兄を見て、オレもしあわせな気持ちになった。
「久しぶりに見ましたわ。お兄さまの油断しきった顔」
「でれでれを通り越してお花畑? 見てて恥ずかしいぐらい素直な笑顔っぷりだよね」
「渚…薫…」
 あ、トオ兄のいつも通りの顔だ。眉間にくっきりはっきりしわを刻み、ふたりをにらんだトオ兄が深く深く息を吐く。
「人のことは言えないだろうが。…蓮。ひいおじいさまにしらせておいで。…走らなくていいからな?」
「…うんっ」
 お城の廊下は広くて長いからついつい急ぎたくなってしまう。
 のんびりゆったり歩くのも楽しいんだけど、やっぱり急ぎたいときっていうのもあるわけで。そういうときってどうするんだろうと思ってリッフォートさんに尋ねたら、内緒だけど秘密の通路があるんだって言ってた。
 それを使えばびっくりするぐらい短い距離で移動できたりもするって。今度教えてくれるという話だから、今からすごく楽しみだったりする。
「じゃあちょっと行ってくる」
 ひょいとトオ兄の腕から飛び出して、オレは真っ直ぐ通い慣れた道を辿った。
 すでに誰かしらが伝えに行っているとは思うけど、ここは壁が厚いから、ちょっとやそっとのことじゃ隣の部屋にいる相手のことも分からない。扉を叩くとすぐに応答が返って、オレはひいおじいさまの部屋の中にするりと入った。
「あの気むずかしい方にこうまで懐いてしまうなんて、さすがですわね…」
「………うん。蓮くんって、末恐ろしいよねえ…」
「今さらだろう」
 ずっと後ろで3兄弟がごにょごにょと話す声が聞こえた気がしたけど、扉がぱたりと閉じるとそれも遠い。
 部屋の中にはリッフォートさんがいて、窓辺の椅子にゆったり腰かけたひいおじいさまがオレを見て頷く。
 みんなとひいおじいさまとを早く会わせたくって、オレはついつい気が急くけれど、ひいおじいさまはいつも通りのゆっくりとした足取りで、慌てずとも大丈夫だ、と言うようにオレの手のひらを小さく叩く。
 オレはひいおじいさまの杖がわりになりながら、うん、と大きく頷いた。




「こうして大勢で食卓を囲むと、昔を思い出しますな」
「ええ、懐かしいですね」
「父上もお元気そうで安心しました」
「…ああ。そなたもな」
 今夜のテーブルには、あらたに加わったナギ姉たちにあわせて、現エルシュテット侯である長男家族も招かれていた。
 ひいおじいさまは相変わらず口数は少ないものの、食卓は一気ににぎやかになっている。
 正しく言えば、ひいおじいさまの長男であるブレーズおじいさまと、その長男のブノアおじさんと、その子どもであるエドモンさんと一緒の夕食だ。エドモンさんには弟がふたりいるけれど、彼らとは残念ながら予定が合わなくてまだ会えてない。
 ブレーズおじいさまの奥さまであるソフィアさんとブノアおじさんの奥さま、ヘレンさんは、先に午後のお茶会で一緒に過ごしたので、今はいなかった。ふたりの奥さまたちは今夜は観劇に行くというので、先にお茶会をしたのだけども、ものすごく元気な奥さまたちだった。
「なんてことでしょう。すごく着せ替えしたいわ」
「ええ、これはぜひ作らないといけませんわね!」
 って、どこかで聞いたみたいな発言が飛び交い、問答無用でサイズを測られたナギ姉とカオ兄を遠くに、そうっとすみっこで隠れてたつもりだったんだけども、あっというまにトオ兄と一緒に着せ替えされて、サイズなんて測るまでもない状態だった。
 ソフィアさんとヘレンさんは、服飾関係のお仕事をしているそうで、トオ兄には仕事でも使えそうなスーツ、オレには普段着にできそうな感じの服をひいおじいさまから頼まれてあつらえてくれていたらしい。
 トオ兄にはすごく満足げな視線を向けて軽い手直しぐらいで済ませていたのに、オレはしばらくじいっと見た後、違うとかこれじゃダメだみたいなことを口にして、下絵からやり直すことになったのには、何というか…申し訳ないというか、その、どこかで見た覚えがありすぎる目の輝きは…見なかったことにすべきかもしれない。
 オレとしては服って良く分からないし、用意してくれたものをありがたく着ているだけで、本当だったら、前髪と眼鏡も戻したいんだけど、もうあってもなくても一緒だよ的な空気が流れててさ…。
 まあ、何着てもかわいいよ、と身内の欲目な発言をしてくれる人たちが多いのはありがたいような、参考にはならないような、なんだけども、…。
