「andante -唄う花-」



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 そのコテージはうっそうとした森のそばにぽつんと建っていた。
 苔むした壁と陽射しが遮られてできた暗がりで、どことなくどんよりと湿っぽい空気が満ちている。
 わずかな光の中で白く輝くスーツを身につけたヴィクトルはひとり、おばけの住み処だ、と青ざめた顔で呟いた。
「大丈夫か……、えー…とヴィクトル?」
「どこをどう見て平気だと、……うっ」
 車酔いってなかなかたいへんだよなあ。ビニール袋に顔を突っ込んだヴィクトルに、ニーノは早く吐いた方が楽になると言ってあめ玉を食べながらその体をゆすっている。
 待て待てちょっとニーノ待て。にっこりほほえんだ姿がとってもかわいいけど、ええとその、両手に持った袋から、中身がこぼれてるから…っ。
 さらなる不幸に見舞われるヴィクトルの白いスーツに転がり落ちたあめ玉が引っ付いて赤い水玉模様が並ぶ。
 うわぁあ……。
 オレはうめくヴィクトルの背中をさすりながら、コテージの外観はともかく、中の雰囲気に少し驚いていた。
 どこも現代的に整えられているし、寝具も清潔だし、トイレや浴室なんかも新しかった。もしかするとつい最近、内装を入れ替えたのかもしれない。
 4人で一部屋使うようにと言われた部屋は小ぶりのベッドが4つ、前後に並んでいて、それぞれの荷物は隣に並んだクロゼットに片付けられるようになっている。
 しばらくしたらヴィクトルの吐き気もおさまってくれたようで、それでいったん落ち着けたかと思ったんだけど、そうはいかない。
 ここにちょっとひと休みに入ったわけでも、お泊まりを楽しみに来たわけでもなく。
 ピアノを教わりに来たのだから、ピアノがなくっちゃはじまらないんだけど。
 本来だったら、グループレッスン用と、個人で使える形のものが置かれているはずが、あきらかに無理矢理入れたんだろうなって雰囲気で、キッチンとひとつながりのリビングにグランドピアノが1台。
 一般家庭にこれ入れようとしたら大抵こうなるぞ、というとても良い見本。あんな大きいのを置ける場所なんてそうそうない。
 納得は出来るんだけどわりとけっこうすごかった。
 黒いかたまりが、どどーんって。居住空間に居座っている圧迫感。
 立ちすくむオレたちの向こうでフリーデン先生は冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出してちまりと口をつけた。
「あー。そうそう、お腹空いたら適当に食べて。そこの奥に食料をまとめて置いあるから」
 室内を見てまわるあいだに顔色が良くなってきたヴィクトルは、その説明に白かった頬を赤く染め上げた。
「敷地内のレストランを使える話になっていたはずだ」
「いちいちあそこまで行くの、時間の無駄だし運転めんどうだから」
「ふざけるなっ。この講習の売りは音楽以外はすべてそろった完璧な環境だろう。事務局に文句を言ってやる…っ」
 気色ばんだヴィクトルはスーツの胸もとから白い端末を取り出したけど、その動きがぴたっと止まった。
「電波が、届か、ないっ」
 それは電話をかけられない、ってことだよな。
 電波を探しているんだろう。ヴィクトルは部屋中をうろうろと歩きまわり、小さな機械を捧げ持ちながら様々な角度を試す。
 そのさまは、ええとなんというか笑ってはいけないと思うんだけど、ものすごくきちっとしたスーツ姿なものだからギャップがあって…あっ、ニーノ、プリッツでつついちゃだめっ。
「油じみは後で落とすのがたいへんだって」
「そーなの? レン詳しいな」
「ニーノ、何度も言うがお菓子をもって近づくな…っ。そして食べかすを落とすな…っ」
 ヴィクトルはひとくちも食べてないのに、せっかくの白いスーツがお菓子の粉でいっぱい汚れている。
