一ヶ月も経過するとローラはほぼ元の体調を取り戻した。何度も何度もしつこくローラの調子を確認した上で、グレンはいよいよ森を目指してマイラの村を発つ。 ローラは踝まで覆うローブを纏い、その上から赤味の強い煉瓦色のマントを羽織っている。腰まである髪は高い位置からゆったりと編み込み、マントと共布のリボンを絡めていた。手には杖代わりのひのきの棒を持ち、足には丈夫で柔らかい皮のブーツを履いているがあまり意味はない。何故ならグレンは決してローラを歩かせようとしないのだ。 「まぁ……凄い森ね」 マイラの森を前にして、ローラは嘗てグレンが漏らしたのと同じ感想を、そうとは知らず口にした。 森の獣道は平原とは比べ物にならない悪路で、ローラを抱えて歩くグレンへの負担は計り知れない。彼の助けがなければ目的地に到達出来ぬだろう我が身が恨めしかったが、それでも可能な限りは歩いてみようとローラは決心した。 「わたし、たまには自分で歩くわ」 「だめです」 決意が一言で却下される。ローラはきゅっと眉を寄せた。 「そんなひどい……。わたしはあなたのお陰でこんなに元気になったのよ、歩くくらい大丈夫……」 「だめと言ったらずぇったいにだめです! 疲れて体調を崩されたらどうなさるおつもりですか! 石に躓いて転ばれたらどうなさるおつもりですか! 僕は死んでもそんなことは認められません!」 血走った目で雄叫ぶグレンはとても怖かった。 「ご、ごめんなさい。もう歩くなんていいません」 「分かってくださって安心しました」 からりと笑顔になるや、グレンはひょいとローラを抱き上げてしまう。ローラは不満いっぱいに唇を尖らせたが、逆らっても無駄なのは学習済みなのでそれ以上は抵抗しない。 (これ以上お荷物になりたくないのに……) 尤もそう溜息をついたところで、旅に必要な体力のない彼女はお荷物以外になり得ないのだ。これまでの道程だってローラが自力で歩くより、グレンが彼女を抱いて進む方が圧倒的に早かった。 「森に入ってしまえば魔女さんの家はすぐです。そうしたらゆっくりお休みになれますよ」 それでもにこにこ屈託のないグレンを見ていると、しょぼくれた気持ちも何処かへ行ってしまう。そんな時ローラは、好きになったのがグレンで良かったとしみじみ思うのだ。 思わず微笑み返したその時、ローラはグレンの肩越しに魔物の姿を捉えた。一抱え出来るほどの金色の魔物がふよふよと宙に浮いている。 「グレン!」 ローラが叫ぶより早く、グレンはくるりと振り返って魔物を見据えていた。ローラをそっと地面に降ろしながら低く囁く。 「ドラキーマです。呪文を使って危険ですから、姫は木の陰にお逃げください」 「気をつけてね」 「はい」 短く頷くと、グレンは剣を抜いてドラキーマに挑みかかった。平生のほほんとしたグレンからは想像もつかないほどその動きは俊敏だ。 だがそのグレンを上回るほどドラキーマは素早い。稲妻のような太刀を紙一重の、しかし最も無駄のない動きでかわすと、両翼から大量の火玉を吐き出した。グレンの全身が炎に包まれるのを目の当たりにして、ローラは両手で口元を覆って立ち尽くす。 グレンはマントで火炎を一払いすると、再び猛然とドラキーマに切りかかった。体のあちこちから煙を燻らせる少年の痛々しい姿に、ローラは居ても立ってもいられない。 (どうしよう、グレンを助けないと) ローラは思いつめた瞳で辺りをきょろきょろと見回す。すぐ近くの木の根元に、大小さまざまな石が転がっているのに気付いた。 (これならわたしにも) ローラは左腕に可能な限りの石を抱え込んだ。