あの日城からかどわかされたローラは、闇を刳り貫いたような魔物に抱きかかえられたまま、一陣の風となって夜空を飛んだ。 風がごうごうと唸る。星が黄金の曲線を描く。遥か眼下にアレフガルドを捉えながら、ローラは必死にもがき続けた。このまま何処へと連れ去られて辱めを受けるくらいなら、大地に叩きつけられた方がましというものだ。 だが彼女を戒める腕は強く、巌のように揺るぎない。叩けば皮膚が破れ、引き掻けば爪が割れ、抵抗すればするほど、傷つくのはローラの方だった。 東の空が赤く染まる頃、ローラを抱えた魔物はようやく地表に降り立った。悪臭ふんぷんたる沼地を渡り、ごつごつした入り口を潜って洞窟に足を踏み入れる。湿った闇を進んだ先には鉄の扉が聳えており、ローラの顔ほどもある錠が鈍い光を放っていた。 魔物は戸板に手をかけ、ゆっくりとそれを押し開けた。 「……あ……」 扉の向こうに広がるのは、見たこともないような神秘の空間だ。ローラは唖然として室内を見渡し、とある事実に気付いて眉を顰めた。 その部屋には窓がなかった。暗く燃える蝋燭だけでは光が行き渡らず、室内は鬱々と薄暗い。肌に染み入り、内臓を凍らせ、やがては精神までをも蝕むだろう冷たい闇が、獲物を求めて静かな渦を巻いていた。 「いや……」 恐怖に立ちすくんだところを乱暴に突き飛ばされ、ローラは部屋の中に倒れこむ。 ローラを受け止めた瞬間、待ち構えていたかのように床が紅に染まった。絨毯から滲み出る光の源が何なのか、基礎魔術学を修めている彼女には大体の見当がついた。 「魔法陣……?」 そう呟く間に、酷い脱力感が彼女を襲う。 ローラはのろのろと起き上がり、重たい音を立てて閉じた扉を振り返った。錆色をした扉には食事を差し入れるための小さな窓がついているだけで到底脱出など望めない。彼女が閉じ込められたのは世界で一番美しく、世界で一番堅牢な大地の牢獄であったのだ。 監禁されて二日後、扉の向こうで人の声がした。日に三度奇妙な飲み物……多分、栄養剤のようなもの……を運んでくる魔物は唸るだけで人語を発しない。 助けがきたのかもしれないと、ローラはベッドから体を起こした。水を吸ったかのように重たい頭を持ち上げて扉を凝視する。 ごりごりと音を立てて扉が開いた。 蟠る闇を掻き分けて、ゆっくりと何かが滲み出てくる。それが蝋燭のかすかな灯りを受けて全貌を顕にした瞬間、ローラの背を冷たいものが走り抜けた。 血の気のない面に赤い瞳が炯々と煌く。細く鼻梁の通った鼻、薄い唇、高い頬骨、尖った頤。氷の彫像のように整った顔は年齢を明確に示さない。まだ十代の若者にも見えるし、五十に手が届きそうな壮年の男にも見えた。 「竜……王」 ローラは本能的に男の正体を悟った。裳裾の乱れを直しながら身を引くと、竜王はそれがおかしいというように微笑み、非の打ち所のない完璧な礼を披露する。 「ラダトームの姫君にはお初にお目にかかる」 「……わたしを人質にしてラダトームに降伏を迫ろうというなら無駄です。王は決してそのような脅しには屈しません」 ローラは精いっぱい背筋を伸ばして顎を持ち上げる。王女としての矜持を保つことが、今の彼女に出来る唯一の抵抗だ。 「分かったならさっさと殺しなさい。ラダトームはお前の思い通りにはなりません」 竜王はわずかに瞠目し、その後低く喉を鳴らして笑った。口元を掌で覆い、困ったものだと言う風に首を振る。 「殺すつもりなら、手間をかけて拉致などせぬよ」 「生かして嬲り者にするつもりですか」 「そうではない……せっかちなことだ」 竜王がローラの寝台に歩み寄った。はっと身を引くローラの頤を素早く捕らえて顔を覗き込む。燃えるような瞳が、吐息も跳ね返る距離で視線を絡めた。 「竜の姫よ」 竜王は優しくローラを呼んだが、命令しなれた者の傲岸さを隠しきれてはいなかった。 「竜を宿しながら人の世に暮らす姫よ。そなたはこのアレフガルドに於いて、ただ一人の我が同族」 あまりに間近に竜王を見て却って肝が据わった。ローラは瞬きもせず自分と同じ色をした目を睨みつけた。 「竜? 同族? 一体何のこと?」 「分からぬならそれでもよい。私がそなたに望むのは二つ。一つはその力を私に捧げること。一つは新しい竜を産むこと」 静寂に満ちた牢獄に、ぱんと乾いた炸裂音が響いた。 「……汚らわしい」 侵略者と肉の契りを結び、挙句魔物の子を産めと、目の前の男は臆面もなく言ってのけたのだ。竜王の頬を打ち据えた掌が、押さえきれぬ怒りにわなわなと震える。 「侮るのも大概になさい。例えこの先何があってもわたしがお前を愛することなどありえません」 「愛することはないか」 ここで激昂でもしてくれれば少しは胸も透くというのに、竜王は余裕たっぷりに目を細めただけだ。苦い敗北感にローラの胸が軋んだ。 「だが新しい命を作るのに心が通じ合う必要などあるまい? 必要なのは肉と肉の交わりに過ぎぬ」 「……それ以上侮辱するなら舌を噛みます」 「情の強い姫であることよ」 竜王はローラから手を放して一歩退いた。じろじろと注がれる無遠慮な視線に負けじと、ローラも睨み返す瞳に力を込める。 「姫を我が物とすることで、私は新しい竜と勝利の冠を手に入れる。 ローラの名は月桂樹を示すと聞く……そなたほど勝者に相応しい花嫁もおるまい」 「……」 沈黙を抵抗として口を閉ざすと、竜王は幼子をあやすように眉を持ち上げた。 「牢獄の闇は人の心を食い荒らす。そなたは何れ、ここから出してくれと私に懇願することになるだろう。その取り澄ました顔が涙に濡れる日が楽しみだ」 「誰がお前になどに……」 「それまで姫には別の形で協力願おう。ここは地脈の中心にあり、力を効率良く大地に染み込ませてくれる」 「……?」 「竜の姫よ。心変わりの際には声の限り泣き叫ぶがいい。その声が我が城に届いた時、私はそなたを迎えに来よう」 竜王は唇の端を持ち上げると、闇の色をしたマントを翻して部屋を出て行った。 |