久しく見なかった炎の夢を、最近また良く見るようになった。 グレンは恐ろしいくろがねの魔物から必死に逃げていた。喉を喘がせながらひたすら走り続け、体力が尽きた頃、遂に足がもつれて転ぶ。振り返るまでもなく、魔物が凄まじい勢いで迫っているのが分かった。 (グレン) 優しい声と共に誰かが抱き上げくれた。グレンを包み込む腕は優しく柔らかく、絶対的な安堵に満ちている。この人がいてくれれば大丈夫だと、グレンは必死にその胸にしがみつくのだ。 すると突然、横合いから吹きつけた圧倒的な衝撃が温もりの主を吹き飛ばした。地面に思い切り叩きつけられた衝撃で、グレンの意識は夢から現実へと引き戻された。 グレンが目を覚ましたのは、ラダトーム寺院の屋根裏部屋だ。几帳面な性格そのままに、きちんと片付けられた彼の部屋はこの町の何処よりも空に近い。 「……」 のろのろと手の甲を押し当てた額には、べっとりと前髪が張りついていた。 「……何度見ても慣れないな」 「ももも?」 「うん、大丈夫だよ。……ありがとう」 ベッドに飛び乗ったモモがぺちぺちと肘を叩いてくる。グレンは腕の陰から小さく微笑み返し、それからゆっくりと体を起こした。 何時の間にかうとうとしてしまったようだ。室内を満たす光の色からして既に夕方だろう。昼食を取った後から記憶が抜けているから、たっぷり三時間は寝ていた計算になる。 「何か……体が重いな」 倦怠感が重たく四肢に絡んだ。溜息が知らず唇から漏れる。そのままぐずぐず崩れようとするグレンの頬をぴしゃりとモモが打った。 「もー!」 「いたた、分かった、もう起きるよ」 しゃっきりしろとモモに尻を叩かれて、グレンは眠気覚ましに散歩に出ることにした。 寝台を下りて靴を履き、部屋を出て狭い廊下を渡る。長い螺旋階段を下り、祈りに満ちた大聖堂を過ぎって重たい扉を開けた。 凍てつくような寒風がさあっとグレンに吹きつけた。昨晩の大雨の名残か、濡れた土と落ち葉の匂いが強く鼻につく。 「もうそろそろ本格的に冬だね」 「もも」 「時間が経つのは本当に早いな」 ローラをラダトームに連れ帰ってからかれこれ二ヶ月が経過する。世継ぎの王女の生還は、ラダトームの人々にとって久々の吉報だった。 人々は勇者の出現に驚き、勇者の幼さと凡庸さに二度驚いた。ロトの再来だと声高に絶賛する者もいれば、たまたま運が良かっただけだと陰口を叩く者もいる。祝福と好奇心とやっかみの入り混じった視線は、何処へ行っても何をしていても四六時中グレンにつき纏うようになった。 「適当にぶらぶらしようか」 「も」 あてどなく歩いても最後に行き着く場所は同じだ。城下町の外れにある広場に、グレンは何時も吸い寄せられるようにやってくるのだ。 「もももん、もももん」 広場を縁取る柵に飛び乗り、モモがばたばたと短い手を上下させる。依然正体不明の生き物だが、モモ自身は己を鳥と認識しているようだ。時折こうして前足を振り回し、優雅に飛ぶ姿を妄想しているらしい。 そんなモモに微笑んでから、グレンはアレフガルドの内海に視線を落とす。良く晴れた日だというのに、荒れ狂う海面は今日も重たく濁っていた。 鈍色の海面から昇り立つ、濃厚な魔力がぴりぴりと痛い。以前は感じなかった力を感知出来るようになったのは、あの旅でそれだけ感覚が研ぎ澄まされたということなのだろう。 グレンはおもむろに顔を上げ、暗雲を纏う竜王の城を見据えた。 「竜王か……」 次に竜王が齎す脅威は何だろうと、グレンはこうやって城を眺めるたびに思う。光の玉を奪い、ドムドーラを滅ぼし、ローラを拉致し……あまたの人々の呻吟と涙を搾り取った竜王がこのまま大人しくしているとは思えない。 事実魔物は日々数と凶暴性を増し、最近では魔除けの魔法陣を破って人里にまで入り込んでくるという。大地に染みた竜の力がルビスの加護を弱めているのかも知れない。 「……モモちゃん、僕はね」 グレンは城を見据えたまま呟いた。 