 なぜかこのところ、着せ替えしたがる人たちが周りに増えているのが謎だった。今までは桜朱恩のおねえさまたちだけだったのに、おじいさまとか世儀のお屋敷の人たちとかもあれこれ見つくろってくれるし、はっと気づいたらオレ、すごい衣装持ちになってて、びっくりだ。
「それにしても、子どもの成長というのは驚きますな。前に会ったときはこんなに小さかったのに」
 ちょびひげブノアおじさんがトオ兄を見ながら、手で高さをつくる。ちょうど膝ぐらい、椅子の座面の高さだ。
 それはさすがに小さすぎる気がしないでもないけど、気持ちはすごく伝わってくる。
 トオ兄もちょっと苦笑いだ。人並みより背が高いトオ兄のことだ。小さかったのに、と言われることそのものが耳慣れないに違いない。…ちょっとその背丈、オレにゆずってくれないかなあ。
 でもさ、これはつまり、トオ兄だってはじめからこの背丈だったわけじゃないってことだ。オレにも望みがあるみたいな?
 わくわくどきどきしているのを見透かしたみたいに、トオ兄たち3兄妹がほほえましげな目をオレに向けてくる。
 お、オレだってきっとでっかくなるんだぞ。
 ほんとだぞ。…たぶん。
 そんなオレの期待の向こうでよく笑いよく話すブノアおじさんは、ちょびひげがかっこいい陽気な人だ。
 その息子であるエドモンさんはお母さん譲りらしい明るい茶色の髪に好奇心いっぱいに輝く青い瞳がとてもきらきらしてて、トオ兄のふたつ上なんだけれども、あきらかにトオ兄より元気いっぱいな気がする。
 けれどもエドモンさんのおじいさまにあたる、ブレーズおじいさまの抑揚をおさえた感じの話し方や、ちょっとした仕草がエドモンさんとよく似ていて、お父さん似というよりはおじいさん似だった。
「やっぱり写真でみるだけじゃ分からないものってあるよね。君たちを見て、つくづくそう思うな」
「そうですか?」
「うん」
 エドモンさんの話し方は堅苦しくなくて、でも一方的と言うこともなく、オレたちの間にはまるでずうっと前からの知り合いみたいな打ち解けた空気が流れる。
 エドモンさんとは仕事で多少付き合いがあるらしいトオ兄も、くつろいだ様子でエドモンさんを見た。
「そういえば、祖母が定期的にやりとりしていたと伺いましたが」
「そう。ソフィアおばあさまとトウコさんがね。トオルはね、写真と変わらない落ち着きぶりだなあと思っていたんだ」
「あら。透兄さまはそれほど落ち着いているわけでもありませんわ。約1名の前ではしょっちゅう表情を変えてますし」
「そうそう。それだ。たったひとりが加わるだけで、人はこんなに人間味が出るものなのだと感心してね」
 確かにトオ兄って黙っていれば迫力あるし、実際こちらがびっくりするぐらいできる人だし、まあ、それはカオ兄やナギ姉たちも同じなんだけど。
 だからこそそういうのって、写真では伝わりにくいかも知れない。
 たとえばこのお部屋だって、写真で見れば装飾ひとつとっても見事で、テーブルクロスの白さや優美な螺旋を描いた脚の木目の良さや、そういうものが分かる。
 けれど笑い声が響き、笑顔が満ちた室内がいつも以上に華やいでいることは、実際この場にいなくては、うまく伝わらないかもしれない。
 こうまでお城が似合う人たちもいないかも、と思うぐらい、ブレーズおじいさまたちもじいさまたちもしっくり空気に馴染んでいるのだ。
 カオ兄なんて、いつどこにいたってきらきら代名詞ぐらいの眩さだけど、いつも以上に輝いてて。でも、大抵の人が視線を奪われてしまうそんなカオ兄の姿にも、さすがというべきか、エドモンさんたちは全く動じていないのもすごい。
 あとで聞いたところによればエドモンさんの弟さんたちもけっこうな美人さんらしくて。写真見る? と言われて見せてもらったら、なんという美形3兄弟、という写真で驚いた。なんだろう、血は争えないみたいな。
 ひいおじいさまも今だってすごく格好いいけど、若い頃は相当もてたみたいだし、何かオレだけ、格好いいから離れてしょんぼりというか、どうして、かわいいかわいい言われるんだろうなあと遠い目になったりしたけど。
 まるで宝石箱の中でものぞき込むような室内の華やかさはオレにもぽうっとするような穏やかさをわけてくれる。
「レーヌ」
 にこやかにさらりと交わされるむずかしい話や、聞いているだけでも楽しいもの珍しい話に耳を傾けていると、ひいおじいさまに声をかけられてオレはこくりと頷いて席を立つ。
