決意の時<5>


 染み一つない満月をラダトーム城の尖塔が貫く。その先端を飾る巨大な頂華は、精霊神ルビスの加護を願う十字の聖印だ。
 城の屋根でようやく影の騎士に追いついて、グレンは両手で剣を構えた。
 影の騎士には魔術が効かないと本で読んだことがある。だとすれば肉弾戦で勝負をつけるしかないが、不安定な足場が心許ない。
「姫を返せ!」
 叫んだ瞬間、すらりと剣を抜いて影の騎士が突っ込んできた。
 鋭い剣先がグレンの脇腹を浅く削いだ。素早く反撃を試みたが、影の騎士の敏捷度はグレンのそれをはるかに超えている。一瞬にして遠ざかった体が、再び目にも止まらぬ速さで間合いを詰めてきた。
 煌く刃が流星群のように降り注ぐ。息もつかせぬ猛攻を受け止めるのに精いっぱいで、グレンは反撃の機会も見出せない。
「くっ」
 防戦一方になりながら、グレンはちらちらとローラの様子を伺った。ぐったりと顔を伏せた彼女がどういう状況にあるのか不安でならない。
 ただでさえ不利な戦況下、集中力の散漫は決定的な隙を作った。
 吹き上げた血飛沫が夜空を濡らす。からからと音を立てて剣が勾配屋根を転がった。
「う……」
 抉られた上腕部から灼熱の痛みが全身に広がる。傷口を押さえてよろめくグレンの脳天目がけて、黒い剣が容赦なく襲いかかった。
 寸でのところで刃をかわすと、グレンは捨て身の覚悟で敵の懐に飛び込んだ。無事な方の腕でローラを毟り取るように奪い、力いっぱい後ろに跳ぶ。ひゅんと唸った刃がグレンの頬を浅く裂いた。
「姫!」
 ローラの呼吸音にほっとしたのも束の間、ぐらりと眩暈がしてグレンはその場に膝をついた。
 ホイミを重ねがけしてもなかなか血が止まらない深手だ。痛みと出血のせいで視界が白く霞み始める。
「……」
 気力を振り絞って顔を持ち上げると、視界いっぱいに満月が広がった。
「……お許し下さい、精霊神ルビス様」
 グレンは軽く手を開き、全ての魔力をそこに集中させる。
 ギラでは威力が足りまい。唇に紡ぐのは未だ成功したことのないギラの上位呪文、拡散節と増速節を乗せた炎の魔術だ。
「ベギラマ!」
 祈るような想いで翳した掌で、魔力と火の精霊が凄まじい炎を生み出した。
 魂すら焼き尽くすだろうベギラマの炎は、影の騎士に火傷一つ負わせることなく空に吹き上げた。炎は逆巻く冬の風に砕け、火の雫となって周囲に降り注ぐ。白い雪と赤い炎が鮮やかにラダトームの城を彩った。
 影の騎士は軋むように笑い、余裕たっぷりに剣を振りかざす。その頭上で、太陽に似た光がかぁっと閃いた。
「!」
 はっと振り仰いだ影の騎士に、轟音を立てて炎の十字架が覆い被さる。ベギラマに焼き切られた十字の頂華は、恰も精霊神ルビスの鉄槌の如く、闇に生まれついた存在を無慈悲に焼き潰した。


 影の騎士の最期を見届けて、グレンはふっと緊張を解いた。顎から滴る汗を拭い、気絶したローラを両腕に抱きかかえる。窓から城に戻ろうと慎重に一歩踏み出したその時だ。
 死んだはずの魔物の手が、ぐいとグレンの足首を掴んだ。
「なっ」
 足元を掬われて転倒したグレンは、そのまま魔物もろとも屋根を転がり始めた。体の大半を失いながらも、グレンを見据える魔物の両眼からは明瞭な意識が読み取れる。地獄の底までローラを攫っていこうとでも言うのか、獲物に対する執念にぞっと肌が粟立った。
 グレンは思い切り魔物の頭を蹴った。二度、三度、四度頭頂部を蹴りつけたその時、影の騎士の力が緩む。五度目の蹴りでようやく吹っ飛んだ魔物は、緩い放物線を描いて闇に消えた。
