ローラが囚われている洞窟を目指して、グレンは単身マイラ大陸を南下する。 挑むドラゴンはこれまでにない強敵となるだろう。特訓では辛くも勝利を収めたが、実物相手に勝てる保障は何一つない。 無茶をするのは一人でいいと、モモは強引に魔女の家に置いてきた。押し問答の埒が明かず、結果的に黙って出てくる形になったから、今頃モモは大層立腹しているに違いなかった。 「これは僕の個人的な戦いだから」 モモを説得するために繰り返した言葉を、グレンは今一度胸の内に呟いた。 「誰も巻き込みたくないんだ」 そうした決意の下に旅立ってから三日目の朝、グレンは岩山に囲まれた毒の沼地に辿り着いた。 紫色に濁った水面に、粘り気のある気泡が絶え間なく生じている。腐った水や土壌から放たれる臭気は凄まじく、目や鼻の粘膜に染みてひりひりと痛んだ。 沼に踏み込むと、ずぶりと足首までが汚泥に浸かった。厚手のブーツに浸透した毒素がすぐさま音もなく皮膚を溶かし始める。グレンはわずかに顔を歪めた後、痛みを振り切るようにぎっと前を見据えた。 捜し求めた少女はこの沼を渡った先にいる。 「……姫」 グレンはざぶんと一歩踏み出した。 「今っ」 グレンはざぶんざぶんと二歩踏み出した。 「お助けに参りますっ!」 毒素も瘴気も何のその、グレンは裂帛の気合と共に一気に沼を突っ切った。 魔女の言っていた通り、沼の突き当たりには切り立った岩山が聳え、水面から少し距離を置いた場所にぽっかりと穴が開いていた。 グレンは岩に攀じ登って靴の汚泥を落とし、爛れた肌にホイミをかけた。それから注意深く洞窟を覗き込み、蟠る闇の濃さに小さく眉を寄せる。 「……暗いな」 グレンは右手を翳し、先日完成したばかりの詠唱をぶつぶつと口の中で唱えた。 「レミーラ」 掌に滲んだ光は拳大の塊となり、ふわりと浮かんで辺りを淡く照らした。たいまつの不便さに辟易したグレンが、試行錯誤の末にようやく編み出した照明魔術である。 「……こっちか」 グレンは剣の柄に手をかけたまま、洞窟の奥深くを目指して歩き出した。 初めそれを目にした時、苔生した巨大な岩石かと思った。 だがそれは岩などではなかった。深緑色の鱗を纏い、鋭い牙と爪を携え、眼光鋭くグレンを見据えるのは、威風堂々たる巨大なドラゴンである。 魔法陣が作り出した影とは迫力が違う。息の詰まるような圧迫感は、生きたもののみが放つ命の波動だ。 「お前が牢番か」 グレンは素早く詠唱を重ねてレミーラの光量を増やした。人間と魔物を比べた場合、夜目が利くのは圧倒的に後者だ。不利な条件は早々に解消しておかねばならない。 白々と輝く光球に照らされて、岩盤に嵌め込まれた鉄の扉が浮かび上がった。そこにローラが閉じ込められているのは間違いないだろう。 「……人よ、幾度竜族から力を奪えば気が済むのだ」 聞き取りにくい声でドラゴンが言った。人語を発するのに適さぬ声帯を無理やり震わせたような声だった。 「あれは我々の娘だ。竜王様に仕え、尽くし、傅くために生まれてきた竜の姫だ」 「ふざけるな」 何時も穏やかなグレンの瞳が、激しい瞋恚を湛えて氷色に閃く。グレンが腰を沈めて攻撃体勢を整えるのに合わせ、竜も低く頭を巡らせた。 「このまま大人しく引くのなら見逃してやろう。だがこれまでの人間のように歯向かえば……全力で叩き潰す」 「望むところだ!」 怒りに任せて振り下ろしたグレンの剣は、虚しく竜を掠めて大地を打つ。 反転したドラゴンが打ちつけてきた尾を、グレンは咄嗟に構えた盾で食い止める。左腕が感覚を失った一瞬後、凄まじい衝撃が稲妻のように全身を走った。生身で受ければ一撃で骨が粉砕されかねない剛力だ。 接近戦は不利と判断し、グレンは大きく跳んでドラゴンとの距離を置いた。 「ギラ!」 グレンの放った火玉は鱗を数枚弾き飛ばしたに過ぎない。立ち上る細い煙を眺めて、ドラゴンは不機嫌そうに唸った。 「姫は王の花嫁となり竜を産む。新しき竜は王と力を合わせ、我々を嘗ての栄光へと導いてくださるはず」 「……お前はさっきから何を言っているんだ」 グレンはいらいらと吐き捨てた。竜の姫だとか竜王の花嫁だとか、そんな戯言は聞きたくもない。 「遠い昔、我々から力を奪ったのは人間だ。竜の女王は人に殺され、竜族……角を頂く者は惨めに没落した。王は一族の復興を願い、それに尽力されているだけのこと。人にそれを邪魔する権利はない」 グレンは剣と盾を構え直しながら小さく眉を寄せた。 遠い過去に何があったのかグレンには知る由もない。膨大な時の流れに飲み込まれ、伝説に刻まれぬまま消え去った出来事は幾つもあるだろう。もしかしてその中には、人が竜を虐げた歴史もあるのかもしれなかった。 「……それが本当ならお前達が怒るのは当然だし申し訳ないと思う。でもだからと言って、どうして姫が犠牲にならなくちゃならないんだ」 だが何を聞かされたところで、グレンの決意に揺るぎはなかった。 「過去に何があったとしても僕は姫をお助けする。竜王には渡さない」 「……小童が」 ごうっと音を立てて炎の帯が螺旋を描いた。横跳びに避けて直撃は免れたものの、熱風に炙られた皮膚がひりひりと痛む。 間髪入れず第二波、第三波の炎がグレンに襲いかかった。鉄の盾が熱を孕んで燃え上がり、グレンの肉と肌をじりじりと焼く。激痛に思わず呻き声が漏れるが、盾を放り出したらその瞬間に丸焼きになってしまう。 「くそっ」 こんな防御体勢が何時までももつわけがない。そのうちこんがりきれいに焼けて、おいしく頂かれてしまうことだろう。 歯を食い縛って耐えるうち、グレンはふと炎の法則に気付いた。間断なく吹きつけてくるように感じる炎は、ある一定のリズムでほんの数秒間、勢いが弱くなるのだ。どうやらそれはドラゴンの息継ぎと関係しているようだった。 「……」 熱量が落ちると言っても、それは十分に人の体を焼く力を持っている。 (……意識さえ失わなければどうにかなる) 気道を守るために息を止めると、炎がわずかに弱まった瞬間、グレンは左腕を勢い良く後方に引いた。逆巻く炎の中心目がけ、円盤投げの要領で力いっぱい盾を投げつける。真っ赤に焼けた盾がドラゴンの眉間に命中し、魔物は苦悶の叫びを上げて仰け反った。 炎が途切れた。 グレンは最後の気力を振り絞ってドラゴンに突進した。素早く魔物に馬乗りになると、爛れた両手で握った剣を思い切り背に突き立てる。快心の一撃はドラゴンの肉と骨を断ち、柔らかい内臓の部分までをも抉った。 のたうつドラゴンに弾き飛ばされ、グレンは冷たい床に転がる。 朦朧とする視界の中、ドラゴンが地響きを上げて横倒しになった。四肢と尾をばたつかせてもがくことしばし、突如その体がびくんと硬直する。小さな痙攣を三度繰り返した後、竜はぐったりと弛緩してそれきり動かなくなった。 |