 相変わらずどこかむっつりとした顔をされていることが多いひいおじいさまだけど、オレもだんだん慣れてきたので、ちょっとした声の違いとか、表情とかで、その日の体調や機嫌が分かるようになってきた。
 今日は早めに上がられたいんだろう。
 食事は終わっていたし、話もちょうど切りがいいところだ。オレがひいおじいさまのそばによると、ひいおじいさまはオレの肩につかまって短い挨拶をみんなに向ける。
 おやすみなさいと口々に声がかかり、ひいおじいさまが頷く。
「レーヌ」
 オレはひいじいさまにつきそい、いったん部屋を後にする。
 ひいおじいさまのお部屋にはオレが摘んできたバラの花がまだみずみずしく甘い香りを漂わせていて、オレはリッフォートさんを手伝い、水差しからコップに水をそそいで、ひいおじいさまのそばに置いた。
「夜更かしはせぬようにな」
「うん。ひいおじいさま、また明日ね」
 頬を寄せ合うように抱きしめ合って、おやすみなさいを告げる。
 ひいおじいさまは外で精力的に動かれる日もあるけれど、大抵の時は部屋でゆっくりしていることが多い。そういうときはいつも早めに部屋で休まれるのだ。
 オレとひいおじいさまの生活サイクルはわりと似ていて、同じようにのんびりしているから、オレも少しだけ眠くなってくる。
 オレも早めに休もうかな、とぼんやり考えながらみんなのいる食堂へ戻ったオレは、その途端みんなの視線を集めて、少しびっくりした。
「驚いたな。父上が誰かを頼って動かれるなんて」
「…………」
 ブレーズおじいさまが、少しも驚いた素振りのない顔で口をひらく。
 オレはとっさにぴたりと足を止めた。
 責められている…って感じではなかったけれど、ブレーズおじいさまの目線は鋭くて、返す言葉につまってしまう。
 動けないでいるとじいさまがいつも通りのほんわりとした笑顔で、座りなさい、と促してくれた。
「レーヌと呼ばれているのかね」
「は、はい」
 女の子の名前みたいで恥ずかしくないのかとか、ひいおじいさまがオレの性別を勘違いされているのかとか、そういうことなら、オレは何というか、正直なところあんまり気にしていないし、ただ呼びやすいからひいおじいさまもそう呼んでいるのだと思うけれども。
 なんと言えばいいのか迷っていると、ブレーズおじいさまは少しだけ目もとを和らげてゆるく首を振った。
「すまないな。驚かせたようだ。わたしはどうも言葉が足りないらしい」
「い、いえ」
「父上似だと言われるわたしが言うことではないが、…父上が怖くはないのかね」
「……こわい、ですか?」
 オレは訳が分からなくて、首を小さく振った。
「ひいおじいさまはたくさんお話される方じゃないですが、とてもやさしいです」
「蓮はかわいさは天下一品ですからねえ」
 ブレーズ兄上のしかめ面も笑顔で受け入れられる良い子なんですよ、とさらりと言い放つじいさまに、ブレーズおじいさまの眉間にしわが寄った。
 ……ちょっとトオ兄を思い出させるため息付きだ。
「ロラン…そなたの孫煩悩ぶりも相当だとあきれたいところだがな。そもそもおまえのような男からこんな和やかさのかたまりのような孫ができるのが、不思議でたまらん」
 苦虫をかみつぶしたように言うブレーズおじいさまに、じいさまは薄い青の瞳を楽しげにきらめかせ、少し誇らしいような、愛おしそうな顔でオレを見る。
 オレはいまいち状況が分からなくて、隣のナギ姉にそうっと視線を送ってみたけど、ナギ姉も、トオ兄たちもどこか嬉しげに微笑んでいて、オレに説明はしてくれない。
「レーヌか。ぴったりだね。すごく似合う」
「………」
 エドモンさんがにこやかに言う。
 その声音は心の底からそう思っている節があって、オレは少し気恥ずかしく、それでいて、うれしいようなそんな気持ちになった。
 そういうふうにひいおじいさまに呼んでもらうのは好きだ。ぴったりとまで断言されるとそれはちょっと微妙というか、日々男らしさを追求している…予定のオレとしては…、ここはうなずくべきじゃないかもしれないけれども、やっぱりうれしい。
 反応に困りながらエドモンさんを見上げると、エドモンさんは口もとをむずつかせ、きらきらと輝かせた目をオレに向けた。
「うわぁ、なんだろう。かわいすぎるっ。うちの弟たちに見習わせたいぐらいだ。トオル、このかわいいレーヌとうちの弟とをしばらく交換してくれないかな」
 はいぃ?