「わー、本当だまるっきり圏外だね」
「ニーノっ。誰も僕に近づくなっ、電波がうまく入らなくなるだろうっ」
 電話に使われる電波に詳しくなくって自信が持てないけど、そ、そういうものなんだ……。慌てて言われたとおりそっと離れる。
 オレが置いていこうとして渡されたやつはどこででも使えるって言われたけど、いろいろあるんだなあ。むずかしい。自分のをのぞきこんでみたけどさっぱり分からなくって首を傾げる。
 ヴィクトルからいったん離れたけど、またすぐ近づいていらいらしてるときは甘いものがいちばんだよ。とか、言い出すニーノはなんというか。ああっ、次に手にしているのはチョコレートだまずい。
「う、上着脱いだ、ほうが……」
 白いスーツが茶色く汚れてしまう前に……っ。早くっ。
 動いて暑くなってきていたらしいヴィクトルはいい案だとでもいうような顔で頷くと、上着を脱ぐ。
 ス、スーツの下もなんだか上等そうな真っ白いシャツでオレはどうしたらいいのか……。
 これは絶対にクリーニングだ。おしゃれ着洗いだ。ここにホームクリーニング用洗剤なんてあるのか。
 わたわたするオレの向こうでセレスティノは冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を見つけてコップに注ぎ、ひとりで飲んでいる。
 セレスティノ、ヴィクトルに付き合う気はまったくないんだな……。小さな子どもが地団駄を踏んでいるとでも言わんばかりの素っ気なさだ。
 とはいえ、みんながちっとも後に続かないものだから、ヴィクトルはいらだちを飲みこむほかなかったらしい。少しずつ日も暮れてきたし、今日はここに泊まらなければどうにもならないと判断したのだろう。
 とりあえずその日はすぐに食べられそうなもので簡単に食事を済ませ、それぞれシャワーをあびて眠ることになった。
 もともと到着日は施設を見てまわったり、参加者の自己紹介とかで終わる予定だったし。
 明日になれば、本格的なレッスンがはじまるわけだから。寝て起きたら案外、気持ちがすっきりおさまっていることだってあるだろう。
 ……そう、オレも思ったんだけど。
 そんなうまくはいかなかった。ヴィクトルは翌朝ふたたびいらだちをはじけさせたのだ。
 レッスンらしいレッスンがはじめられなかったから。
「どうしてそんなに平気な顔をしていられるんだっ」
 シリアルにミルクをかけただけの簡単な朝ごはんを済ませた後、フリーデン先生は応募映像に使ったのと同じ曲で全員に演奏させてから、何も言わずに部屋に閉じこもってしまい、みんな手持ちぶさたにピアノのあるリビングに集まっている。
「ヴィックは朝からにぎやかだねえ」
 チョコチップス食べない? とニーノは新しい袋をあけ、甘い匂いが室内に広げさせる。
 ヴィックと愛称でヴィクトルを呼んだニーノは、後で聞いたら親同士の付き合いがあって、そこそこ長い関係らしい。
 そう言われてみれば2人の口ぶりには遠慮もない分、いくらか理解もあるような。
「断る。虫歯になっても知らないからなっ」
「きちんと歯は磨いてるよー。ほらー、ぴかぴかでしょー?」
 まだ何にもお菓子を口に入れていないので、すっきり爽やかに白い歯が輝く。
 あれだけ食べていて虫歯ないなんてすごいなニーノ。
 思わずそうもらしたら、ニーノがうれしそうに胸を張った。虫歯菌にはむかしっから、勝ち続けているらしい。
 2人のやりとりを見ていると、ミケーレとカーヴェさんの姿が思い浮かぶ。2人の若い頃ってもしかしてこんな感じだったんじゃないだろうか。
 この前なんてカーヴェさんのとっておきチョコレートが入った冷蔵庫をあけたら、1日1個にしろ甘党め、って殴り書きが張ってあってさ。チョコレートの数に合わせた手製のカレンダーまでつけてあるのが何と言うか、やさしさと切なさが胸に染みわたる……。
