マイラの森<1>


 一晩宿でゆっくり体を休めた後、グレンは次の目的地に向けてガライの町を発った。
 ここ数日の陽気で急速に色づき始めた草原を、一人と一匹と一個が進んでいく。燦々と降り注ぐ光は柔らかく、そよそよと吹き抜ける風は優しい。
「東だ東、とにかく東へ進め」
 きいきいと喚く竪琴に、グレンは今更ながら尋ねた。
「東には何があるんですか?」
「マイラの村……マイラ山脈に囲まれた昔ながらの温泉町がある。温泉の効能は美肌から神経痛治療まで様々。若者に人気の混浴露天風呂もまだあるだろうからお前も行ってみれば?」
「こっ、こここ混浴なんてハレンチな!」
 婦女子の柔肌を盗み見るなど許しがたい行為だ。男として責任を取る覚悟がない以上、混浴風呂などに足を踏み入れるべきではないとグレンは鼻息を荒くする。少年は生真面目な上に途方もない堅物だった。
「またまた興味あるくせに」
「興味だなんてっ」
「ねぇの?」
「いや、なくはないですけど」
 ついうっかり本音を漏らしてしまい、グレンはたちまち爪の先まで真っ赤になった。
「でもやっぱりそんなことはだめです!」
 自らの言葉に動揺してぶんぶか首を振る。サイズの合わない兜が今にも吹っ飛んでいきそうなグレンの有様に、竪琴は呆れた溜息をついた。
「……ま。混浴は冗談だ。俺らが目指してんのはマイラ村の近くにある森。更に詳しく言うとそこに住んでる奴に用がある」
 マイラの村の西には、鬱然と樹が立ち並ぶ巨大な森が広がっている。冬枯れを知らず、季節問わず花を咲かせ実を結ぶその森は、たくさんの精霊が住む喜びの地だといわれていた。
「マイラの大森林に人が住んでいるなんて初耳です。モモちゃんは聞いたことある?」
「もー」
 モモが首を振るたび、頭の飾り毛がぴょこぴょこ揺れる。
「アレフガルド創造時に作られた古い森なんですよね。精霊神ルビス様が慈しまれた場所だと聞いています」
「森には魔女が住んでいる」
 竪琴は言った。
「そいつが森のガーディアン。そして雨雲の杖の持ち主なのさ」


 野を越え山越え川越えて、グレンはようやくマイラの大森林に辿り着いた。ガライの町を出発してから一ヶ月、ほぼ予定通りの旅程だ。
「うわぁ……凄い森ですね」
「ももー」
 聳える木々の大きさに圧倒されて、グレンはぽかんと口を開けた。首が痛くなるまで仰け反っても、その全貌を伺い知ることは出来ない。
 樹齢千年を越える巨木が立ち並ぶ様は圧巻の一言だ。これだけ密集していれば互いを食い合うだろうに、この森に限ってそんなことはないらしい。十分な日光と水を得ていることを誇示するかの如く、威風堂々と枝を張り葉を茂らせている。
「これも魔女さんのお力なんですか?」
「そうだ」
 これだけの森を守り維持しているのだから、その魔女とやらは途方もない力の持ち主なのだろう。そんな人物から果たして雨雲の杖を譲ってもらえるのかと、グレンは緊張に喉を鳴らす。
「……竪琴さん、この森は迷いの森とも呼ばれていて、入った人は何時の間にか外に出てしまうと聞いています」
「魔女のマヌーサが森全体にかかってるからな。普通の人間じゃ正しい道を見つけることは出来ねぇよ」
「それじゃあ僕達も迷ってしまうんじゃないでしょうか」
「勉強しときな、小僧。マヌーサは肉体に影響を及ぼす呪文だ」
 ち、ち、ち、と竪琴は絃を鳴らした。
「つまり肉体のない俺には通用しねぇってこった。俺の言う通りに歩きゃ迷うことはねぇ」
「あ、そうか。竪琴さんは頭もいいんですね」
「おうよ、尊敬したか?」
「はいっ」
 グレンは尊敬する竪琴しっかりとを抱え、モモと共にマイラの大森林に踏み入った。
 生い茂る葉にろ過された光が大気をヒスイ色に染める。たっぷり水を含んだ腐葉土が靴裏でスポンジのように弾む。時折思い出したようにそよぐ風には、土と水と樹の匂いが喉に絡むほど濃い。
「きれいな森ですね」
 斜めに差し込む光のベール、岩を覆う柔らかな苔、きらめき流れるせせらぎ。森の風景は美しいばかりでなく、おもちゃ箱を覗くようなときめきに満ちている。見たこともないような花や昆虫を目にするたび、子供時代のようにわくわくと胸が弾んだ。
(姫にも見せて差し上げたいな)
 ムーンブルクの不思議に憧れていた彼女のことだ、きっとこの神秘的な森を気に入るに違いない。
「おいおい、そんなに張り切るとばてちまうぜ」
「もも」
「大丈夫です、僕は元気なのがとりえですから」
 倒木のうろに足を突っ込み、ひょいと弾みをつけて体を持ち上げる。そこから飛び降りようと下方に目をやったその瞬間、ぴくんとグレンの表情が強張った。