 なんでそうなるんだっ、と慌てたオレに、話を振られたトオ兄は至極真面目な顔で首を横に振った。
「お断りします」
「えー。そんなぁ。ああみえてうちの弟たちもけっこう、お買い得だよ。学校じゃすごく人気があって、ファンクラブみたいなものもあるみたいだしね」
 ええっ、こっちの学校にもそういうのってあるのかっ。
 いや、そういうのがあるのは別におかしくないのかもしれないけど、どこかで聞いた話というか。オレ、エドモンさんの弟さんたちと会うときはじゅうぶん気をつけないといけないかもしれない。
 身に覚えがありすぎる騒ぎを思い出してぐったりしかけながら、でもまあ…と思う。
 カオ兄の場合は今まで限られた人しか近づけないでいたのに、ぽっと現れたオレが急に隣にいだして目障り、というのがあったと思うけども、殆ど見ず知らずのオレとエドモンさんたち兄弟との間では、そんなことなんて起こるわけないかと冷静になる。
 それにしてもエドモンさんの弟さんたちはどんな人なんだろう。写真から見た感じだと少し気むずかしそうな感じもするけれど、人は見かけによらないし。
 ぼんやりそんなことを考えていた向こうでエドモンさんとトオ兄の話は続いていたらしい。にこやかに、でもどこか真剣さを帯びた青い目でエドモンさんが口をひらく。
「じゃあ、君が欲しがっているあの商標権と交換」
「エドモン…どれだけ本気なんですか…」
「かなり? あ、レーヌの音楽活動はうちがバックアップしていいかな? マネージメントは得意だよ」
 さらりと言われたひと言に、オレはぎょっと肩をこわばらせた。
「あ、あの音楽活動なんて、その、オレ素人で」
「はじめはみんなそうだよ。でもあのアルベルティにアルバム出演を依頼されたんだから、蓮は立派な音楽家だと思うけどね」
 それ、カオ兄たちにはまだ言ってない話というか、かんぺき、未確定の話というか、その。
 むしろ、初対面のエドモンさんがどうして知っているんだろうという。
 あたふたするオレに、ブレーズおじいさまがちらりと視線を向ける。
「レーヌのアルバムがでるのかね」
 いやそのオレのアルバムじゃなくって、あの。
 そう直球で言われるとどう答えたらいいのか分からないというかっ。というか、ブレーズおじいさまはレーヌって呼ぶのが気に入ってしまわれたみたいだ。
 はくはく声が出ないままのオレの代わりに、エドモンさんはブレーズおじいさまに頷いた。
「あのアルベルティが大絶賛しているらしいですよ。ピアノもいいし、作曲もすごいらしくて」
「ほう…。そういえばレーヌは、母上の部屋を使っているのだったな。なるほど。父上があの部屋をあけたぐらいだから、いい音を持っているのだろうとは思っていたが」
「せっかくならソロアルバムでもいい気はするんですけどね。今回のアルバムはおもしろそうな企画ですから、レンのデビューには良いと思うんです」
「昼に聞かせてもらったんですがね、いやあ。久々に燃えましたね。レン、何、はじめてというのはちょっと怖いかも知れないが、くじけそうになったときはいつでもおじさんの胸に飛び込んできなさい」
 ブレアおじさんは両手を広げて、お迎えポーズだ。
 いや、えっと。飛び込ませていただくのはその、ありがたいのだけども、きっとぼうん、と弾むように受け止めてもらえそうな気がするけれども、ちょっと待って欲しいというかオレ置き去りというか。ちょっと後ろに一時停止ボタンを取り付けておいて欲しいというか。
 おそるおそるカオ兄たちを見たけど、不思議なことにカオ兄もナギ姉もにこにこと微笑んでいて、みなさまが付いていらっしゃるなら、何の心配もいりませんわね、なんてナギ姉が付け足す。
「あ。あのね。その…、これは…」
 まだカオ兄たちには話せていなかった。カオ兄たちはもうすぐこちらに来ることになっていたし、何となく言いそびれていたというか。
