決意の時<2>


 すらりとしたその男には見覚えがあった。秀麗な顔立ちと洒落た会話で、何時もたくさんの少女を魅了している華やかな貴族の青年だ。
「ラダトームの勇者におかれましてはご健勝であらせられる」
 青年は慇懃にそう述べ、ばかばかしいほど丁寧に頭を下げた。その顔に隠そうともしない侮蔑があるのを見て、グレンはぐっと顎を引く。
「今宵こそ勇者の舞踏を拝見出来るかと、先ほどからお待ち申し上げているのですよ。下町の踊りとはどのようなものなのでしょう。……貴殿は我々にとって実に興味深いお方でいらっしゃる」
 やや距離を置いたところからくすくすと含み笑いが上がる。青年の仲間らし若者達が、こちらを盗み見て何やら囁き交わしていた。
 明らかに浮いた存在であるグレンを、みなで示し合わせてからかいに来たのだろう。
「……」
 この状況に相応しい皮肉や嫌味などグレンに返せようはずもない。不器用に押し黙るしかないグレンの鼻先を、その時ふわりと花に似た香りが掠めた。
「こんばんは、ご機嫌いかが?」
「姫」
 その場に居合わせた者は、みな競うように王女への礼を取った。
 今宵のローラはさながら大輪の薔薇だ。濃いワインレッドのドレスは一流の職人によるもので、真珠をあしらった袖飾りや大きく膨らんだ襞スカートなど、全てが見事に調和して王女の美しさを最大限に引き出している。瞳の色に合わせた装飾品は光を吸い込んで炎のように閃き、彼女が動くたび、その処女雪の肌に複雑な色を投げ落とすのだ。
 ローラは青年を見上げ、挑戦的に睫毛を瞬かせた。
「わたくしの騎士達の眉をこのように曇らせるなんて、一体何のお話をなさっていたのかしら。わたくしにもお聞かせ願える?」
 先刻までの不遜な態度は何処へやら、怒りに満ちた王女の眼差しに射抜かれ、青年は焦った微笑みを浮かべた。
「つまらぬ世間話です。姫にお聞かせするような内容ではございません」
「まあ、仲間外れにするなんてひどい人。親切なお方だと思っていたのに、案外意地悪もなさるのね」
「い、いえ、そのような意味では……」
「いいわ、分かりました」
 狼狽する青年にそれ以上一瞥もくれることなく、ローラはグレンに向き直った。ドレスの裾を軽く摘み、ゆったりと膝を折りながら微笑む。
「踊って頂ける?」
「え?」
 戸惑うグレンの手を取り、ローラは半ば強引に歩き出した。途端王宮そのものがどよめき、兼ねてから計画していたとでもいうように、人々がきれいに引いて一本の道を敷く。存在するもの全ての視線がグレンとローラに集中した。
 広場の中ほどまで進み出ると、ローラはくるりと振り返ってグレンに向かい合った。
「右手はわたしの腰に回して」
「こ、腰ですか?」
「……どうしてそんなに赤くなっているの? わたしと踊るのは嫌?」
「嫌だなんて。……でも姫、僕は踊れなくて……」
 急に惨めになってきて、グレンは目線を床に落とした。
 衆目の中いささかの物怖じもしない彼女に比べ、がちがちに緊張している我が身が情けない。このきらびやかな世界で、彼は本当につまらない存在だった。王女のパートナーを務めるにはあまりにも威風に欠けていた。
「……」
 グレンは腕の中のローラをつくづくと眺める。肌が触れ合うほど近くにいるのに、彼女の存在がとても遠い。
「……グレン? どうしたの?」
「あ。いえ、何でもありません。……ちょっと緊張しちゃって」
 ローラは微笑み、大丈夫だという風にグレンの指をきゅっと握った。
「心配しないで。わたしがあなたの分まで踊るから」
 果たしてその言葉通り、ローラは風に乗った花びらのように、くるくると休みなく舞い踊った。狂いのないステップを踏み、零れるような微笑みを浮かべ、世継ぎの王女に相応しい堂々たる舞踏をところ狭しと披露する。
 ローラの洗練された踊りは、実際のところほとんど彼女に合わせているだけのグレンをも気の利いた踊り手に見せた。軽やかに、美しく、そして何より幸せそうに踊ることで、ローラはゴシップ好きな人々から完璧にグレンを守り抜いたのだ。