「……止まってくれっ」
 必死で踏ん張る踵が雪に濡れた屋根を滑る。ろくにスピードを落とすことも出来ないまま、みるみる屋根の終わりが近づいてきた。
 視界の片隅で、兵士の剣がきらりと輝いた。
 グレンは無我夢中で剣を取ると、それを思い切り屋根に突き刺した。火花を散らして滑降した刃が、奇跡のように雨どいの繋ぎ目に引っかかる。一旦大きく投げ出された二人の体が、グレンの腕を命綱として宙ぶらりんになった。
「……あ」
 その時、最悪のタイミングでローラが目を覚ました。
「グレン……?」
 不思議そうに囁いた次の瞬間、ローラは現状を把握したようだった。たちまち血の気を失う王女の額にグレンは頬を強く押しつける。今ここで混乱させては危険だ。
「大丈夫。大丈夫だから落ち着いてください」
 この腕の中の温もりだけは、何に代えても守ろうと思った。
「僕がいます。姫に怖い思いはさせません」
「……」
 ローラが顔をわずかに動かしてグレンを見る。触れ合うほど近くにある瞳に、魔法のように強い光が戻った。
「前と一緒ね」
「……前?」
 ローラはそれに答えず、グレンの肩口に顔を埋める。
「わたしは何時だって、あなたが側にいてくれるのなら大丈夫」
 グレンはほっと微笑み、すぐに表情を引き締めた。
 揺れる足の下には石畳が敷き詰められ、そこに落ちたらまず助からないだろう。剣は二人の重みに耐え兼ねて次第に傾き始めており、救援が来るまではとてももちそうにない。
(どうしたら……)
 助かる道を求めて、グレンは必死に下方に目を凝らした。
 やや距離を置いた場所に百日紅が整然と並んでいる。若木の枝は弾力性に富み、よくしなって体を受け止めてくれるだろう。昨日大雨が降ったばかりだから、その下の芝生や落ち葉も随分と柔らかくなっているはずだ。それらと己の体を衝撃緩和材にすれば、きっとローラを助けることが出来る。
 グレンは靴底を城壁に押し当てた。がくん、と剣が傾ぐ衝撃に竦むローラを抱き締めながら、ぐっと深く膝を折る。限界まで体を沈めた後、溜め込んだ力を一気に爆発させるように思い切り壁を蹴った。
 かみそりのように頬を打つ風、乱舞する城の灯り、そして瞬く間に近づく大地。あれほど遠かった百日紅の木はもうすぐそこにある。
 どこがどうどの場所にぶつかったのか分からない。触れた枝を全てへし折ったグレンの体が、重たい音を立てて芝生の上に落ちた。
「……くはっ……」
 柔らかい枝と芝生がクッションになってどうにか助かったようだ。強打した左肩から腕にかけてが動かないが、今はそんなことよりローラの安否が気にかかる。
「姫……姫っ!」
 力なくグレンの胸に伏せたローラを揺する。ややあって薄い瞼が持ち上がり、ルビーのような瞳が覗いた。
「お怪我は? 痛いところはありませんか?」
「え、ええ」
 未だ呆けた様子だったが、ローラはしっかりと頷いた。
 さすがに全く無傷とはいかなかったようで、白い肌のあちこちが擦り傷だらけだ。それでもあの高さから落ちてこの程度で済んだのだから及第点と言ったところか。
「良かった……つっ」
 安堵した途端、体中に激痛が走って息が止まりそうになる。
「グレン……。ああ、どうしよう、血がこんなにたくさん」
 ローラがおろおろと掌でグレンの額を拭う。彼女の白いグローブが血で汚れるのを気にするうち、ぷつんとグレンの意識が途切れた。