 いや、でも…そもそも決まった話でもなくて。
 トオ兄たちには顔を見ただけで何かあったなと気づかれて少し話してたし、父さんたちには電話したけど。
 そしたらなぜかおじいさまがものすごくやる気で、どこの制作会社だ、とか、今すぐそっちへ行くとか言われてかなり慌てて止めたけど。
 そもそも、とうてい無理な話だと思う。
 オレがあのミケーレ・アルベルティとアルバム出すなんて非現実的だというか。
 それもこんな、ずっと遠い異国の地で。あり得ないとしか言いようがない。
 なのに。…それなのに誰も、反対しないのだ。
 オレが告げる前から、何故かもうみんな知っていてさ。こんな話を聞いたんだけど、って。
 たぶんナギ姉たちも同じ感じで知ってしまったんだと思うけれど。
 後で分かったことだけど、知っていたのはナギ姉たちだけじゃなかった。学生会のみんなまで知ってて。
 どんな情報網だ、ってびっくりするぐらいみんな耳が早くて、そのくせ妙に正確でさ。あくまでそんな話が出ただけだ、って言うと、それはもちろん分かっているけれど、何か力になれることはあるか、って。具体的にこういうことなら手伝えるけど、とか、言ってくれて。
 高ノ原や広也たちまでが、本当か、という事実確認から、実務的な手続きの話まで、頼りになりすぎて怖いぐらいの勢いだったりした。
 考えても考えても答えのでないことなら、とりあえず飛び込んでみてから、決めればいい。
 それぐらいの勢いや、思い切りで、はじめてみてもいいんじゃないか。そんなふうに言ってくれたりして。でもやっぱり、こわい、とも思う。
 だけれどそれ以上に、…やってみたい、という気持ちもあるのだ。オレはそれを認めないといけないなとも思う。
 でもそんな耳ざとさの中でも、ディと秀さんの意気込み具合には、さすがにちょっとたじろいだけど。
「レンのアルバム、わたしも参加したいな」
「蓮くんの新曲あるんだって? 楽譜、すぐに送ってほしいなあ。あ、もちろんアルバムにも加わりたいなあ」
 って。
 忙しいんだぞ。有名なんだぞ。ふたりとも!
 そもそもオレのアルバムじゃなくって、巨匠アルベルティのだってば。
 そう説明したのに、それならレンで1枚つくればいいなんて言って、巨匠まで2枚組にするかとか。
 オレ頭ぱんくしそうだ…。
 エドモンさんたちにどう言えばいいのか分からなくて、ぐるぐる考えていたら本当に目がまわってきた気がして、オレは少しぐったりと背もたれにもたれる。
「レン…ごめんね。先走ったことを言ってしまったかな?」
「……い、いえ。エドモンさん。オレ…、その…。少しはしゃぎすぎてしまったみたいです。先に休ませていただいてもいいですか」
「もちろんだよ。誰か呼ぼうか」
「大丈夫です。ひとりで戻れますから」
「気をつけて戻りなさい。おやすみ、レーヌ」
「ありがとうございます、ブレーズおじいさま」
 少し気づかわしげに寄せられる視線から逃れるみたいに、オレは素早く部屋の外へ出た。




「蓮、いいか?」
「……ん」
 考えすぎて熱を出すなんて、小さな子どもみたいだ。
 ドクターパーサはすぐに下がるよと言ってくれたし、熱慣れしているオレとしてもこれぐらいなら大丈夫だとは思ったけど、トオ兄に心配ない、と言ってもらえると少しだけ落ち着く。
 オレの主治医は篠宮さんだけど、誰よりオレのそばにいたのはトオ兄だから、オレよりもオレのことを分かっている、そんな感じがしてしまう。
「ナギ姉たちは…?」
「先に休んだ。明日も早いからな」
「エドモンさんたちのお屋敷に行くんだよね…」
 ここはどこへ行くのも少し不便なので、ナギ姉たちはエドモンさんたちのお屋敷に泊まることになっていた。