 なにしろ付き合いが浅いオレに、あの甘党をどうにか抑える方法はないものかと助言を求めるぐらい、ちっとも言うことを耳に入れてもらえてない。
「レンもどう? おいしいよ。朝もあんまり食べてなかったでしょ、お腹空いたんじゃない?」
「ありがとう、でもまだおなかいっぱいで」
 オレとニーノってそんなに体格変わらないはずなんだけど、いったいこの違いはどこから来るのかとても知りたい。
 小柄なニーノの食欲旺盛さは目を見はってばかりだ。
 オレもこれぐらい食べられるようになったら、カツ丼大盛りとかカレー大盛りとか挑戦できるようになるのかもしれない。あとケーキ食べ放題とか。
 誰かがするするごはんをお腹にいれていくのって見ててすごく楽しいから、すごく真似してみたくなるんだけど、あいにくまだおなかに入りそうにない。
 お城にベランジェが来てから、ものすごい山積みにされたパンとか肉とか並んでいてとてもにぎやかになった。お皿からあふれんばかりに盛られたソーセージなんてすごいんだ。ほっかほかのもわもわで、ただよう湯気からして、口の中に香辛料とお肉の旨みがじゅわって広がりそうで。
 あんまりすごいんでひいじいさまもオレもぼーっと眺めてしまい、手と口を動かしてくださいと、そろって促されてしまう始末。
 ちなみにオレが留守にするから、ベランジェもいったん家に帰るらしい。
 本当はここにもついていきたいって言ってたんだけど、マネージャーをしているという友人のひとが絶対にダメって叱って、ものすごく恐縮しながら首根っこつかんで連れて帰ったのだ。
 普段はその人がベランジェの身のまわりとかの面倒も見てて、少なくとも部屋があれほど散らからないように気をつけてるらしいんだけど、オレとベランジェが出会った時は急用で数日留守にしていたみたいだった。
 その何日かだけであれだけの部屋にしてしまえるベランジェが本当にすごいというか、いつもはそれをどうにかしているマネージャーさんがとてもすごい。
「レッスンを放り出して引きこもっちゃうのはさすがに予想外だったけど。楽譜もCDもそろってるし、退屈はしなさそうだよね」
「ああ、ずいぶん揃ってるよなあ。オレがずっと探してたのもあって」
「知っている、あれでしょ。94年版」
「そう。すごくびっくりした」
 有名どころから、もうだいぶ前に廃盤になっちゃって手に入らないものとか。
 最近はインターネットを通して古い音源でもどの国のでも気軽に聴けるようになったけど、全部じゃないし、ずっと探してたけど見つからなかった少量生産のとかまであって、すごくびっくりした。
「書き込みがある楽譜も多い」
 セレスティノは朝からめくっているうちの1冊をオレたちに見せてくれる。
「すごい、びっしりだ」
「神経質そうな文字だな」
「そう? ヴィックとも似てない?」
「似てないぞっ。断じてだっ」
 インテリアのひとつとして揃えられたのではなく、誰かが使ってきたものだと分かる。
 右斜めに跳ね上がったくせ字でとても読みづらくもあるけど、ものすごく勢いを感じる。どれぐらい読み込んだんだろう。
「これを読んでるだけでもかなり面白い」
「他人の楽譜をのぞいて何が楽しいんだ。こんなの所詮、自分ではない誰かの解釈だろう」
「ずいぶんと恐がりなんだなおぼっちゃん。そんなにまわりの影響を受けるのが嫌なのか?」
 からかうようにセレスティノが唇を引く。
 ヴィクトルは目の前にすりこぎがあったらいくらでもすりつぶしたに違いない目つきでセレスティノをにらみつけ、ふん、と息を吐いた。
「よそごとすべて、からかいの種にしか見えないとはお気の毒だ。音楽神の寵児と呼ばれる君には世界は斜めに見えるらしい」
「なんだと?」
「セレスティノ、待てって」
「ヴィーック、やめてよね。お菓子が味わえなくなる」
 ここでオレたちに求められているのはそこそこうまく1週間ぐらいお付き合いできる能力、なんだろうけど。
