二つの神器<1>


 養父宛ての短い手紙を残して、グレンが忽然とラダトームから姿を消した。
 勇者失踪の噂は瞬く間にラダトームを駆け巡る。竜王退治に向かったのだとか、過ぎた扱いに尻込みして逃げ出したのだとか、無責任な憶測が羽虫のごとく気ままに飛び交った。人々の期待と不安は限度知らずに膨れ上がり、霧のように隙間なくアレフガルドを包み込んでいく。
 ローラに報せが届いたのは翌日のこと。それまで女官達の笑い声に溢れていた部屋は、水を打ったかのようにしんと静まり返った。
「……そう」
 二呼吸分の間を置いて、ローラはやっとそれだけを返した。萎れる花のように俯いた王女に、女官の一人がおずおずと声をかける。
「あの、姫様……」
「ごめんなさい、疲れたから少し休ませてもらうわ」
 視線を交し合う女官達にそう断って、ローラは寝室へ引き上げた。ベッドの縁にくたりと座り込み、引き寄せたクッションを両腕に抱き締める。焚き染めた香が今日に限ってきつく鼻をついた。
「……やっぱり行ってしまうのね」
 こんな風にグレンがいなくなることを、ローラは心の何処かで覚悟していた。
 ふとした瞬間、グレンが難しい顔で黙り込むのをローラは何度も目にしていた。そんな時の彼はここにはない風景を眺め、ここにはない音を聞いていたようだ。グレンの肉体はローラの側にありながら、心は遠くアレフガルドの広野に飛んでいた。
 彼は歩き始めたのだ……ロトの末裔として、太陽の血筋として、そしてグレンとして。翼を持つ魂は草原を渡り、山を飛び越え、世界の果てまで巡るのだろう。
 ローラは凍りつくような寂寥の中で、一人その現実を受け止めた。


 観音開きの扉がゆっくりと開くと、四角く切り取られた壁の向こうに王の私室が広がる。突然の娘の来室に驚いてか、振り返ったラルス十六世が訝しげに眉を顰めた。
「……ローラ?」
 ローラはふらふらとおぼつかない足取りで父に歩み寄った。がくん、と崩れるように椅子の傍らに膝をつくと、小さい頃よくそうしたように父の掌を頬に押しつける。十年前に止めたはずの葉巻の匂いがして、ローラは思わず苦笑した。
「何時まで経っても子供のようだな」
「幾つになっても、わたしはお父様の子供だもの」
 それきり心地良い沈黙が室内に満ちた。聞こえるのは風に窓枠が揺れる音と、燃える薪が弾ける音のみ。ラダトームを覆う雪は町の喧騒を吸い込み、城を別世界の如く隔離している。
 不意に小鳥の声が耳に滑り込んできて、ローラは視線を跳ね上げた。金色の鳥籠の中でカナリアが二羽、長い尾羽根を上下させている。
「……わたしが六つの頃、庭で巣から落ちた雀の子を見つけたの」
 ふと唇が他人のもののように動き、忘れかけていた記憶が零れた。
「とてもかわいい小鳥だったから、わたしはすぐにその子が欲しくなったわ。巣に戻してあげなさいってばあやが言うのをきかないで、わたしは小鳥を部屋に連れて帰ったの」
 幼いローラは小鳥のために立派な鳥籠と上等の餌を用意した。雀はちちちと盛んに鳴いて、焦がれるように窓の外を眺めていた。
「その日はとても元気だったのに、次の日わたしが起きたら死んでしまっていた。泣いているわたしにばあやは言ったわ。この世界には色んな命があって、それぞれの生き方があるんだって。一方的な感情で振り回してはしてはだめなんだって……」
 その時ローラの中で、小鳥を捕らえたあの頃の自分と、グレンを王宮に縛りつけようとしている今の自分が、寸分の狂いもなくぴたりと重なった。
「グレンにわたしの生まれ育った城を気に入って欲しかったの。ここに住みたいって思ってもらえるように、思いつく限りのことをしてきた。でも……」
