ここ数日の陽気で綻び始めた薔薇に囲まれて、ローラは空を見上げていた。最近彼女は暇さえあれば中庭に来て、ぼんやりと物思いに耽るのが日課になっていた。 人払いをしているはずの中庭に足音が滑り込んで来た。ローラは眉根を寄せ、苛立ちを帯びた硬質な声を溜息と共に放つ。 「少しの間、一人にして欲しいとお願いしたはず……」 振り返ったその瞬間、ローラからつるりと怒りが滑り落ちる。一拍置いて面を彩るのは至福の微笑みだ。 「グレン……」 「お久しぶりです」 腕を差し伸べるより早く、グレンは何時ものようにその場へ膝をついてしまう。行き場のなくした掌を、ローラは力なく胸の前で組み合わせた。 「旅に出ていたそうね。お怪我はありませんか?」 「はい」 グレンの力強い返事に、ローラはほっと肩の力を抜いた。 「良かった」 「姫」 グレンが真っ直ぐにローラを見上げてきた。おっとりと優しげだった少年の顔は、少し見ないうちに頑なな決意を秘めた戦士のそれに変貌している。思いつめた緊張感がぴりぴりと伝わってくるようで、ローラは無意識に背筋を伸ばした。 「僕は竜王を倒しに行きます」 それは、何時か聞かされることを覚悟していた言葉だった。 「二人の賢者から太陽の石と雨雲の杖を授かってきました。これから三人目の賢者を探して虹を手に入れ、ロトがそうしたように魔の島に渡ります」 だからローラは今更驚きも取り乱しもしなかった。妙に冷めた頭の片隅で、ああ、やっぱりと呟いただけだ。 「……わたしにも戦う力があれば良かったのにと最近よく思うの。そうしたら、何かあなたのお手伝いが出来たかもしれないもの」 これまでの人生で何を成してきたのだろうとローラは歯噛みする。歌や踊りに費やした時間があれば、より有益なことを幾らでも学べただろう。ただ漠然と人生を過ごしてきた自分に苦い感情が滲んだ。 「あなたが戻って来る日まで、わたしはせめてあなたの無事を祈ります、だから……」 「それはいけません」 「え……?」 ローラは組み合わせたままの指にぎゅっと力を込めた。無力なこの身には、祈りを捧げることも許されぬというのか。 「……どうして?」 「何時戻って来られるか……いいえ、生きて帰って来られるかどうか分かりません。途中で野垂れ死んでも死んだとお知らせすることも出来ない。僕の生死に姫のお心を煩わせたくないんです」 「煩わせるだなんて、そんな」 あまりに突き放した言い方にローラは悲しくなった。 仮に訃報が齎され、絶望に心が千々に引き裂かれることになったとしても、ローラは決してこの恋を後悔しない。血の最後の一滴まで人を愛したことを何故悔いる必要があるのか。 「わたしはあなたが無事でさえいてくれれば、それで……」 絶望に声が掠れた。彼の本意が知りたい一心で、ローラは不安に震えながらグレンの表情を探る。 だが分厚い家臣の仮面は、決して心の奥を覗かせない。グレンは何時もの生真面目な口調で、誠意に溢れた、そしてローラにとって何よりも残酷な言葉をはっきりと口にした。 「僕は姫に幸せになっていただきたいんです」 「……」 ローラは声にならない声で呻いた。目の前の少年は、結局何も分かっていないのだ。 全てが真っ白くなった後、強烈な感情が腹の底から突き上げた。鬩ぎ合う怒りと悲しみが、ローラの中で融合して激しい爆発を引き起こす。 「あなたは何時もそう。一人で考えて一人で結論を出して、それを良しとしてしまう」 不自然に抑揚のないその声を、ローラは他人のもののように聞いていた。 「わたしの幸せはわたしが決めることよ。わたしはあなたが好きなの。あなたを想うことが出来ればいいの。それがわたしの幸せなの。