 そうは言っても、お互いこんなことになるなんて思ってなかったわけだし。ちょっとしたことがいらだったり、飲め込めなかったり。そういうのって当たり前にある。
 繋がらないままの小さな機械をのぞきこんで眉を寄せているヴィクトルは特にうっぷんがたまっていることがはっきりと見てとれるし、落ち着いてみえていてもセレスティノだって今の状況を望んでいたわけじゃない。
「なあ、みんなは事務局に行くのか? 確かにあらかじめ言われてたのとは違うから、キャンセルなり、変更なり、話を持っていくことはできると思うけど」
「担当になる講師は選べないって条件だったし、要はボクたちが指導者とうまくやれてないってだけじゃないの」
「うまくやるもなにもあっちは引きこもってるだけだろうが」
 ヴィクトルの言っていることもニーノの言っていることも分かるし、もっともだ。
 けれどかたくなな雰囲気を漂わせるヴィクトルの言葉に、ニーノはあっさり首を振る。
「そんなのどうだっていいよ。ボクここ嫌いじゃないし、静かで人が少なくって気楽じゃない? 余計なことでレッスンどころじゃなくなることなんて、ザラにあるじゃない」
 ニーノは明るい口調だけど容赦ない。
 砂糖菓子みたいに甘い雰囲気を匂わせながら、実際にとっても甘い匂いが漂ってるんだけどけっこう手厳しいとらえかただ。こうならなくってもうまく夏期講習を受けられなかったかもしれないし、そうなることは何も不思議じゃないと話している。
「いつもお菓子ばっかり食べてちやほやされているから、反感買うんだぞ……」
「ボクはいいよ。気にならないし。でもただ白いもの好きなヴィックが七光りくんとして煙たがられるのも結構な確率であるわけじゃない。グループレッスンなんて、参加してた、って事実さえあれば中身がどうだって同じだとは思わない?」
 ニーノは期待していないのかな。この夏期講習に参加して新しいことを知ってみたいとか、そういうの。
 だから教わる相手にやる気があろうがなかろうが、あんまり関係がない。
 そんなニーノの話にセレスティノも頷く。
「まだ事務局に訴えるほどのことは起きてない。本当に問題だと感じるなら、もっと上に持ってった方がいいと思うが、現段階では心証を悪くするだけだと思うぜ」
 そう思わないか? と尋ね返されて、3人の視線がオレに向く。
 いっぺんに視線が向けられてちょっとびっくりした。ここでいちばん顔なじみがないのがオレだろうし、セレスティノはオレがこういった夏期講習に慣れてないことを知っているから。3人だけで話を進めてまとまりそうな気になってた。
「えー…っと、オレとしては参加を楽しみにしてたし、レッスンを受けたい。でも、へんてこな先生だなって思うけど、事務局へはまだいいかなと」
 なんとなくだけど、そんなに悪いひとじゃない気がするのだ。
 それが間違っていたって、ニーノじゃないけど問題ない。今のところはここにある楽譜をめくっているだけでもすごく有意義に感じてしまうのは、ずっと独学めいたやりかただったオレのいけないところかもだけど。
「日和見どもめ。信じられん」
「ならヴィックだけで向かったら?」
「冗談言うなおばけがでたらどうするっ」
「えー…おばけぇ。でないでしょ?」
「え、と。オレにはさっぱり?」
 ニーノから視線を向けられたけど、ヴィクトルから何かすがるような目で追いかけられたけど、オレちょっとおばけはよく分からないごめん。
 でもひとりで向かう気はないと知って少しだけほっとした。
 別に山奥に来たわけじゃないけれど、なだらかに丘が続いていてはっきり方向がわかるものが少ないし、何かしらの動物が出てくる可能性だってある。
 ヴィクトルが山歩きやキャンプに慣れているならともかく、そういった感じもないし。
「だが、これからどうすればいいんだ」
