マイラの森<2>


 意識を取り戻した時、グレンはまるで見覚えのない部屋に寝かされていた。
「あ……れ……?」
 起き上がろうと身を捩った途端、太腿がじわりと痛みと熱を帯びた。ゆっくりと上半身を起こして毛布を捲ると、幾重にも包帯が巻かれた足が視界に飛び込んでくる。清潔な包帯越しに薬草が当てられているのが分かった。
「もももっ」
「モモちゃん」
「もー!」
 モモがひょいとベッド飛び乗ってきた。無茶をするなと手足をばたつかせるモモを宥めながら、グレンはぼんやりと周囲を見渡す。
 木の壁に囲まれた小部屋にあるのは、グレンの寝ているベッドとサイドテーブル、小さな円卓と椅子。天井の梁からぶら下がったハーブの束からほんのりと甘い香りが漂ってくる。
 ベッドの脇にある窓から外を覗くと、既にとっぷりと日が暮れていた。立ち並ぶ木々が黒々とした影絵となって浮かんでいる。
「やっと目ぇ覚ましやがったか」
「……竪琴さん」
 グレンは初めて円卓の上の竪琴に気付いた。
「ちったぁ自分の実力を考えて行動しやがれこのウスラトンカチが」
「はあ」
 グレンはあいまいに頷き、そして尋ねた。
「ここは何処ですか?」
「マイラの森の外れ。魔女ん家だよ」
「え?」
 その時ぷんと薬湯の匂いがグレンの鼻腔を刺激した。反射的にそちらへ目をやると、階下へ続く階段からひょっこりと若い娘が顔を見せる。きれいに眦の吊り上った、猫のような瞳と視線がかち合った。
「良かった、気付いたみたいね」
 娘はほっとしたような笑みを浮かべて階段を上ってきた。
 胸の大きく開いた紫と黒の長衣を重ね着して、腰にゆったりとした銀鎖のベルトを巻いている。細い首と耳朶を飾る柘榴石が、娘が動く度に蝋燭の灯りを受けてきらきらと光った。
「昼間はありがとう。あたしのせいで怪我しちゃったわね」
 その言葉でようやく記憶が繋がった。今目の前で微笑んでいるのは、昼間がいこつに襲われていた娘だ。
「あなたが森の魔女さんだったんですか」
「だから助ける必要なんてねぇんだよ。こいつはなぁ、ロトの時代の強烈な魔術をばんばん使う本物の魔女だ。がいこつの処理なんざこいつにかかれば蝋燭を吹き消すも同然、恐ろしいったらありゃしねぇ……」
「相変わらずうるっさいわね、ちょっと黙っててよ」
 魔女は竪琴の上に持っていた盆をどんと置いた。声を紡ぐ手段を失った竪琴がかたかたと悔しげに体を震わせる。
「竪琴さんとお知り合いなんですか」
「昔ちょっとだけ一緒に旅したことがあるのよ」
 魔女はグレンにカップを差し出した。とろみのある緑色の液体からほかほかと湯気が立ち昇る。
「傷が深いから魔術で一気に治すと体に負担がかかりすぎるわ。少しずつ回復させるわね」
「あ、ありがとうございます」
 グレンはすっかり恐縮してカップを受け取った。助けに入ったはずなのに逆に助けられ、家に運ばれて傷の手当てまでされたのだ。格好悪いことこの上ない。
 魔女はベッドの脇に椅子を引き寄せ、それに腰かけて興味深そうにグレンを眺めた。
 赤い瞳にじっと見つめられ、グレンはかあと頬に血を上らせた。自慢じゃないが異性からこんなにも熱い視線を送られた経験はない。
「何処とな〜くだけど面影が残ってる。遺伝の力って凄いもんね」
「え?」
 意味が分からなくてきょとんと瞬きをする。グレン本人すら覚えていない父や母と面識があるのだろうか。
「僕の両親をご存知なんですか?」
「え? 違うわよ。コレから聞いてるでしょ?」
 コレ呼ばわりされた竪琴がぎりぎり抗議するのにも頓着せず、魔女は懐かしそうに微笑んだ。
「君の祖先……勇者ロトと一緒に旅をしてからもう四百年も経つんだわ」


