囚われの姫<3>


 グレンは部屋の前に立ち、ふうと大きく深呼吸してから戸板を叩いた。中からか細い応えが上がったのを確認してドアを開く。
 寝台に横たわったローラは、グレンの姿を認めるとかすかに目を細めた。生乾きの髪が枕に散り、それが柔らかい雲の如く彼女の小さな顔を取り巻いている。
「ご気分はいかがですか?」
「こんなに安らかな気持ちは久しぶりです」
 半年以上日の光を浴びていない肌は不自然に青白く、頬はこけて目は落ち窪んでいる。それでも内側から光が滲むかのように美しく見えるのは、決して恋する男の欲目ばかりではないだろう。
「命を懸けてわたしを救い出してくださったこと、お礼の言葉もありません。あなたに助けていただいて、わたしは日の光がどんなに眩しいか知った気がします。……本当にありがとう」
「ご無事で何よりでした」
 グレンはその場で膝をついて臣下の礼を取った。
 マイラの森に魔女が住んでいること、魔女がローラに会いたがっていること、魔女がこの度の事件について何か知っているらしいことを、グレンはローラが混乱しないよう、時間をかけて説明した。グレンの言葉に黙って耳を傾け、時折小さく頷くローラに異論はないようだ。
「それが終わったらラダトームへとお連れします」
「分かりました」
 ローラの了承を得て、グレンはほっとして立ち上がった。
「それじゃあ僕は買い物に行って参ります。姫、ご所望のものがあれば何でもおっしゃってください」
「いいえ……特に何も」
「だめですよ、何か召し上がらないと。……そうだ、果物はどうですか? こんな時は摩り下ろしたりんごがいいと思うんですっ」
 りんごがどんなに消化にいいかを暑苦しく力説してから、グレンはくるりと踵を返す。ばたばたと慌しく走りだそうとするグレンを呼び止めたのは、思いもよらぬローラの呼びかけだった。
「……グレン」
 グレンはその場に縫い止められたかのように足を止めた。
「グレンでしょう?」
「……」
 グレンはごくんと喉を鳴らして振り返った。どきどきと轟く胸を押さえ、みっともないほど緊張に震えた声で問う。
「……覚えていてくださったんですか」
「忘れるはずないわ。わたしの大事な思い出ですもの」
 ローラの頬がふわりと朱を帯びる。
「初めて見た時は鎧姿だったからあなたとは分からなかった。二年前もとても力持ちだったけど、もっともっと強くなったのね」
 敬愛する王女が微笑みかけてくれるというのに、気の利いた言葉一つ出て来ない自分が情けない。焦れば焦るだけ沸騰する頭の中で、知っている限りの語彙が衝突してばらばらに砕け散る。言葉の欠片は台詞にならず、グレンは酸欠金魚の如く口をぱくぱくさせるだけだった。
 ローラは不思議そうに長い睫毛を上下させた。
「グレン?」
「り、りんごを探してきます!」
「あ……」
 ローラが何か言うより早く、グレンは矢のように部屋を飛び出した。
 後ろ手に閉じたドアノブを握り締めたまま、グレンは自己主張の激しい心臓の音を聞く。全身が燃えるように熱く、運動してもいないのに塩辛い汗が吹き出した。


 グレンが部屋に戻った時、ローラはとろとろとまどろんでいた。
 紙袋をテーブルに置くと、グレンは足音を忍ばせて枕元に歩み寄った。床の軋むかすかな音さえ、彼女の眠るこの空間ではひどく耳に障る。
 ローラの体は痛々しいまでに痩せ細り、吐息を吹きかけただけでも壊れてしまいそうで少し怖い。グレンは息を潜めて彼女の寝顔を覗き込んだ。
「……」
 ぴくりと目蓋が震える。重たく睫毛が持ち上がる。グレンを見上げたローラの唇から、微笑みと安堵に満ちた溜息が零れた。
「おかえりなさい。……今ね、夢を見ていたの。あなたとラダトームを散策したあの日の夢」
「夢、ですか?」
 腹に力が入らないようで、呟く声はひどく聞き取りにくかった。衰弱しきった彼女が自由を取り戻すには、まだまだ時間が必要だろう。こうして安全を確保しても、ローラを戒める鎖は依然彼女の手足に絡みついたままなのだ。
「牢獄にいた時も、何度も同じ夢を見たの。夢の中のわたしは自由で、あなたと手を繋いでラダトームを走ることが出来たわ。雨を潜って、虹を見上げて、本当に幸せだった」
 精神を蝕む薄闇も肉体を侵す冷気も、彼女の思い出までは汚すことが出来なかったのだ。幸せだった日の夢を繰り返し見ることで、ローラは壊れてしまいそうな心を保ち続けていたのだろう。
「姫……」
 氷のナイフで貫かれるような痛みを覚えて、グレンは思わず顔を顰める。するとローラは顎を引き、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「変な話をしてごめんなさい。……お買い物は終わったの?」
「あ、はい! りんごを買ってきました!」
 グレンはぱっと顔を輝かせて、ぱたぱたと円卓に駆け寄った。
「姫のお好みが分からなかったんで色々買ってきました。赤いりんごがいいですか? 青いりんごがいいですか? 小さくて酸っぱいのもあるし、大きくて蜜が入っているのもあります。この赤紫のは、マイラでしか取れない珍しい種類だそうです」
 そう説明しながら、グレンは袋から取り出したりんごを次々とテーブルに並べる。良くも悪くも一直線なグレンのこと、りんごを目的として飛び出した以上それ以外は視界に入らない。一週間かけても食べきれないようなりんごの山が高く築かれた。
「たくさん買ってきてくれたのね、どれもおいしそう」
「どれを召し上がりますか? お好きなのを仰ってください」
「そうね……あなたが選んでくれたりんごがいいわ」
「え、僕がですが?」
 グレンは懊悩の皴を眉間に刻み、半刻もあれこれ迷った挙句、ようやく茜色のりんごを手にした。それから器用にくるくると皮を剥き、台所から借りてきたおろしがねで丁寧に摩り下ろす。馥郁たる蜜の香りが立ち込めた。
 椅子に腰を下ろし、グレンは緊張の面持ちで匙を差し出す。恐る恐る触れた王女の乾いた唇に、じわりと果汁が染みた。
「おいしい。りんごってこんなに甘いのね」
 咀嚼と嚥下が肉体に刺激を与える。当たり前の運動を繰り返すことで内臓と筋肉が動き出す。グレンは彼女が噎せないように、命の源を注意深く小さな口に運び続けた。
「たくさん召し上がって、早く元気になられてください。中庭の秋薔薇が散る前にラダトームに帰りましょう」
「……ええ」
 ローラは頷き、満ち足りた風に微笑んだ。