囚われの姫<2>


 ホイミと薬草の併用で全身の火傷を治癒した後、グレンはしっかりとした足取りで歩き出した。
 ドラゴンの屍を越えて牢の前に立つ。鈍色に光る扉には巨大な錠がぶら下がり、それが戸板と岩盤をしっかりと繋ぎ止めていた。
 グレンは青白い火の玉を掌に生んだ。持続時間を短縮する代わりに火力を強めたギラの炎が、一瞬にして鉄の錠を焼き落とす。
「……」
 軋みながら開いていく扉の向こうにあったのは、予想していたのとはまるで違う光景だった。
 整然と並ぶ調度品は貝殻に似た不思議な素材で作られ、光の粉を塗したかのように輝いている。幾重にも張り巡らされた緞帳はふわふわとたなびき、見る角度によって様々にその色を変える。壁に一面に描かれた風景画には如何なる魔術が込められているのか、時折梢が微風にそよぎ、宝石色の小鳥達が飛び交うのだ。
 一国の王でも望めぬような、神秘の力に満ちた豪奢な部屋だった。竜王がローラを捕虜としてではなく、未来の花嫁として扱おうとしたのは事実のようだ。
 毛足の長い絨毯がぼんやりと赤い光を帯びている。恐らく床石に魔法陣が敷かれ、それの放つ光が滲み出ているのだろう。一歩踏み込んだ瞬間ひどい脱力感を覚えたところからして、力を吸い取る類のもののようだ。
 グレンはぐるりと薄暗い部屋を見渡し、巨大な寝台に横たわる細い背中に気付いた。心臓がどきんと跳ね上がり、奇妙な汗が掌に吹き出す。
「……姫」
 急速に干上がった喉に声が擦れた。
「ローラ姫」
「……」
 娘は緩慢な動作でのろのろと体を起こした。絡まり乱れた黄土色の巻き毛から、血の気の失せた顔が半分だけ覗いている。表情も感情も消え失せた蝋人形の如き面相だった。
「お助けに上がりました」
 グレンが歩み出すより早く、王女が泣きそうな声を上げた。
「……見ないで」
 その声の悲痛さに、グレンは思わず踏み出しかけた足を止めた。
「……命の恩人であるあなたにこんなこと言ってごめんなさい。でもわたし、とてもひどい姿をしているんです。だから……」
 その言葉通り王女の姿はひどかった。若草色の部屋着は垢じみていてところどころ変色しているし、袖口や裳裾は糸が飛び出してぼろぼろにほつれている。小さな顔には埃の筋が走り、髪は脂を含んで重たくもつれていた。
 贅沢な部屋を用意することは思いついても、人間の生活習慣にまで考えが及ばなかったのだろう。魔物には水で身を清める習慣がないのだ。
 王女として育てられたローラにとって、このような姿を見られることはどれほどの屈辱か知れない。相手が見知らぬ男となればそれは尚更だ。
 だが今はそんなことに構っていられる状況ではない。グレンは深く頭を垂れて静かに歩き出した。
「……失礼します」
 グレンが近寄ると、ローラは怯えたように顔を上げた。
 すっかり痩せた顔の中、紅玉のような瞳の鮮やかさだけは昔のままだ。瞳が美しければ美しいほど他の惨めな様が際立って、グレンは唇を噛んだ。彼女をこんな目に遭わせた竜王と救出まで半年以上を必要とした自分への怒りが肺を圧迫する。息が苦しくなって、グレンは大きく肩を弾ませた。
「早く出ましょう、こんな洞窟」
 グレンはマントを外してローラを頭からすっぽりと包み、両腕に抱きかかえた。
 軽い。二年前に抱き上げた時よりもずっと軽い気がする。グレンの腕力が増したためか、ローラの体重が落ちたためか……何れにせよ、その頼りない感触に胸がぎゅっと締めつけられる想いだった。
 抱き締めたくなる衝動を抑えてグレンは囁いた。
「もう大丈夫です。辛いことは今日でみんな終わりました」
 抱えた身体から緊張が抜け、強張っていた四肢が弛緩する。死の恐怖から解放された安堵からか、力なくグレンの胸に顔を伏せたまま、ローラは眠りに落ちたようだった。


 当初の予定を変更して、グレンは魔女の家ではなくマイラの村に向かった。ローラの体力は半年以上の監禁で根こそぎ奪われ、固形物がまともに飲み込めないほど弱っている。グレンの安否を気遣っているだろう面々を思えば胸が痛んだが、まずはローラの回復を優先としたのだ。
 グレンはマイラで宿を取り、そこの女将にローラの世話を頼んだ。女将は最初胡散臭そうにグレンを見ていたが、ローラの有様を確認すると哀れみと嫌悪に露骨に顔を顰めた。彼女はすぐさまバスタブに湯を張ってローラを運び込み、たくさんのタオルと石けんを手にして浴室に消えた。
 ぴたりと閉じた客間の扉が開いたのは、それから一時間も経過してのことだ。グレンはお預けを食らっていた犬のように女将に駆け寄った。
「きれいな子だね」
 汗ばんだ額を拭う女将の腕には、何枚ものタオルとどろどろのドレスが抱えられている。ローラを完全に洗い清めてくれたようだった。
「いいところのお嬢さんみたいだけど何か訳あり?」
「は、はい」
 もの問いたげな女将であったが、グレンがもじもじ俯くとそれ以上追求はしてこなかった。様々な事情の人間が通り過ぎていく旅篭屋で余計な詮索はご法度だ。
「果汁を飲んだら少し元気が出たみたいよ。あんたを呼んでいるから早く行ってやんなさい」
「はい、ありがとうございました」
 深々と頭を下げるグレンに頷き、女将は廊下の向こうに消えた。