二つの神器<2>


 マイラの森には柔らかい春の雨が降っていた。
 細かな水滴が音もなく新芽を濡らす中、グレンはほぼ半年振りに魔女の家への道を辿った。鏡に映したように良く似た二本の木の間を潜れば、空間の奇妙な歪みを経て広い庭に出る。精霊に守られたその場所に雨は降っていなかった。
「あら」
 雫の滴る兜を脱いだ時、聞き覚えのある声が背後からした。
「グレンとモモじゃない。久しぶりね」
 畑仕事の帰りらしく、両手いっぱいにハーブを抱えた魔女が立っている。腕を伸ばして花束を持ち上げると、ふわふわした花弁の向こうからようやく懐かしい顔が現れた。
「ご無沙汰しています」
「もも」
「二人とも元気そうね。いきなりどうしたの?」
「お願いしたいことがあってお邪魔しました」
「……そう」
 魔女は何かを探るように目を眇めたが、すぐににっこりと笑って頷いた。
「だったら中に入りなさいな。ちょうどお茶にしようと思ってたのよ」


 魔女の家は、以前訪れた時と何も変わっていなかった。大木を刳り貫いて作った空間は、呼吸し続ける壁に囲まれて澄んだ森の匂いに満ちている。壁や床のあちこちから好き勝手に生えた植物達は、やがて魔女によって上質の茶や特別な薬草へと変化するのだ。
「久しぶりにグレンのお茶が飲みたいわ。淹れてくれる?」
「何のお茶がいいですか?」
「カモミール。葉の場所は前と変わってないから」
「分かりました」
 グレンは勝手知ったる台所に立った。花が咲き草が絡まる狭い厨房も、慣れてしまえば不自由なく動くことが出来る。旅に出る前は茶の淹れ方などろくに知らなかったが、魔女にみっちりしごかれたお陰で今では完璧だ。
「小僧、元気にしてたか?」
 カモミールの香りが室内に満ちた頃、これまた久々に聞く声がした。グレンは姿勢を正し、魔女に抱えられた竪琴にぺこんと頭を下げる。
「お久しぶりです、竪琴さん」
「おう。ラダトームの生活はどうだ」
「どうにかやっています。竪琴さんはお元気ですか」
「お元気に決まってるわよ、体がないんだから病気のしようがないわ。毎日毎日うるさいったらありゃしない」
 ラダトームに行きませんかというグレンの誘いを断って、竪琴はこの家に残った。森は暇だとか刺激がないとか散々騒いではいるが、彼がここでの生活を気に入っていることは見ていれば分かる。
 魔女は竪琴をテーブルに置いて椅子に腰かけた。グレンの差し出したティーカップを受け取り、一口飲んで満足そうに頷く。
「それで? 今日はこんなあばら家まで何のご用かしら?」
 グレンは魔女に向かい合う位置に腰を下ろした。正眼に魔女を見据え、一文字に結んでいた唇から力強く決意の言葉を放つ。
「僕は竜王を倒しに行きます。今日は魔の島に渡るための神器を譲っていただこうとやって参りました」
「……やっぱりそうきましたか」
 魔女はゆったりと背もたれに体を任せた。
「勇者の子孫が勇者として生きる義務はないのよ」
「でも誰かが勇者として生きなきゃだめなんです」
 一つ瞬きをする度、グレンの瞳は色を深めていく。それは太陽の閃きと、星の煌きと、月の輝きを秘めた鮮烈な空の色だ。
「僕は一度竜王に何もかも奪われました。父さんも母さんも生まれ故郷も、みんな炎と魔物が持っていきました。あの日のことは今でもたまに夢で見ます。その度に、心臓が抉られるみたいに胸が痛みます」
 ドムドーラが襲われたあの日、グレンの心は一つの傷を負った。癒されることのない傷口は悪夢を生み続け、命尽きるその日までグレンを苛むことだろう。
「先日城が襲われてたくさんの人が殺されました。残された人々が嘆く姿は、泣くことしか出来なかったあの日の僕と一緒でした」
「だからもうそんな真似はさせないと? おきれいで立派な勇者の決意だけど、故郷を滅ぼされた君の発言となると、額面通りには受け取れないわ」