「今、凄く幸せだと思うんだ。想像も出来なかったようなことがたくさん起きて、夢を見ているみたいだよ」 「もも」 先日、城から近衛隊への入隊命令が下った。 近衛隊は本来、貴族の子息のみで構成される特別部隊だ。戦闘能力は勿論のこと、容姿や教養など多方面に秀でた青年ばかりが選ばれる。漆黒の鎧を纏った近衛兵が整然と並ぶ様は圧巻の一言に尽きた。 王女救出の功績によってグレンに特別入隊が許されたのだ。そしてそれと同時に耳打ちされたのは、伯爵家との養子縁組の打診である。 つまりこれらは、国の勇者たるグレンを王女の婿として迎える準備に他ならない。グレンを王の娘婿に相応しい立場にしようと、国の重鎮達がやっきになっているらしかった。 「そうなんだ。夢の中にいるみたいで、生きている実感がないんだ」 王女との恋を阻むものは何もない。輝かしい未来は約束された。誰もが羨むような僥倖を授かりながら、しかしグレンの気持ちは不思議と弾まないのだ。 「僕がやらなくちゃならないのは……」 何かが見えかけたその時、五時を告げる鐘の音がラダトームの隅々にまで響き渡った。グレンははっと我に返り、茜色だった空が薄紫に染まりつつあるのに気付いて慌てる。 「忘れてたっ。城に行かなくちゃならないんだっけ!」 「ももも?」 「今日は舞踏会。ああいう場所は苦手なんだよなぁ」 グレンはぼりぼりと後ろ頭を掻いた。 環境の変化に日々困惑のグレンだが、彼が何より辟易しているのは、国の英雄として扱われるようになったことだ。 公式行事や定例舞踏会のたび、グレンの下には恭しく使者が訪れる。断る理由も術もなく、グレンは気乗りしない心に鞭打って、のこのこと城へ出向くのが常だった。 垂木からぶらさがるシャンデリアは太陽よりも明るく輝き、磨き抜かれた床に光の雫を注ぐ。大理石の柱は巨木のように聳え立ち、巧みな細工の施されたヴォートルを支える。贅の限りを尽くした王城は、何時だってグレンを圧倒するのだ。 加えて王宮で笑いさざめく人々の、何と洗練されて美しいことか。歩き方から扇の上げ下げまで一部の隙もなく、まるで良く訓練された芝居を眺めているかのようだった。 グレンが何時ものようにぼんやりと壁際で佇んでいると、宮廷楽団が軽快なワルツを奏で始めた。 幾人かの紳士がダンスを申し込み、幾人かの淑女がそれに応えた。そこかしこで、色とりどりのドレスが夢見るように翻る。 「お前は踊らないのか」 ふと気付くと、腕組みをしたダグラスが傍らに立っていた。鎧こそ纏っていないが、ゆったりとしたマントの陰からは剣の柄が覗いている。 「……踊れないんです」 正式な舞踏など習ったことがないのだ。華々しいこの場所でどのように振舞うべきなのか、皆目見当もつかない。 「剣術の次はダンスの特訓が必要なようだな」 「僕なんかが踊ったら笑われます」 「何を言う。貴族社会では最低限のたしなみだ」 ダグラスは小さく頭を振った。 「お前にはそれ以外にも学ばねばならぬことがごまんとある。行く末は女王の影となり、実質王となってこの国を治めるのだから」 「王?」 喉奥からすっとんきょうな声が飛び出して、グレンは慌てて口を塞いだ。やや間を置いてから恐る恐る掌を外し、囁き声でダグラスに問う。 「僕が……王ですか?」 「……何を今更驚いている。ローラ様の婿になるのだから当たり前だろう」 分かっていたようで分かっていなかった現実を突きつけられ、グレンは目をぱちくりさせた。 美しいアレフガルドの大地、そこに住まう人々、今日まで綴られて来た歴史。それらを双肩に担う自覚など、先日まで一兵士に過ぎなかったグレンにあるはずがない。あまりにも途方のない話で、まるで現実味を帯びないというのが正直なところか。 ダグラスはグレンを見下ろし、氷色の瞳を愉快げに細めた。 「お前の治めるラダトームは、どのような国になるのだろうな」 「……あの、隊長」 言いかけた時、すっと人影が立ちはだかった。 |