二つの神器<3>


 魔女の好意に甘えて、グレンは一晩を森で過ごすことにした。
 ラダトームからマイラの森までの旅程はおおよそ一ヶ月。その間野宿ばかりだったせいか、柔らかいベッドに転がった途端抗いがたい睡魔に襲われた。水に投げ込まれた石が沈んでいくように、するすると意識が落ちていく。グレンはブランケットに潜ることも忘れて泥のように眠りこけていた。
 夢のない真っ暗な世界に、ふと何かが滑り込んできた。
(笛?)
 滑らかな旋律がグレンを取り巻き、眠りの深淵からゆっくりと引き上げる。グレンは小さく唸り、重たい目蓋をやっとのことで持ち上げた。
 目を覚ましたというのに笛の音が止むことはない。
「……夢じゃないのか」
「ももも」
「モモちゃん」
 窓の形に切り取られた月光の中、モモがちょこんと座っていた。体毛の一本一本が光を孕み、この風変わりな生き物をひどく幻想的に見せている。
「もももん」
 ぺたぺたと歩き出したモモが、戸口のところで立ち止まって尻尾を揺らめかせた。グレンはモモに誘われるまま靴を履き、階段を下りて居間を過ぎる。扉を開けた途端、眩しいほどの月光が怒涛の如く流れ込んできた。
 静寂に包まれた庭で魔女が笛を吹いていた。横笛から零れる旋律が森に満ち、土と大気に染みて消えていく。
「妖精の笛よ」
 魔女は唇から離した横笛を、くるりと手の中で回転させた。
「昔、この森で仲間達と作った笛。この笛には精霊を眠らせる力があってね、時々こうやって聞かせて休ませてあげるの。そうすると森が元気になるのよ」
「魔術具ですか?」
 グレンはしげしげと妖精の笛を眺め、精霊石が見当たらないことに気付いた。
 精霊石は死んだ精霊が結晶化したもので、魔術具の動力源に当たる。精霊石のない魔術具は理論上ありえないから、何か別の種のアイテムなのだろう。如何なる不思議の品なのやら、グレンの魔術知識では推測すら満足に出来ない。
「君にあげる」
 魔女は唐突にそう言って、笛をずいとグレンの鼻先に突きつけた。
「え? でも大事なものじゃないんですか?」
「また作ればいいわ」
 魔女は戸惑うグレンの掌に笛を乗せた。
「この笛には精霊の加護もあるからお守りだと思って持ってなさい。あたしから君へのささやかなプレゼントよ」
「ももも」
「じゃあ、遠慮なく。ありがとうございます」
 グレンは礼を述べて笛を受け取った。試し吹きしようと口を近づけるものの、魔女の唇がついさっきまでそこに触れていたことに気付いて硬直する。かあと頬に血を上らせ、ぎくしゃくと笛を握る手を下ろした。
「大事にしてね」
 微笑んだ次の瞬間、魔女の面から一切の感情がすとんと抜け落ちた。
 仮面のように凍りついた顔の中、時折その瞳だけが機械的に瞬く。ふっくらと形の良い唇が動き出すまで、やや気詰まりな沈黙がその場を満たした。
「竜王は本当なら、天つ国の竜の城で、たくさんの人々に愛されるはずの存在だった」
 唐突な語りにやや驚いたものの、竜王について幾つか尋ねたいことがあったので好都合だった。グレンは地面に腰を下ろし、一段高いところにいる魔女を見上げて次の言葉を待った。
「まだ卵だった竜王を攫って、でたらめな過去を吹き込んだのが破壊神シドーの眷属。やることなすこと姑息で陰険なゴミみたいな奴らよ」
「破壊神シドー? ええと確か、天つ国を巡る神々の大戦で冥界に封じられたって言う……」
「そう、邪神の大ボス。破壊神シドーに従う魔族のことは、君も魔術師の端くれなら知ってるでしょ?」
「はい」
 魔族は破壊神シドーの眷属だ。実体を持たない純粋なエネルギーの塊で、人の死体や物質に取りついて行動する。偽りの姿を纏っては人間社会に入り込み、混乱や衝突、時には戦争さえ引き起こす厄介な存在だった。
「でも魔族がどうしてそんなことを?」
「魔族の目的なんて考えるまでもないわね。冥界で眠ってる破壊神の復活よ」
 魔女は淡々とそう言って、物憂げに銀の髪を掻き上げた。
「……竜王は多分、神に戻りたいんだわ。破壊神シドーが世界を席巻したあかつきには、自分も神の末席に着けると信じてるんだと思う」
「でも邪神になんかなってしまったら……」
 竜王は完全に魂を支配されるだろう。破壊神に仕える三柱神……破滅の神アトラス、死の神バズズ、虚無の神ベリアル、これに竜王を加えて最悪の四柱神の出来上がりだ。
「死なせてあげて」
 優しさを孕んだ声で魔女がそう囁いた。
「楽にしてあげて。魂のあり方を歪められるのはとても苦しいことよ。竜が竜として生きられないなんてどんな拷問よりも残酷だわ」