 ぽっかりと口を開くグレンのマヌケ面をしばらく眺めた後、魔女はついと柳のような眉を寄せた。盆を持ち上げ、竪琴に向かって噛みつくように尋ねる。
「ちょっと、もしかするとこの子に何も言ってないわけ?」
「……自信がなかったんだよ」
 竪琴がふてくされた声を上げるのに、魔女の表情がきりきりと険しくなっていく。
「自信がないって、この子の目を見れば分かるでしょ?」
「そらそうだけど……こんな頼りねぇ小僧が勇者の血筋なんて思えなかったし……」
「ああ、それは心配ないわ。旅立った頃のロトはこの子の何倍も頼りなかったから」
「あの」
 グレンはごくんと喉を鳴らし、まだ一口も手をつけていないカップをサイドテーブルに置く。
「僕の祖先がロトってどういうことですか?」
「そのままの意味よ。君のおじいさんのおじいさんのおじいさんの……とにかく遠い祖先が勇者ロトってこと」
 古の英雄、伝説の勇者。アレフガルドの人間なら知らぬものはいない最強の剣士の血が、この体に脈々と流れているというのだ。俄かに信じられる話ではない。
「何かの間違いじゃないでしょうか」
「どうしてよ」
「竪琴さんも言ってますけど、僕なんかがロトの子孫だなんて信じられません」
「君なんてまだましよ。あの子はお調子者で女の子に弱くてチビでドジでおっちょこちょいで……」
「はあ」
「でも勇者だったわ」
 低い声で囁いて、魔女は長い睫毛を蝶の翅のように瞬かせた。
「何処にでもいるような子が、物凄い時間と手間をかけて勇者になったの。伝説ではハナから完璧人間みたくなってるけど、あんなスーパーヒーローだったらあたし達も苦労しなかったわよ」
 殊更皮肉る口ぶりには昔日をいとおしむ響きがあった。ロトと歩んだ日々の思い出は、今も彼女の中で鮮やかに息づいているのだろう。
「ロトが特別じゃないんだから、君が特別である必要もないの。ただ遠い先祖にがんばった子がいることを、誇りに思ってくれれば嬉しいわ」


 グレンはのろのろと掌を眺めた。
 ロトの子孫。改めて認識した瞬間脳裏を過ぎったのは、石碑に刻まれていたッセージだ。ロトが子孫に未来を託したのなら、その血に連なる者にはやるべきことがある。
「もう聞いていると思ったからうっかり口を滑らせちゃったけど、あたしはこんな風に何の準備もなしに血筋のことを教える気はなかったの。どうしてだか分かる?」
 ふいに低くなった魔女の声が、吹雪の冷たさを孕んだ。
「……いえ」
「先祖の偉業に負けて自分を失ってしまうかもしれないからよ。君が生まれてきたのは君の人生を生きるためで竜王を退治するためじゃない。君が一番やりたいことは、お姫様の救出でしょ?」
「……姫……」
 そう呟いた途端、焦燥がじりじりと胸を焼いた。
 勇者の言葉、竜王の存在、血の齎す運命。考えなくてはならない事柄がぐるぐると渦を巻くが、最優先せねばならぬのはローラの救出だ。かどわかされてから既に七ヶ月、精神的にも肉体的にも限界だろう。
「尤もがいこつにも勝てないようじゃ、お姫様を助けるなんて到底無理ね。これっぽっちの勝機もないのに挑んだところで、犬死にしかならないわ」
「……」
 勇者の血を受け継いでいるだけではどうにもならないのだ。今のグレンに必要なのは偉大な先祖の名でも伝説でもなく、万難を排してローラを救う力。ふがいない我が身が恨めしかった。
「君も強くなりたい?」
「勿論です。強くなれるんだったら……姫をお助けするためなら、僕は何だってします」
 グレンの即答に魔女は満足げに頷き、サイドテーブルの上のカップを改めて差し出した。中身はすっかり冷えて表面に薄い膜が張っている。
「だったらあたしが君を鍛えてあげる。でもまずはその怪我を治さないとね」
 グレンはじっと椀を見つめ、それから今一度視線を持ち上げて魔女を見た。
「……どうして僕にそこまでしてくれるんですか?」
 魔女はきょとんと瞳を瞬かせた後、形良い眉を大袈裟に聳やかせた。
「君はあの子の子孫なのよ? 危なっかしくて放っておけるわけないじゃない」
 四百年という年月を経てもなお、ロトは仲間から愛されているのだ。魔女とロトに紡がれた見えない絆を思いながら、グレンは冷めた薬湯を一気に呷る。薬草の苦味に混じって、生臭いような奇妙な風味がつんと鼻に突き抜けた。
「……そういえばお前さ、何でがいこつみたいな雑魚に襲われてたんだよ」
「襲われてたんじゃなくてあたしが襲ってたのよ」
 それまで黙ってやりとりを聞いていた竪琴が訝しげに尋ねるのに、魔女は屈託なく首を傾げた。
「薬剤の調達しててね。グレンが飲んでるそれで最後だから、また狩りに行かなくちゃ」
「……薬剤を狩る?」
「コテコテ草とヤモリの粉末を煮詰めたのに、腐りかけたがいこつの骨髄液を混ぜるといい鎮静剤になるのよ」
 ぶっと音を立ててグレンが薬湯を吹き出した。真っ白いシーツがたちまち緑の水玉模様になる。
「あっ! 何で出しちゃうのよ勿体ないわね!」
「相変わらず飲む気の起きねぇ薬草作ってんなー」
「す、すみませっ、げほっ、でもその材料じゃちょっと無理、ごほっ」
「全くもう、現代っ子は好き嫌いが多くて嫌よ」
 魔女はぷんぷん怒りながらグレンの手から器を取り上げた。