どうしてそれを分かってくれないの?」 優しい毒でじわじわ殺されるような扱いにローラは耐えられなかった。幸せを願うと突き放すくらいなら、いっそ手ひどい言葉で息の根を止めて欲しい。彼の優しさは凶器だ。この上ない苦痛を伴ってローラの心を切り刻む。 「あなたにとってわたしは何? 主君の娘? 二年前からの知り合い? 洞窟から助けた王女? ねぇグレン、はっきりと答えて。あなたの本当の気持ちを聞かせて……お願いだから」 「姫……?」 グレンは驚いた顔をしておずおずと手を伸ばしてくる。しばらくその手を見つめていても、彼は結局言葉をくれなかった。 「もう、いい」 ひび割れそうに熱い目から大粒の涙が零れ落ちた。泣き顔など見られたくないのにどうにも涙が止まらない。悲しいのと悔しいのと憎らしいのと恥ずかしいのとで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。 「大嫌い」 掠れ声でそう言い捨ててローラは逃げ出した。 噴水まで走ってきて息が上がり、ローラは縁石に寄りかかるようにして座り込んだ。 飛び散る水飛沫が花模様のドレスを濡らした。火照った体が冷えるにつれ、煮え滾っていた頭も徐々に冷静さを取り戻していく。次第に耐え難い自己嫌悪が彼女を蝕み始めた。 「あんなこと言うつもりじゃなかったの」 波紋の中にグレンの面影が浮かんだ。心ない言葉をぶつけた時の悲しげな顔を思えば、胸をナイフで抉られるような痛みが走った。 「わたしだけが空回りしているみたいで苦しかったの」 だがあれではただの八つ当たり、幼子が地団太を踏んでむずかるのと一緒だ。 ローラはおもむろに顔を上げ、涙でべとべとになった顔を掌で拭う。頬に張りついた髪を掻き上げたその時、視界に百日紅が飛び込んできた。 一際大きな百日紅の木は、城に面した枝が無残に折れていた。 「……あ……」 影の騎士に攫われそうになった時、グレンは屋根の上まで追い縋ってくれた。彼が身を挺してくれたお陰で、ローラは傷らしい傷も負わずに済んだ。振り返ってみればローラに危機が及んだ時には、何時だって何処にだって彼はがむしゃらに助けに来てくれたではないか。 「……グレン」 ローラは声にならない声を上げて立ち上がった。重たいドレスの裾を持ち上げて、弾かれるように走り出す。 薔薇の園にグレンの姿は既になかった。泣きたくなるのを堪えてグレンを追ったローラは、城から飛び出そうとしたところで門番に行く手を遮られる。 「姫! 何処へ行かれるおつもりですか!」 「グレンは? グレンを見ませんでしたか?」 ローラのただならぬ様子に、門番は怪訝そうに眉を顰めた。 「グレンなら……とと、グレン様なら先ほど城を出られましたが……あ、姫!」 駆け出そうとするも腕を兵士に掴まれる。身を捩って振り解こうとしたが、屈強な男の腕力に敵うはずもない。 「放して……グレンのところに行かせてください! 謝らないと……」 「とんでもない……また魔物にかどわかされたらどうなさるおつもりですか!」 「……」 ローラには竜が宿っているのだ。再び竜王に利用されるようなことになっては、今以上にアレフガルドの大地が病む。国と民のことを思えば軽率な行動は慎まねばならない。 (グレンは命がけでわたしを何度も助けてくれたのに) 言葉を欲するあまり、彼の心をめちゃくちゃに踏みにじってしまった。その仕草に、表情に、命懸けの行動に溢れていたグレンの心を、今更強く噛み締める己の愚かさを呪う。 (わたしはグレンを傷つけただけ) あまりの情けなさに涙も出ない。足から力が抜けて、ローラはへなへなとその場に座り込んだ。 |