 ひいおじいさまとしてもあまり急に人が増えても疲れるだけだし、本当はオレもその予定だった。でも、自然が多くてのんびりできるここの方がオレには良いだろうから、って、ひいおじいさまがここに残ることをすすめてくれたのだ。
「トオ兄…ごめんね…」
「ん…?」
「本当ならトオ兄も街のお屋敷の方がいいのに…」
「こんな素晴らしい城で仕事ができるなんて、得難い経験だ。蓮のおかげだよ」
 オレだけ残すのも心配だからって、トオ兄もお城に残ってくれることになっていた。
 トオ兄は俺の髪を撫でてから少し風にあたるかと言って、オレを毛布ごと抱きかかえる。まるで荷物なんて持っていないような軽々とした足取りで窓辺に寄ると、そのままテラスへと出た。
 白く輝く月の中にふわりと花の香りが漂う。
 どこへ言っても街灯が見え隠れする町並みとは違う、暗闇の中に沈んだ夜の庭はとても静かで、夏とは思えない涼しい風がながれていた。
「すごいね…」
「ああ」
 花も眠るのかな、とつぶやくと、トオ兄が少しだけ笑ったらしい。心地よい揺れが伝わって、オレも少しだけ笑う。
「ねえトオ兄。…聞いて、いいかな」
「…なんだ」
 いつもずっと気になってた。
 でも聞けなくて。聞いてはいけないような気がして。
 だけどこんなふうに静かな場所に、いつもとは違う遠いところにいるから。少しだけ思い切れる。
「トオ兄は…どうして、お医者さんをやめてしまったの」
 患者さんたちにとっても人気があった。
 やさしくて頼りになる先生だ、って。研修医の時からそうなんだ。だからきっと続けていたら、とても良い先生になれたと思う。
 熱でぼんやりとしたオレの問いかけに、トオ兄は少しだけ考え込むように遠くへ視線を投げかけた。
 トオ兄が医学の道を志した理由。それはオレが体があんまり丈夫じゃないせいだ、ということは知っていた。誰ひとり、本人さえもそれを口にはしなかったけれど、トオ兄はオレが寝込む度に歯がゆそうな顔をしていたから。
 何かあったときのために対応できるようにと独学で学び始めた延長が、そのまま医者としての勉強だったのだろう。でもトオ兄は、結果的に違う道へ進んだ。
「たったひとりだけ治したいと願う医者なんて、ろくなものじゃないだろう」
「…………」
「でもいちばんの理由は、…こんなふうにそばにいられないなら、意味がないと思ったからかもしれない」
 トオ兄はテラスにあった長いすにオレを下ろして隣に腰かけると、穏やかな顔で夜の庭を見つめた。
 オレは毛布の暖かさとトオ兄のぬくもりを感じながら、同じように庭の方へ視線を向ける。
「オレね、トオ兄…」
 もうじゅうぶんしあわせなんだよ。
 トオ兄の道をまげてまで、オレに付き合ってくれようとなくてもいい。
 そう伝えたかったけれど、トオ兄はそんな言葉なんて望んでないだろうとも何となく分かって口をつぐむ。
 たぶんトオ兄は好きなようにするのがいいと言うだろう。トオ兄もそうしてきたって。それはきっとその通りでもあり、少しだけ違っていたりもするのだろう。
 だけれどトオ兄はそのことを悔やんでいるわけではないし、オレもそんなふうにできたらって思う。
「オレ…。いい曲つくりたいな。もっとたくさん弾きたい…」
「ああ。蓮ならできる」
 大丈夫だ、というトオ兄の声と力づよい腕の感触にオレも頷く。とろりとした眠りがオレの中に広がって瞼が降りたけれど、明日になればきっと熱も下がるだろうという予感がオレの気持ちをやわらげ、不思議と力がわいてくるような気がした。



「ミケーレ」
「…いい顔つきになった。覚悟は決まったかね」
「はい。挑ませてください」
 どうなるかはやってみないと分からない。
 だから飛び込んでみよう。
 オレはそう決めた。



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