 もうこの先は断崖絶壁でどうしようもできないみたいな顔つきで、ヴィクトルが口をひらく。オレはちょっと首を傾げてヴィクトルを見た。
「どうするって?」
「ここにはレストランもないんだぞ。ランドリーサービスも呼べない。雨風しのげるだけのところでどうやってすごせばいいと」
「えー…と、ごはんなら作ればいいし、乾燥機付きの洗濯機あったから服もそれで……」
 電子レンジやオーブンだってある。もちろんそれ以外の、調味料とか、おたまとか、そういった細々としたものもそろっているのは確認済みだった。
 昨日と今朝は缶や袋をあければすぐ食べられるもので済ませたけど、雨風しのげるどころかじゅうぶんすぎるほどに設備が整っていると思う。
「作る? 作るだと? 材料を切り、火を通す?」
 料理って言うのは、大抵そういったことをするものだよな。
 オレが言葉の聞き取りや理解を間違っていないなら、だけど。
 ちょっぴり自信なさげに頷いたオレに、ヴィクトルは絶望とあきれが入り交じったような顔になった。
「指を切ったらどうするっ。火傷をしたらっ」
「えっ…ばんそうこうを貼る…?」
 切り傷用の薬なら持たされるし、たぶん火傷にも使えるやつだったと。
 オレの荷物の中で人よりたくさん持ってきているものがあるとしたら医薬品だから、歩く救急箱って言われても問題ない。
 そう答えたオレに近くにいたセレスティノが噴き出す。ニーノも目を丸くしてから、妙に気が抜けたような顔になった。
「治療など考えている段階であほうだ。それでもピアノにたずさわる者かっ。指をもっと大切に考えないかっ」
 うわっ、叱られた。
 昨日会ったばかりのヴィクトルになんだこのまぬけは、みたいな顔をされている。
「指は大切にするよ。も、もちろん。昼はパンケーキぐらいにして、晩はラタトゥイユがいいかなあって思ってるんだけど。き、きらい?」
「ラタトゥイユだとっ。僕の好物だっ」
 ヴィクトルはオレを驚きに満ちた顔で見つめてくる。
 そんな魔法使いみたいな真似ができるなんて信じられない、と顔に書いてあるように見えるけど、ごくごく一般的な手順通りなので魔法使わないので。でも好きなら良かった。オレが作るのが、口に合う味付けになるといいんだけど。
「ラタトゥユか、いいな。手伝うぜ。ダナを手伝うことがあるから、簡単なことならやれる」
「ボクはぜんぜんダメー。でもパンケーキの生地を混ぜるぐらいならできるよ? フルーツの缶詰使って、フルーツパンケーキとかいいよね」
 後で食材をきちんとすべて確認してみたら、生クリームやバニラエッセンスなんてものまでそろえられていたので、パンケーキは思っていたよりニーノ好みの甘い感じになった。
 セレスティノはそれほど甘いのが好きではないらしくって嫌そうだったけど、材料はあるし、また後日ベーコンやチーズを入れたものを焼こうってことにしたら納得したらしい。
 ヴィクトルはと言えばキッチンには絶対に近づかないとばかりに、平気で動きまわっているオレたちを信じられないものを見るような顔をしてのぞき見ているのがなんというか少しおもしろくて。
 オレが包丁を持ったら今にも卒倒しそうな顔で、さすがのオレも、いやこれで切るのは野菜だしオレの指でもましてやヴィクトルの指なんか切るつもりはこれっぽっちもないんだけど、って言いそうになったけど、下手に口を出したら湯沸かし器がぴゅーって湯気をだすみたいに怒り出して今すぐその危険区域からでろっ、と叫びそうだったから言葉を飲みこむ。
 すぐにおなかをすかせる顔ぶれがそろっているからには、まずは何をおいてもごはんが大切だろう。
 おなかがいっぱいになっているときは、わりと気楽にかまえられるもんだし。
 そんな感じで、夏期講習初日。オレは真新しいキッチンへと立つことになったのだった。



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