「……魔女さんは竜王が心配なんですね」
「竜の女王に恩があるのよ。女王はあたし達を助けてくれたから」
 魔女はおもむろにグレンを見た。全てが月色に染まる中、これだけは鮮やかな色を失わない瞳が瞬く。
「竜の女王は卵が孵る日を本当に心待ちにしていたわ。消滅する間際まで……いいえ、消滅した今でもきっと竜王を愛している。女王が愛した竜王を、邪神なんかに渡したくないの」
「竜王に勝つことが出来たら、必ずここに戻ってきます」
 グレンは立ち上がり、魔女の目をしっかり見つめて宣言した。
「僕と竜王がどんな風に戦ったのかをご報告にきます。待っていてください」
 魔女はじっとグレンをみつめ、やがて微笑んだ。ようやく何時もの彼女に戻ったような気がして、グレンはほっとした。


「ところで」
 唐突に魔女の声の調子が変わった。うきうきわくわく好奇心に満ちた視線がグレンに絡んで離れない。
「お姫様とはその後上手く行ってる? 何処まで行った?」
「何処までって、姫は城からお出かけになれないので何処にも行ってません」
「ありがちなボケね」
 至極まじめに答えたのに、魔女はつまらなそうに鼻に皺を寄せた。
「勇者と王女の大ロマンスの噂も、こんな森にいるとなかなか届いてこないのよ。だから君から直接聞きたいの」
「大ロマンスだなんてそんな」
「近衛隊への入隊や貴族との養子縁組の話が出てるっていうじゃない。こんな童話みたいな恋物語、あたしも随分長いこと魔女やってるけど実際聞くのは初めてだわ」
 噂が届いてこないといいながらやけに詳しい魔女だった。
「君はお姫様のために旅に出て、お姫様のために強くなって、お姫様のために命を懸けたんだものね。一所懸命がんばったご褒美だと思えば……」
 ちらりと横目でグレンを見た魔女が、そこでふと言葉を切った。
「……どうしたのよ。ただでさえぱっとしないのにそんな情けない顔しちゃって」
 先程までの毅然とした表情は何処へやら、グレンはしょぼくれた顔で項垂れる。しばし沈黙を置いた後、力ない声でぽつりと言った。
「僕は僕なんです」
「は?」
「近衛兵になっても貴族になっても僕は僕のまま変わりません。立派な鎧を着せられたって、兵士の鎧を着ていた時と中身は一緒なんだって、最近気付きました」
「……」
 魔女はじっと続きを待っている。グレンはぐちゃぐちゃとまとまらない頭の中から、どうにか言葉を拾い上げてそれを繋ぎ合わせた。
「僕には何もありません……貴族としての教養も、堂々と振舞える度量も、恥かしくないだけの作法も。こんな僕が姫のお相手で、ゆくゆくはラダトームの王になるなんて……」
 美しく振舞う王侯貴族の中にいると、白鳥の群れに紛れたアヒルのような気分になる。場違いという言葉をあれほど強く思い知らされたことはなかった。
「あまりの世界の違いに自信喪失しちゃったってわけね。それで思い悩める君としては、どういう結論に達したのかしら?」
「近衛隊入隊も養子縁組もお断りします。僕には過ぎた話です」
「お姫様を悲しむわよ。いいの?」
「よくありません。だからこそ僕じゃだめなんです」
 ちりちりと焦げつくようなこの胸の痛みは、きっと何時か消えてなくなるだろう。一時の恋を思い出として、彼女が幸せになってくれるのなら。
「僕はこれから竜王の城に向かいます。生きて戻れるか分からない挑戦です。果たせるかも分からない約束や言葉を残して、姫に悲しい想いをしていただきたくないんです」
「……ふぅん」
 魔女は鼻を鳴らし、ほとほと呆れたという風に半眼になった。
「要するに君は怖いんだ。お姫様の人生をまるごと引き受けようとして、その重みに潰されそうなってるんだ」
「怖い……」
 そう呟いて、グレンは初めて自分の気持ちを正しく理解した気がした。
「そうですね、怖いです。姫を僕の手で不幸にするなんて、耐えられません」
 どうすればローラが幸せになれるか一心不乱に考えても、やることなすこと全てが裏目に出てしまいそうで不安だ。この選択が良い方向へ向かうようにと、魂に食い込むように祈りながら、グレンは頑なな面持ちで視線を落とした。
 魔女はふうと溜息をつき、今宵の夜風のように囁いた。
「謙虚も過ぎると傲慢だって知ってる?」
「……え……?」
 その真意を尋ねるより早く、魔女はすとんと根から飛び降りる。くるりと向けられた背中には、一切の質問を拒むよそよそしさがあった。それ以上は立ち入らないという彼女の意思の表れか。
「さてと、そろそろ寝るわよ。君も明日にはここを発つんでしょ」
 光を弾く青銀の髪が、飲み込まれるように扉の向こうに溶けた。