 魔女の声は冷たく凍った刃となり、容赦なくグレンの内面を抉った。
「それは君にとって、復讐の宣言にも等しいんじゃないの?」
「……かもしれません」
 グレンは唇を噛んで俯く。竜王に対する憎しみがあるのは確かだし、それを原動力とするならばこの戦いは報復だ。
「ロトの子孫として恥かしい動機かもしれません。でも僕はもう、あんな風に人が泣くのを見るのはいやなんです。あんな夢を見るのは僕だけでたくさんです」
 グレンは立ち上がり、魔女に向かって頭を下げた。
「お願いします、僕に雨雲の杖を譲ってください」
「……」
「譲ってやんな」
 それまで黙っていた竪琴が絃を震わせた。
「お前が色々心配なのは分かるがな、過ぎた干渉は止しとけ。今の俺らは、伝説に溶け込み損ねた残りカスみたいなもんだ……生きた世界に関与する権利はねぇ」
「……あんたと一緒にしないでよ」
 魔女は音を立てて椅子から立ち上がった。テーブルに立てかけてあった木の杖を手に取り、ぐいとグレンの鼻先に突きつける。
「前にも言ったけど、ロトだってそんなに完璧な人間じゃなかったのよ。散々馬鹿やってあたし達に手を焼かせたわ。でもね、あたしはそんなあの子が、人間らしくて好きだった」
 魔女の掌から滲んだ魔力が節くれだった杖を包み込んだ。すると樹皮がぼろぼろと剥がれ落ち、その下からぬめるような輝きを帯びた銀色の杖が現れる。
「何時かロトの血を引く者がきたら、心と力を見極めた上で雨雲の杖を渡す。それがあたしとあの子が交わした約束」
 雨雲を模した宝玉は霧に似たベールを纏い、銀色の雨脚さながらの持ち手へと続いている。青みを帯びて明滅する様は微細な氷細工のようで、触れればひやりと冷たいに違いない。その造形、その意匠、神がかりめいた存在そのものが、恐怖に似た畏怖をふつふつと喚起させる。
「あたしは君を認めるわ。グレン……ロトの勇者。この雨雲の杖を託しましょう」
「……はい」
 雨雲の杖を受け取ったグレンから、知らず感嘆の溜息が零れた。
「もももー」
「うん、すごくきれいな杖だね」
「石碑を読んだなら分かってると思うけど、魔の島に渡るには雨雲の杖だけじゃだめよ。次に太陽の石を手に入れることね」
「魔女さんは太陽の石が何処にあるのかご存知ですか?」
「ラダトーム」
 魔女は椅子に座りながらあっさりと答えた。
「嘗てのあたしの仲間が……尤もその人はとっくに死んじゃってるから、その人の子孫が今でも守っているはずよ」
 ラダトームと一口にいったところでその範囲は広大だ。それだけではあまりに漠然としていてヒントにもならない。あれこれ捜索方法を思案し始めたグレンを見て、魔女は大丈夫とばかりに手を振った。
「雨雲の杖は太陽の石を呼び、太陽の石は雨雲の杖を呼ぶ。この二つの神器はね、虹の雫という奇跡を生み出す運命の恋人みたいなものなの。だから君は雨雲の杖の導くままに進めばいい。その先に必ず太陽の石があるから」
「はい、ありがとうございます」
「いい返事だわ。虹の橋を架けて魔の島に渡りなさい。……君の大切なラダトームとお姫様を守るのよ」
 グレンは雨雲の杖をしっかりと握り締めたまま、くそ真面目な顔できっぱりと言い放つ。
「僕が大切なのはそれだけじゃありません。魔女さんとか、モモちゃんとか、竪琴さんとかもそうです。あの日僕を助けてくれた剣士のように強くなって、必ずみんなを守って見せます」
「けっ、小僧に守られるほど落ちぶれちゃいねぇや」
 竪琴が舌打ちを放つと同時に、魔女は声を上げて笑った。
「顔も体系もそれほど似てるわけじゃないのに、時々君にあの子の面影が重なるわ。勇者の血は君の体に流れていて、志は君の心に生きている。こうやって人は永遠の命を手に入れるのかもしれないわね」