食欲が戻るとローラの回復は早かった。 頬はふっくらと張りを取り戻し、髪は絹の艶を帯び、肌は瑞々しい真珠の色に輝いた。日の半分はベッドに起き上がり、グレンの話に楽しげな笑顔を見せるようになった。日に日に本来の明るさを取り戻していくローラの姿が、グレンには何より嬉しかった。 だが順調に癒えていく傷がある一方で、決して消えない傷も存在する。それは忘れた頃に痛みを放って、その在り方を強く誇示するのだ。 その夜、グレンは押し殺した嗚咽で目を覚ました。がばりと毛布から跳ね起き、猫のように閃く瞳をベッドに向ける。 最初に視界に飛び込んだのは白金の巻き毛。月明かりに染まった髪が、花嫁のベールのようにふわふわとローラの背を覆っている。 「姫……」 ベッドから半身を起こしたローラが、両手で口元を覆って震えていた。 ローラは夜を怖がった。薄闇に包まれると牢獄での記憶が蘇り、感情が昂ぶって押さえられなくなるらしい。普段はそんなローラのためにランプを点けたまま就寝するのだが、今夜は運悪く灯心草が燃え尽きてしまったようだ。部屋にランプの予備はなく、宿に借りに行こうにも時間が時間である。 グレンはレミーラの光玉を手にローラへ歩み寄った。ゆるゆる振り返ったローラは亡霊のように頼りなく、グレンの胸が嫌な感じに軋んだ。 「……わたしのためにたくさんの人が殺されたの」 「……」 ローラに余計な刺激を与えぬよう、グレンは慎重に寝台の縁に腰かけた。 「誰かが命懸けで戦っている間、わたしはあの部屋で身を竦ませていただけ。わたしを助けに来てくれた人達の最期の声が、今でも耳から離れない」 ローラはこの先、投げ出すことの叶わぬ重荷を背負って生きていく。グレンがどんなに心砕いても、肩に食い込むそれを代わりに担ってやることは出来ない。それが、あまたの犠牲の上に成り立つローラの人生だからだ。 グレンは心持ち身を屈めて、ローラの横顔を覗きこんだ。 「……多分僕達は、気付かないところでも、たくさんの人に生かされているんだと思います。どうやったらその人達に恩返し出来るかは僕にも分かりませんけど、感謝の気持ちだけは忘れないでいたいと思っています」 今回の旅にも多くの協力があった。旅立ちを許してくれた養父、一人の寂しさを紛らわせてくれたモモ、マイラの森に導いてくれた竪琴、ドラゴンに匹敵する強さを与えてくれた魔女、影となり日向となり支えてくれたたくさんの人々。王女救出の偉業は、グレン一人の力では決して成し得ぬものだった。 「ラダトームに帰ったら慰霊碑にお連れします。勇敢な人々にお言葉をかけてあげてください。お気持ちはきっと安息の園にまで届くはずです」 それで死んだ者達の魂が救われるとは思わないし、ローラの心が癒されるとも思わない。だが前に進むことで見えてくる何かがあるはずだ。 頷くローラをベッドに横たえる。まだまだ本調子とはいかない彼女にあまり無理はさせたくない。 「さあ、お休みになってください。今夜は僕がこうしていますから、レミーラが消えることはありません」 「でも、それではあなたが眠れないわ」 「僕は平気です、慣れてますから」 じっとグレンを見上げていたローラが、ようやくそろそろと瞼を閉じた。 「……グレン」 「はい?」 「色々ありがとう」 「……はい」 睫毛が頬に濃い影を落とす様 を眺めながら、その眠りが少しでも安らかであるようにと、グレンはラダトームの古い童謡を口ずさんだ。 雛の世話をする親鳥の如く、グレンはせっせとローラの介護に勤しんだ。体にいいと聞けば高価な薬草も手に入れたし、毎日湯治にも連れて行った。 台所を借りてローラの喜びそうな料理を作りもした。グレンの手料理はローラに好評で、何時もおいしいと残さず平らげてくれる。魔女と暮らすうち、体力魔力のみならず家事能力まで鍛えられたグレンである。 「特訓がこんな形で役に立つなんてやっぱり魔女さんはすごいなぁ」 そう魔女に感謝しながらマイラに逗留し始めて三週間目の夕方のことである。 慣れない生活の疲れが溜まってか、グレンは薪割りを終えた後、庭の木に寄りかかってうとうととしていた。宿の下働きは目下重要な収入源で、グレンは二人分の生活費をそこから捻出しているのだ。 静寂に満ちた庭にさくさくと足音が響いた。