 眼下には干上がった沼らしき擂鉢状のくぼみが広がっている。朽ちた葉や石が体積した穴の底で二つの影が対峙していた。
 片や人間、片や魔物。錆びた剣をぶら下げたがいこつが、銀髪の娘との間合いをじりじり縮めつつあるのだ。
「か弱き女性が魔物にっ!」
「あ、待て小僧!」
 グレンは竪琴をモモに押しつけ、裂帛の気合と共に木から飛び下りた。
 がちゃんっ、と派手に鎧を鳴らしてくぼみの底に着地する。娘を素早く背に庇うと、抜いた剣を真っ直ぐがいこつへ突きつけた。
「君は……」
「早く逃げてください!」
 突き出された剣をグレンは盾で防いだ。骨ばかりの体の何処にそんな力があるのか、がいこつの一撃は予想外に重い。
「このっ」
 力任せに剣を弾き返し、グレンは猛然と反撃に転じた。
 その圧倒的な腕力で同僚から一目置かれていたグレンである。小柄な体を生かした機動力と桁外れの膂力が生み出す一撃には誰もが恐れをなしたものだ。
 だが何分相手はがいこつ、切り刻むべき肉がない。どんなにがんばって打ち込んでも、敵はまるで痛みを感じていないようなのだ。
 グレンは攻撃箇所に定めてしつこく腕を狙った。繰り返し剣を当てた部分が徐々にもろくなり、無数の皹が生じる。小さな皹はやがて一つに繋がって大きな亀裂となった。
 掬い上げるように振り上げた一撃が遂にがいこつの腕を吹き飛ばした。剣を握ったままの腕が宙を舞うのを尻目に、グレンはそのまま一気に勝負をつけようと大胆に踏み込む。
「食らえっ」
 頚椎目がけて剣を振り上げたその時、ざくんと肉を裂く音がした。
 白い棒状のものが深々とグレンの太腿に突き刺さっていた。鋭く尖った腕を新たな武器として、がいこつが素早くグレンの足を抉ったのだ。魔物が腕を引き抜いた後には黒々とした穴が開き、一瞬の間を置いてそこから鮮血が噴水の如く吹き出した。
「……っ」
 よろめくグレンの腹にがいこつの膝が減り込む。グレンは景気良く蹴り飛ばされ、受身を取る間もなく硬い岩に叩きつけられた。内臓がひしゃげるような衝撃に呼吸が出来なくなる。
「うっ……」
 喘ぐグレンの頬に、ふっと風が吹きつけた。
「バギクロス!」
 グレンの傍らを吹き抜けた風ががいこつの体を打ち砕いた。天高くまで煽られた骨粉が、はらはらと雪の如く周囲に舞い落ちる。硬い骨さえ容易く粉塵と化す恐るべき風の魔術だった。
 何が起きたかも把握出来ぬまま、グレンは急速に目の前が暗くなるのを感じた。どくどく流れ出る血液が容赦なく意識と体温を奪っていくようだ。
「ちょっと君、しっかりして!」
 あの娘は無事なのだと安心した途端、闇が辺りを覆って何も分からなくなった。