二つの神器<4>


 あの夏の日の出来事を、ローラは今でもはっきりと思い出すことが出来る。
 誕生日を一週間後に控えた日、ローラは侍女や兵士の目を盗んで町に出た。十分に散策を楽しむ間もなくダグラスに見つかり、連れ戻されそうになったところへ現れたのがグレンだった。
 当時のグレンは同世代の少年と比べてかなり小柄な方だったろう。身長はローラより低かったし、手足もひょろりと筋張っていて頼りなかった。ダグラスに殴り飛ばされた時は、死んでしまったのではないかと血の気が引いたものだ。
 だがグレンは見かけに反して丈夫だった。彼はダグラスとその部下をまんまと撒いてローラを逃がしてくれたのだ。
(じゃあ僕がラダトームを案内してあげる)
 印象的な青い瞳を細めて少年は言った。
 町を散策する中で、強い剣士になりたいと彼は夢を語った。その時の笑顔に惹かれた瞬間から、本当の意味での人生が始まった気がする。
「……毎日あの日のことを思い出すの」
 城の窓から空を見上げて、ローラはぽつんと呟いた。よく晴れた日の空はグレンの瞳と同じ色をしている。
「あなたがわたしを王女としてではなく、ローラとして扱ってくれたのはあれが最初で最後ね。牢獄から助けてくれた時から、あなたはわたしを姫としか呼んでくれないもの」
 助けてくれた剣士がグレンだと気付いた時は涙が出るほど嬉しかった。彼との間に新しい何かが始まるのだと胸をときめかせた日が、今はひどく遠い。
 少し大人になった彼は、以前のように無邪気に振舞うことを良しとしなかった。彼は家臣としての距離を慎重に保ち、ローラを名で呼ぶことも、手を引いて歩くこともしなかった。王女として常に肯定されてきたローラには、それなりに辛酸も舐めてきたグレンの戸惑いを、理解出来るようでなかなか理解出来なかった。
「でもね、たくさん考えて少し分かったような気がするの。わたしとの婚約は、あなたを窮屈な鳥籠に閉じ込めるのと一緒なんだわ。旧い王宮の慣習や価値観に縛られて、あなたはそのうち羽ばたき方も忘れてしまう」
 空を見上げていたローラ視線が、つと思い出深いラダトームの町に落ちる。
 グレンに手を引かれ、ローラは生まれて初めて息が上がるまで走った。先導する彼が振り返って微笑む度、じわりと心が温かくなったことを思い出す。あの日世界はどんなに美しく、そして優しくローラを包み込んだことだろう。
「わたしはもう少しで、あなたからあの自由な世界を取り上げてしまうところだったのね。……でも大丈夫、もうあなたを縛りつけはしないから。もしもあなたがこの城を去るというのなら、ちゃんと笑顔でお別れします」
 こつんとガラスに額を押し当てて囁く。納得して出した結論のはずなのに、いざ言葉にすると身が千々に引き裂かれそうに辛かった。
 あたうなら彼についていきたいと思う。死が訪れるその日まで、二人で歩んでいくことが出来ればどんなに幸せだろう。
 だがそれは途方もない……それこそ虹に乗せても叶わぬだろう夢に過ぎない。ローラはラダトームの王位継承者、たった一人の世継ぎの姫なのだ。父王がそんな無茶を許すはずがない。
「でもその時は、一言でいいの。わたしに言葉を残して」
 そうすればその言葉を一つの区切りとして、これからの人生を強く生きていくことが出来る。
「本当の気持ちを聞かせて欲しいの」
 伏せた睫毛に太陽の雫が落ちて、涙のようにきらきらと光った。


 ラダトームに一歩踏み入った途端、雨雲の杖から得体の知れぬ力が流れ込んできた。それは引き裂かれた半身を求める杖の、歓喜とも苦悶ともつかぬ激情の波動だ。早く早くと身悶えする雨雲の杖に導かれるまま歩を進め、グレンはやがて瀟洒な屋敷の前に辿り着いた。
 グレンは躊躇することなく門を潜り扉を叩いた。召使いに案内された応接室で、屋敷の主が現れるのを今か今かと待ち続ける。
 腰かけたソファは綿帽子のように柔らかく、まともに座るとずぶずぶと尻が沈んで落ち着かない。端にちょこんと座ってほっと息を吐く辺り、彼は根っからの庶民だった。
 やがて重厚な趣のあるマホガニーの扉が開いた。グレンは立ち上がり、両の踵をしっかりと揃えて一礼した。
「ご無沙汰しております、ダグラス隊長」
「……二ヶ月ぶりだな」
 ダグラスはグレンに向かい合う椅子に腰を下ろした。ダグラスに促され、グレンも再びソファに腰かける。
「一体何処へ行っていた? お前がふらりと消えてしまって城や町は大騒ぎだ。ローラ様は見るもお気の毒なほど元気をなくされて……」
「申し訳ありません」
 ローラの名を聞いた途端、やるせない気持ちが胸に溢れてしゅんと視線が落ちてしまう。そんなグレンに只ならぬものを感じたか、ダグラスは軽く咳払いをして話題を変えた。
「入隊式が流れてしまった。日程を組み直さねば……」
「僕にはそれよりもやらなくてはならないことがあるんです」
 グレンは強い口調でダグラスの言葉を遮った。
「……隊長に聞いていただきたいことがあります」
 そう前置きしてから、グレンはこれまでの経緯を包み隠さず説明した。ロトの石碑のこと、森の魔女のこと、三種の神器のこと、勇者の血のこと。遠い日の伝説の欠片が言葉となってグレンの唇から零れていく。
 滅多に感情を表すことのないダグラスも、さすがに今日ばかりは驚きを隠せぬようだった。
「……私の祖先はロトと共に天つ国からやってきた戦士だと聞いている。大魔王を倒した後、ロトから太陽の石を預かってラダトームに来たらしい」
 ダグラスは俄かに立ち上がって部屋から出て行った。ややあって戻ってきた彼の手には紫色の小さな包みが抱えられている。
「これが太陽の石だ」
 ダグラスが包みを解くと、溢れ出した金色の光が床にまで滴り落ちた。
 太陽の石は大きさも形も鶏卵に似ていた。淡いオレンジ色をした半透明の石の中央に、太陽を思わせる炎が閉じ込められてゆらゆらと揺れている。艶やかな表面は温もりを帯び、雨雲の杖に良く似た魔力を放っていた。
「ロトの子孫が現れるまで太陽の石を守るのが一族の使命。我々はそのために、今日まで剣の技を磨き続けてきた」
 ダグラスは真正面からまじまじとグレンを見つめ、感慨を込めて唸った。
「そうして今日、ロトの血を引く人間がやってきた」
「この太陽の石、お譲り頂けますか?」
「勇者の子孫が現れたならその心と力を見極めよ。……これは太陽の石と共に伝えられる言葉だ」
 ダグラスは神託でも告げるような口調で重々しく言った。
「長い付き合いでお前の人となりは分かっているつもりだ。お前が竜王を倒しに行くというというのなら、その言葉に嘘偽りはあるまい」
 アイスブルーの瞳が瞬きもせずにグレンを見つめる。針の如き視線が、グレン本人でさえ覗けない心の深淵を抉るようだ。
「だが強さはどうだ? お前はこの旅でどれほど成長した? お前が太陽の石を譲るのに値する勇者かどうか、私が自ら確かめる必要がある」
 ダグラスはソファから立ち上がり、グレンを見下ろして言った。
「表へ出ろ」