決意の時<4>


 ぶるりとローラの剥き出しの肩が震えた。それが寒さのせいばかりではないと知りながら、グレンは正装用のマントを脱ぎ、ローラの体を包み込む。装飾を目的とした薄い布地だが、夜風を凌ぐ程度ならこれで十分だ。
「……ありがとう……」
 俯くローラの横顔が月光に滲んだ。闇と光に彩られた少女は朧に霞んで頼りなく、何処かしら危うげだ。
「竜王は本当に恐くて憎らしかった。でもそう思うのと同じ心で思ったの……とても懐かしい人に会ったって」
「懐かしい?」
 あまりに意外なその台詞に、グレンは思わず眉根を寄せた。
「わたしの中の竜が同族を懐かしんでいたの。……グレン、わたしの心が竜王のものになることは絶対にないわ。でももし竜王がわたしの竜を手懐けたら、わたしはそれを抑えられるかどうか分からない」
 ローラがぎゅっとグレンの袖を握った。怯えたように見開かれた瞳の淵で、長い亜麻色の睫毛が震える。
「竜が暴れ出したら、わたしを殺して」
「……姫」
「これ以上アレフガルドがわたしのせいで荒れるなんて耐えられない。だからそうなる前に、ロトの勇者であるあなたが……」
「姫、姫、落ち着いてください」
 グレンはおののくローラを掻き抱いた。ローラは激しく惑乱し、二度力なくグレンの胸を打った後、急激に力を失って弛緩する。くずおれそうなその体を両腕に捕らえたまま、グレンは万感の想いを込めて囁いた。
「万が一姫の竜が暴れたら僕が鎮めます。姫のお心を竜になんか渡さない……絶対にそんなことはさせません」
 わずかに腕を緩めて顔を覗くと、泣き濡れた瞳がじっとグレンを見上げていた。涙を含んだ瞳はこの世のどんなものよりも鮮やかに赤い。
「僕を信じてくださいますね?」
「……」
 頷いた拍子に零れたローラの涙を、グレンは親指の腹で拭った。
「さあ、そろそろ広間に戻りましょう。きっとみなさんが姫をお探して……」
 まどろむようだった城の空気を、鋭い悲鳴が裂いたのはその時だった。
 続いて城内に響く召集の声。鎧を慌ただしく打ち鳴らしながら、何人もの兵士が回廊を駆けていく。面貌の陰から覗く横顔はただならぬ緊張に強張っていた。
「……姫はお部屋にお戻りください。結界が御身をお守りするはずです」
 王女の部屋には森の魔女によって強力な結界が施されている。太陽の血筋たるグレンの魔力には竜と反する力があり、それを抽出して作った魔法陣は最高の守りとなるらしい。本来ならば城、或いは町全体に結界を張れば良いのだが、それだけの規模の守りを敷くのにグレンの力はあまりに小さかった。
 漆黒の鎧を纏った青年がやってきて、無言で王女の傍らに跪いた。王族の警護は近衛兵の仕事であり、現時点で雑兵に過ぎぬグレンには過ぎた役目だ。
 近衛兵がちらりちらりとグレンを見る。さっさとこの場を離れろとその瞳が語っていた。
「行って参ります」
「グレン……気をつけて」
 グレンはぺこりと一礼し、兵士達の向う方向へ駆け出した。


 旅の扉と呼ばれる転移の魔法陣がある。
 二つの魔法陣を使って亜空間に穴を穿ち、それを介して人や物資を移動させることを目的とする。目下復活に向けて研究中の失われし古代魔術の一つだ。
 今のところ成功の事例はない。出入り口の役目を果たす魔法陣は完全に同一のものでなければならず、わずかな違いがあるだけで作動しないのだ。旅の扉を利用して自由に世界を行き来出来るのは百年先だろうと言われていた。
 その旅の扉が今、ラダトーム王宮の広間で渦を巻いている。光の渦から次々と出没するのは凶暴な魔物達だ。
 王宮は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。逃げ惑う人々は次々と魔物に捕らえられ、鋭い爪と牙の洗礼を受ける。花色のドレスが血に染まり、幾つもの骸が大理石の床に転がった。
「……」