その内の一つを右手にしっかりと握ると、ぎゅっと目を瞑って腕を振りかざす。 「えいっ!」 思い切り石を投げつけると、かぁんと小気味のよい音がした。 「えいえいえいえいえいえいえい!」 ローラは夢中で石を投げ続けた。どすどすどす、かんかんかんと、二種類の炸裂音が繰り返し耳朶を打つ。 そうしてどの位経ったのだろう。手が痺れて肩が痛くなった頃、投げる石がなくなった。ローラは肩で息を弾ませながら、恐る恐る目を開けた。 草むらに二つの体が転がってぴくぴくと痙攣している。一つは後頭部にでっかいたんこぶを作ったドラキーマ、一つは鼻血を出して昏倒したグレンである。 「本当にごめんなさい。もう余計なことはしません……」 「お気になさらないで下さい、姫。僕は大丈夫ですから!」 何時ものように鬱陶しいほど元気なグレンだが、今ばかりは鼻の下に残る赤い筋が痛々しい。 「さあ、また魔物が出て来ないうちに行きましょう」 「はい」 すっかりしょげたローラを抱きかかえ、グレンはすたすたとマイラの森に踏み入った。 ケヤキのアーチを潜って川を渡り、三角形の大きな岩を右に曲がる。岩場を通って沼地の跡を越え、双子の木の合間を通れば魔女の家だ。魔女の許可を得たグレンがマヌーサに惑わされる心配はない。 「きれい……緑色の海にいるみたい」 嘗てグレンが予想した通り、ローラは森の美しさにいたく感激したようだった。瞬きをするのも忘れて、神秘的な森の風景に見入っている。 巨岩聳え立つ岩場には道らしい道もない。グレンはローラを抱え直すと、岩から岩へぽんぽんと軽快に跳び渡る。魔女に言いつけられて薪を拾ったり木の実を集めたりしていたから、この場所も慣れたものだ。 「……あなたには、何度ありがとうと言っても足りないわ」 ローラの頬が興奮で上気する様を見て、グレンは改めて彼女の回復を嬉しく思った。 「助けてくれて、看病してくれて、ずっと側にいてくれて。眠れない夜にあなたが一晩中見守ってくれたこと、わたし一生忘れない」 「そんな、大したことはしてませんから」 嬉しいのと恥ずかしいのと照れ臭いのとで、項の辺りがむずむずした。 「レミーラはそんなに魔力を使いませんし、姫がお休みになるまで子守唄を歌うのだってどうってことありませんでした」 「……え? 歌? え、ええ、そうね、ありがとう……」 あからさまに動揺した様子でローラが視線を逸らす。 訳が分からず首を傾げたその時、ずり落ちた兜がグレンの視界を塞いだ。岩を踏むはずの爪先がすかっと虚空を蹴る。 「あ」 「え」 グレンは重力に従ってどかんと地面に落ちた。岩と岩の合間に背中から減り込みながらも、両手をいっぱいに伸ばしてローラだけは守り抜く。彼の尽忠もここまでくるとほとんど条件反射だ。 「グレン……! グレン、しっかりして」 ローラは慌ててグレンの上から飛び退き、その傍らに膝をついた。ぐるぐる目を回す少年を心配げに覗き込む。 「ひめ、おけらは」 グレンは右に左にぐらぐら揺れながら体を起こした。 「わたしは平気。でもグレン、あなたろれつが回っていないわ」 「らいりょーぶれす」 ちっとも大丈夫じゃないグレンの後頭部に、重たい杖の一撃が与えられたのは次の瞬間だ。先の激突にも負けない衝撃で脳が正常の働きを取り戻す。 痛みに呻くグレンの頭に、容赦なくごつん、ごつん、と追撃が加えられた。 「人を、散々、待たせて、おいて、こんな、ところで、何をしてるのよこのバカ!」 魔女に特大の雷を落とされて、グレンは首を反射的に首を竦めた。 |