決意の時<6>


 左肩の骨折が全癒するには、魔術と医術を用いてもある程度の時間が必要だった。
 グレンの左腕が問題なく動くようになったのは、アレフガルドの大地が雪に覆われてしばし後のこと。医者から完治の診断を受けたグレンはすぐさま寺院に戻り、自室の物入れから旅道具を引っ張り出した。
 ようやく傷の癒えた体にゆっくりと鎧を纏っていく。柔らかくなったブーツに足を突っ込もうとして、グレンは初めて肉体の変化を自覚した。
「前に使っていたブーツが入らなくなっちゃった。手袋も……無理だな」
 厚手のアンダーウェアを着てもぶかぶかだった鎧は、今やぴったりと体の線に馴染んでいる。歩くたびに揺れていた兜も落ち着き、以前のように視界が塞がれる心配はない。
「もーももも」
「育ち盛り?」
「もも。ももも。もも」
「そっか、モモちゃんに叱られてにんじん食べるようになったからかな」
 代えがあったはずだとグレンは箪笥を掻き回す。城から配給された品物の中には、サイズが合わなくて使えなかったものが幾つかあったはずだ。
 果たしてグレンの予想通り、箪笥から引き摺り出したそれらは今のグレンにちょうどよい大きさだった。結び目を解いたマントがふわりと足首の辺りで靡く。
「準備完了……っと」
 姿見の向こうには、ようやく戦士らしくなった少年が立っている。
 額に目立つ三日月の傷跡は、先の騒動で負った裂傷だ。命にかかわる傷でもないからと、止血してもらったきり敢えてホイミはかけなかった。自然治癒に任せた傷は恐らく一生消えないだろう。
 それでいいとグレンは思う。この傷こそ覚悟の証となるはずだ。
「ももも」
「前より似合うって? そうかな、ありがとう」
 グレンは照れ笑いを浮かべながらベッドに腰を下ろす。使い古した白木のそれが、ぎしっと鈍い音を立てた。
「ももももももも?」
「そうだよ。ちょっと長い旅になるね」
「ももーもももー」
「空を飛べたら一息なのにって? ラーミアみたいでかっこいいな」
 グレンは微笑み、改めてモモの瞳を覗きこんだ。
「モモちゃん」
「も」
「僕は子供のころからずっと剣士なりたかったんだ」
「ももも」
 正面に座ったモモが、何度も聞いたと頷いた。
「強くなりたかったんだ。目の前で人が殺されないように、町が壊されないように、大事なものが奪われないように」
 閉じた目蓋に浮かぶのは炎の情景だ。
 顔も覚えていない剣士に抱き上げられ、グレンは泣きながら故郷が燃え尽きる様を眺めていた。誰にも負けない強さが欲しいと思った。大切なものを守れる力が欲しいと思った。だから恩人である剣士のようになるんだと決意したあの日のことが、鮮やかに胸のうちに蘇る。
「あんな想いをするのは僕だけでいい」
 グレンは立ち上がって剣を手にした。ずしりとした鋼の感触に自然気持ちが引き締まる。
「行こう。このままじゃだめだ」


 竜王がそっと手を翳すだけで、長い爪の先には炎が灯る。
 眩しいほどの朱金の輝きは、時が経つにつれ根元から黒く染まっていく。彼の魔力を源とする炎は、彼の命のあり方を忠実に映す鏡でもあった。
「……ここまで破壊神に食われたか」
 自嘲とも苦笑とも取れるあいまいなものを浮かべて、竜王はすいと指を凪ぐ。炎は弾け、幻のように闇に滲んで消えた。
 正しき神の末裔である竜王にとって、邪神は尤も忌むべき存在だ。破壊神に忠誠を誓い力を授かるなど、他の神々に唾を吐きかけるにも等しい行為だった。
「……構わぬ。神々は私に何もしてくれなかったではないか」
 竜王の双眸に寂寂たる光が過ぎる。
「誰一人として、破壊神に捕らわれた私を助けに来てはくれなかった。私は神々から見捨てられた存在なのだ」
 破壊神の力はこうしている間にも優しく竜王を蝕んでいる。魂を食われる感触は痛くも苦しくもなく、むしろ酒のような心地良い酩酊を齎してくれる。闇に身を委ねることに、竜王は何の迷いも躊躇いも感じていなかった。
「……」
 ふと胸の奥がしくりと痛んで、竜王は眉を寄せた。のろのろと押さえた胸には光の玉が封じ込めてある。
「……母上」
 竜神の至宝は、時折こうして啜り泣きを上げるのだ。
 聖なる力を秘めた宝玉は、闇に傾倒しつつある竜王を蝕む危険な存在だ。そのことを重々承知しながら、竜王は光の玉を懐深く抱き締めずにはいられない。それは竜神の証……竜王が失ったもの、手に入れるはずだったものの象徴的存在だった。
「母上、そう嘆かずともよい」
 竜王は掠れ声で囁きながら、ゆっくりと濃厚な闇で光の玉を包んだ。
「私は神になるのだ。アレフガルドの大地の神として君臨し、一族の栄光を取り戻すのだ」
 光の玉は震え、おののき、やがて力尽きたようにしんと静まり返った。