 一時間ほど滞在した後、グレンはこっそりと城の中庭に逃げた。王女のプライベートエリアに特定の人間以外は入ることを許されず、故にそこは恰好の避難場所となっている。
 旅で感じたのとは違う疲労感がずっしりと肩に圧しかかってくる。グレンは噴水の縁に腰を下ろし、はあと溜息をついて礼服の詰襟を緩めた。
「疲れたぁ……」
 仰ぎ見た空には初冬の月が淡く滲んでいた。ゆっくりと北に流れる雲が時折月の面を覆う。
 ぼんやりと月を見上げていたグレンの耳朶を、せせらぎのような衣擦れの音が打つ。続いて愛おしさを秘めた声が中庭の闇に溶けた。
「見つけた」
 水のベールの向こうにローラが立っていた。青白い月光をはごろものように纏ってはんなりと微笑んでいる。
「姫」
 グレンは慌ててローラに駆け寄った。拝跪しようとしたところを、王女にそっと止められる。
「二人きりの時はそんなことしないで。普通にして欲しいの」
「ですが」
「お願い」
 その声に嘆願にも似た響きが含まれているのを感じて、グレンは戸惑いながらも膝をつくのを止めた。ローラはグレンが家臣として接するのを殊の外嫌うのだ。
「さっきは無理矢理ひっぱりだしてごめんなさい」
 ローラはわずかに視線を落とした。
「あなたが意地悪されているのを見たら、悔しくて頭に血が上ってしまったの。……見世物みたいで嫌だったでしょう?」
「いえ、姫のお陰で助かりました」
 勇者と王女の踊りこそ舞踏会最大の目玉だったのだ。無言の圧力を無視するのもそろそろ限界だと感じていた矢先の出来事、恙なく義務を果たすことが出来てようやく肩の荷が下りた気分である。
「本当? わたしがあなたを助けるなんて初めてね」
 嬉しげ頬を染めた後、ローラはふと何かを思い出したように眉を跳ね上げた。ついと一歩踏み出してグレンに体を寄せる。
「ど、ど、ど、どうなさったんですか、いきなり」
「さっき踊っていて思ったのだけど、あなた、背が伸びたのね」
 グレンの動揺に構うことなく、ローラは少年の額に手を翳した。
「え、そうですか?」
「そうよ、マイラの村ではわたしと同じくらいだったのに、今はわたしの目の高さがあなたの鼻と一緒だもの。ね?」
 取り戻したかった笑顔がすぐ側で花開く。これまでにない幸福感に胸がいっぱいになったその時、ふっと辺りが闇に覆われた。
 反射的に空を仰ぐと、南から流れてきた雲に月が覆われていた。竜王の城上空に逆巻く雲は、時々こうしてラダトームにまで流れてくるのだ。
 暗雲の放つ凄まじいまでの威圧感にグレンは顔を顰めた。こんな空が広がる限り、アレフガルドに安寧が訪れることはない。人々の心はこうしている間にも、じわじわと竜王への恐怖に蝕まれている。
「……」
 甘酸っぱいときめきは消え去り、代わってじわじわと焦燥感が滲み出してくる。だが一体何に対して焦っているのかはグレンにも分からない。
「……あなたの心は時々何処かへ行ってしまうのね。広い空を自由に飛んで、そのうちラダトームからいなくなってしまいそう」
 雲間から顔を出した月に照らされて、ローラの寂しげな顔が浮かび上がった。さっきまで楽しそうに笑っていた彼女の変化にグレンは戸惑った。
「あなたがわたしだけの勇者様ならよかったのに」
「……え?」
「でも違う。あなたはアレフガルドを救うロトの勇者なのね」
「姫、さっきから何を仰っているんですか?」
 ローラは唇を噛んで俯き、わずかに沈黙して顔を上げた。達観したような決意がその面に滲んでいる。
「聞いて欲しいことがあるの。今まで黙っていたけど、わたし……竜王に会ったことがあるの」
「竜王?」
 それは思いもかけない告白だった。グレンは思わずローラの二の腕を掴み、その顔を覗き込んだ。
「何時……? どうやって竜王に会ったのですか?」
「このラダトームから連れ出された後……」
 ローラはグレンの瞳をしっかり見据えたまま、その日の出来事を語りだした。