草を踏む軽やかな音にグレンは気付かない。人里で生活するうち他人の気配に疎くなりつつあるようだ。 「グレン」 鈴を転がす声がすぐ側で響いた。グレンはぱっと目を開き、ぎょっと目を剥く。吐息が感じられるほどの距離にローラの顔があるではないか。 「ひひひ姫っ!」 グレンは思い切り後ろに仰け反り、その拍子に強か後頭部を木に打ちつけた。一瞬視界がぐわんと撓んだが昏倒している場合ではない。背中を幹に擦りつけるようにしてわたわたと立ち上がる。 「どうしてこんなところにいらっしゃるのでありますかっ!」 「暗くなってもあなたが戻って来ないからどうしたのかと思って。女将さんに聞いたら薪割りをしているというから来てみたの」 ローラはそう言って辺りを見回した。地面に転がる斧や堆い薪の山を眺めてからグレンの手を取り、硬くなった掌にそっと指を這わせる。 「わたし、あなたにたくさん苦労をかけているわ」 「そんなこと気になさらないでください。この仕事は体力も腕力もついて僕にうってつけなんです」 滑らかな肌の感触にグレンは戸惑う。さりげなく引っ込めようとするグレンの手を、だがローラはしっかり握って離さなかった。 「……あなたにもう一度会うことが出来て、本当に嬉しかった」 囁く声は恋の詩を吟じるように優しかった。 「あなたが洞窟から連れ出してくれた時、わたしは思ったの。きっと勇者ロトもこんな人だったのだろうって。あの日のわたしの予感はちゃんと当たったのね」 「ロト……」 体に眠る何かがその名に反応してざわめいた。 王女を救出した安堵感に混じる、焦燥感にも似たこの気持ちは何だろう。脈打つ血が、肉体を形成する遺伝子が、何かをしきりに訴えかけてくる。 「僕は……」 俯くグレンの頬にローラの指が触れた。びっくりして顔を上げたグレンを、夕日を閉じ込めた双眸が迎えた。 「わたしの勇者様」 ローラは一拍沈黙を置き、それから頬を染めて甘い秘密を打ち明けた。 「わたしだけの勇者様。……ローラはあなたをお慕いしています」 グレンはあんぐりと口を開けてローラを眺めた。プリンセスの告白を受けたとは思えぬ凄まじいマヌケ面である。 これは夢か、さもなければマイラの森の精霊が何か悪戯を仕かけているに違いない。王女が一兵士に恋心を訴えてくるなど、天地がひっくり返ってもありえない話だ。 「ええと……」 しばし混乱して頭を抱えた後、ある一つの結論に達してグレンは唸った。 「姫。まだお体が完全じゃないんですから、お酒なんか飲んじゃだめですよ」 「まあ、酔ってなんかいないわ!」 ローラは眦を吊り上げて怒った。雰囲気たっぷりに想いを打ち明けたのにこの反応だ、彼女が怒るのも無理はない。 「わたしがあなたを好きだというのは、そんなに驚くようなこと?」 改めて言われてようやく現状を把握する。グレンは激しく動揺しておろおろと首を振った。 「で、ですが僕なんて」 「僕なんて?」 「……」 何より大切な少女だ。命に代えて救おうとした存在だ。だが彼女の身分を知って以来、自分のものにしたいとかこの腕に閉じ込めておきたいとか、そんな不遜な考えを抱いたことはなかった。 「何? 最後まで聞かせて?」 感情を隠さない瞳にじっと見つめられると、心の奥まで見透かされるような気分になる。グレンは観念して俯き、ぽつりぽつりと心情を吐露し始めた。 「僕は特別顔がいいわけでもないし、背だって小さいし、姫にふさわしいような男じゃありません。姫はラダトームの世継ぎの王女で、僕はただの雑兵で……」 声はみるみる力を失って口中に消える。グレンが唇の動きを止めてから数秒後、繋いだままだったローラの手にきゅっと力が篭った。 「わたしはあなたの優しい顔も青い瞳も大好きよ。背の高さなんて気にならないし、身分なんて生まれた場所で偶然決まるだけだもの。どれも人を好きになったり嫌いになったりする理由にはならないわ」 無条件の肯定が面映くて、グレンもじもじ俯いたり視線をさまよわせたり落ち着かない。すっかり挙動不審になったグレンの頬に、不意に身を寄せたローラのそれが触れる。 ぎしり、と音を立てて固まったグレンの耳に二度目の告白が掠めた。 「……二年前のあの日から、ずっとあなたのことが好きだった」 |