 振り返れば独りよがりな行動ばかりしていた気がする。嫌味な青年に意趣返しした時も、人々の前に引っ張り出して踊った時も、ローラ一人が先走ってグレンの気持ちは蚊帳の外だった。あの時は上手くことを運べたが、一歩間違えれば彼の矜持をずたずたに引き裂いていたかもしれない。
「このままでは、わたしはグレンを狭い世界に閉じ込めて、あの子みたいに死なせてしまうかもしれない」
「……」
 王は一つ溜息をつき、娘の頤を摘んで持ち上げた。
「お前はつくづくと私の娘だな。感情的で我が強く、せっかちで無意識に相手を振り回す。恋の仕方までそっくりだ」
「お父様が……?」
「お前の母……キャロラインは穏やかな娘だった。苦笑しながら私のわがままを全て受け入れてくれるような娘だった。彼女と過ごしたのは五年という短い時間だったが、私の人生であれほど満ち足りた日々はなかったよ」
 父の瞳が澄んだ湖面のように揺らぐ。母親に良く似たローラの面立ちに、取り戻すことの叶わぬ日々を重ねているのだろう。
「お父様は幸せでいらしたのね」
「幸せだったとも。ただ……」
 過去の幸せを語っていた声が、そこで寂しげに沈む。
「私と一緒にならなければ、キャロラインがあの若さで死ぬことはなかっただろうと時々考える」
「……」
「散々要らぬ気苦労をさせてしまった。私が無理を押した分、あれに対する風当たりも強かった気がする。若い時は恋の情熱に浮かされるあまり、後に待ち受けていることにまで気が回らなかったのだ」
「だけど、お母様は幸せだったとおっしゃっていたわ」
「キャロラインが残してくれたその言葉に私は救われているのだよ。幸福とはどれだけ生きたかではなく、どのように生きたかということだと、彼女は私に教えてくれた。だが彼女は幸せだったと納得しているはずの心が、時々ひどく痛むことを私は無視出来ない。ああすれば良かった、こうすれば良かったと後悔しだせばきりがないのだ」
 親子三人での生活は短いながらも幸せで、悲しい記憶など一つもなかった。しかしそんな思い出を振り返る時でさえ、父王は満ち足りた幸福の中にかすかな苦味を覚えているのだ。だとすると人生とは、常に後悔と手を携えて歩いていくものなのかもしれない。
「お前は彼が大切なのだろう?」
「大切だし、誰よりも愛している。グレンを好きになる前の自分が、どうやって生きてきたのか分からないくらい」
「だったらまず彼のことを一番に考えてあげなさい。彼が何を見据えて、何処に向かおうとしているのか、お前は薄々気付いているはずだ」
 父の指摘が焼けた杭となってローラの胸を穿った。あまりの苦痛に息が止まりそうになって、ローラは喘いだ。
「……グレンを縛りつけてはいけないって分かってはいるの。でも怖い。ふらりと何処かに旅立って、そのまま帰ってこなかったらと思うと、心臓が凍ってしまいそう」
 グレンの幸せを願うのも本心ならば、グレンを独占したいと思うのもまた本心だ。二つの異なる心が激しい葛藤を繰り広げる。
「ローラ、お前は馬鹿な娘だ……頭を冷やしてよく考えなさい。自分が悲しむことと、生き様を失った彼が苦しむことと、お前にとってどちらがより耐え難いものだと思うのだ?」
「……」
「例え深く傷つくことがあっても、それが大切な人のためならば、人はその痛みに耐えられる。神はそんな不思議な力を我々に与えてくださっているのだよ」
 ローラはじっと父親を見上げた後、おもむろに視線を窓の外に向けた。
 朝からしんしんと降り続ける雪は未だ止む気配を見せない。次第に薄暗くなっていく風景の中、その白さがより鮮やかに際立っていく。
 雪原を進む鎧姿がふと脳裏を過ぎった。吹き荒ぶ風の冷たさが彼を悩ませぬようにと願いながら、ローラは部屋に引き上げるために立ち上がった。