 酸鼻極まる光景に、グレンは無意識のうちに炎の悪夢を重ねた。
 夢の中のグレンは魔物から逃げることしか出来ない。炎と具足の音に怯えながら走り続けることしか出来ない。
 だがこれは夢ではなく、現実だ。そして現実のグレンには魔物と戦う力がある。
「こっちへ!」
 グレンは恐慌状態に陥っている少女の手を取った。怯える少女を背に匿い、彼女を狙ってやってきたリカント目がけて掌を突き出す。
「ギラ!」
 二ヶ月ぶりに行使したギラの火玉はやや狙いを逸れて魔物の顎に命中した。火床を得た炎は勢いを増し、魔物を一瞬にして火達磨にする。炭と化した魔物がぐずぐずと床に崩れた。
(……制御が甘くなってる)
 グレンは舌打ちを禁じえない。
 マホトーンやラリホーといった補助魔術とは違い、ギラのような六元素……火、風、水、地、闇、光……に基づく魔術は精霊の助力を必要とする。
 精霊は気に食わない人間には見向きもしないが、好いた人間にはとことん尽くす気まぐれな種族だ。朋友のためなら全力での支援を試みるし、詠唱の構成が多少甘くても目を瞑るから、彼らとの関係がよければ実力以上の魔術を扱うことも出来る。
 グレンは幸いにも火の精霊達に好かれていたが、二ヶ月の空白は彼らとの間にやや距離を作ってしまったようだ。ギラの制御は思うようでなく、その威力も格段に弱くなっている。
(武器がないとだめだ)
 グレンは床に落ちていた剣を拾った。剣の主らしき兵士は壁に寄りかかって気絶している。
「お借りします」
 一言断ってから、グレンは裂帛の気合と共に敵陣へ踊り込んだ。
 立ち塞がるキラーリカントの腕を裂き、痛みに仰け反ったところで心臓を抉る。どうと倒れる魔物を尻目に体を反転させ、背後に迫るしりょうの即頭部に強烈な回し蹴りを叩き込む。
 ふっとシャンデリアの光が翳った。反射的に仰ぎ見た瞬間、急降下してきたメイジキメラに上腕部を抉られる。灼熱の痛みが指先にまで迸った。
「ギラ!」
 メイジキメラを叩き落した火玉は、先ほどに比べてやや威力が増しているようだ。お呼びがなくて拗ねていた精霊達が機嫌を直しつつあるらしい。
 再びギラを放とうと掌に火を宿らせたその時、視界の隅で影が走った。
 騎士の形をした影のようなものが、争う兵士と魔物の間をするすると擦り抜けていく。厚みも重みも感じさせない奇妙な体が廊下へと消えた。
(……姫)
 直感的に魔物の狙いを悟ったグレンは、行く手に蠢く魔物を右に左に切り伏せながらその後を追う。
 だが音もなく走る影の騎士は驚くほどの俊足だ。グレンはあっという間に引き離され、十字路で完全に相手を見失った。
「何処に行った?」
 イライラと四方を見回したその時、ガラスの割れる大きな音が響く。
「……こっちかっ!」
 右手の通路を選んで走り出す。長い廊下の終わりには階段があり、その先に続くのは王族の住居エリアだ。王の覚えめでたく、王女と懇意にしているグレンでも足を踏み入れたことはない。
 階段を上ると巨大な石柱が並ぶ広い廊下に出た。チェス盤に似た床に大量のガラス片が散らばり、そこからやや離れたところに男が蹲っている。
「大丈夫ですか?」
 駆け寄ったグレンは、彼が先ほどローラを託した近衛兵であることに気付く。腹を抉られて大量に出血しているようで、辺り一面血の海だ。グレンがホイミを唱えると、造血を伴う回復魔術の恩恵を受けて兵士が意識を取り戻した。
「姫様が……」
「姫は何処に?」
 震える指先が割れた窓を指差した。
 グレンは窓に駆け寄り桟に両手をつく。鋭く尖ったガラスが食い込むのも厭わず、両手に体重をかけて大きく身を乗り出した。
 ふわりふわりと雪が降る中、闇よりもなお黒い影が、王女を肩に担いでするすると城壁を登っていた。影の騎士の動きに合わせて、力を失ったローラの手が空を掻く。
「姫!」
 グレンは窓枠に飛び乗り、がむしゃらに魔物の後を追った。