グレンが引き摺り込まれたのは、メルキドの最も奥まったところにある神殿だった。 黒大理石に囲まれたその部屋は、窓も照明もないのに皓々と明るい。鏡のような壁や天井が重ねて風景を映すため、実際の広さがまるで分からない奇妙な空間だった。 部屋の中央には巨大な水盤が置かれている。溢れんばかりに湛えられた水はただの水ではないようで、時折ひとりでに動いては小さな渦を描き、しばしざわめいた後また緩やかに鎮まるのだ。 その不思議な水盤を挟む形で、グレンの前には魔術師協会の一員だという老人が座っていた。 「よくぞメルキドにお越しくださいました……ロトの勇者」 「頭を上げてください」 祖父のような年の男に低頭され、グレンは慌てて腰を浮かした。 「あなた様のお姿は、大始様が仰っていたロトそのものでございます。我々はロトの末裔が参られる日を虹の架かる日と名づけ、竜王が現れたあの日以来、一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました」 「大始様……?」 聞き慣れない言葉の意味を、グレンはオウム返しに問うた。 「大始様は魔術師協会の創立者。嘗てロトと共に大魔王を討った魔法使いでございます」 ではその魔法使いこそが、ロトから三種の神器を預かった最後の一人なのだ。グレンは俄然緊張して背筋をぴんと伸ばした。 「虹の雫は大始様ゆかりの方がお持ちなのでしょうか。僕は三つ目の神器を譲って頂きたくてメルキドにやってきたんです」 グレンは荷物から太陽の石と雨雲の杖を取り出した。黒い床の上で、二つの神器が金と銀の光芒を放つ。 「これは見事な……」 造形の美しさと魔力の波動に老人が唸った時、扉がかちりと開いた。さらさらと衣擦れの音を立てながら、小さな人影が部屋に入ってくる。 「雨と太陽が合わさる時、虹の橋が出来る……この言葉通り、雨雲の杖と太陽の石によって虹の雫という神器が誕生する」 鈴を転がすような幼い声が古き言葉を紡いだ。 「だがこの伝承は、単に三種の神器のことのみを謳っているのではない。太陽の血筋と雨の血筋、勇者らによって生み出される奇跡のことをも示しておる。言うなればこの短い言葉の中に、ロト伝説の全てが内包されているとも言えるのじゃ」 やたら偉そうな口調でそう語るのは、まだ年端もいかない少女だった。 十をようやく越えた頃だろうか。レースに縁取られたベルベットのドレスを纏い、燃えるような赤い髪に真っ黒いリボンを結わえている。眦の吊り上った緑の瞳、つんと澄ました鼻、口角の上がった唇、わがままな子猫を思わせるような少女だった。 「エマ様」 頭を垂れる老魔術師に頷いた後、エマと言う名の少女は改めてグレンを見た。 「ロトの勇者よ。我らはお主が来るのを待っておった。太陽の石、雨雲の杖、そしてロトの防具。お主がロトの子孫であることに疑いの余地はない」 「は、はあ」 いきなり登場したこの少女が何者なのか、グレンには皆目見当もつかない。ぽかんと口を開けるグレンの間抜け面に気が付いて、老魔術師が低い声で囁いた。 「この方はメルキドの最高魔術師であられるエマ様です。大始様直系の魔法使いであり、虹の雫の継承者でございます」 「えっ?」 グレンの驚く様に、少女は愉快そうに喉を鳴らした。 「最高魔術師が年端も行かぬ幼女とは意外であったか。わしは早くに両親を亡くしてのう、七つの時に世襲したのじゃ。……ああ、そのように不安な顔をするでない。人を見かけで判断してはならぬぞ」 「あ、いえ、不安なんて」 「さて、グレン」 ぶんぶか首を振るグレンに向かって、エマは挑戦的に両の眉を聳やかせた。 「お主も二つの神器を手に入れたのなら、ロトが仲間達に託した言葉も知っておろうな?」 「心と力を見極めよ、ですね」 湧き出す使命感に気持ちが引き締まる。グレンは姿勢を正して力強く頷いた。 「承知しています。なんなりとおっしゃってください」 メルキドの南東に広大な毒の沼地が広がっている。 そこは元々マイラの大森林のように、精霊があまた集う喜びの地だったと言われている。精霊の歌声に満ちた湖が変貌を遂げたのは今から四年前、一匹の竜がメルキドを襲った日のことだ。 竜はメルキドの町を破壊し、立ち向かう人を次々飲み込んだ。竜に食われた犠牲者の中には、当時魔術師協会の最高魔術師を勤めていたエマの父親も含まれていた。 竜と追撃部隊は湖付近で再戦となり、激闘の末三発のメラミが竜を貫いた。竜の亡骸は幾つもの遺体を体内に留めたまま、水柱を立てて湖底深くに沈んでいく。ややあって湖面に竜の体液が広がると、美しかった湖は瞬く間に毒の沼地へと変化したのだ。 「父は祭事の最中、一族の宝ごと竜に食われた。宝とはロトの印……勇者ロトが精霊神ルビスより賜った聖なる守りじゃ」 そこでエマは苦々しく顔を顰めた。 「……ロトの印がなければ虹の雫が作れぬ」 「作る? ……どういうことですか?」 「我らの一族に伝えられているのは虹の雫という形あるものではない。そなたが持ってきたこの太陽の石と雨雲の杖……」 エマは右手に太陽の石を、左手に雨雲の杖を持った。 「二つの神器から力を抽出して虹の雫を作る方法なのじゃ。その作成に必要な詠唱の字列がロトの印に刻まれている。至極分かりやすく言えば、ロトの印は虹の雫のレシピなのじゃ」 「レシピ、ですか」 「何事にもあんちょこは必要ぞ」 エマはふんと胸を張った。幼い顔に芝居がかった威厳を浮かべてグレンを見る。 「……と、まあそういう訳で、お主には沼地に沈んだロトの印を回収してもらいたいのじゃ」 「承知しました」 迷いなく了承したものの、実際のところ問題は山積みだ。 毒の沼地は当然ながら人体に有害で、その水は肉体を蝕み、その瘴気は肺を腐らせる。ローラ救出時に渡った沼地は水深が浅かったのでどうにかなったが、湖の深さと毒の濃度によっては致命的なダメージを負いかねない。 尤も沼地以前に頭の痛い問題がもう一つある。メルキドの周囲をうろつくゴーレムの存在だ。 「ついでと言っては何だが、お主にはあのゴーレムもどうにかして欲しい」 害虫退治でも依頼するような調子でエマは言った。 「お主も魔術師の端くれなら知っておろうが、あれはロトの時代、このメルキドに住んでいた魔術師達が研究に研究を重ねて生み出した対魔物魔術具じゃ」 「はい。とっくの昔に役目を終えて、ただの石人形になっていると聞いていました」 「うむ」 エマは苦虫を口中いっぱいに含んだような顔をした。 「封じられた魔力は消失し、ゴーレムはただの人形となった。以来、あれはこの町のシンボルとして平和と発展を見守り続けてきたのじゃ」 そのゴーレムを再び守護者として復活させるきっかけとなったのは、ドムドーラの滅亡だった。 ドムドーラ壊滅の報せを受け、魔術師協会はすぐさま町の警備を大幅に強化したものの、人々の心に巣食った恐怖を払拭することは出来なかった。誰からともなくゴーレム復活を望む声が上がり、それは波紋のように広がってメルキドの町に満ちていく。漣が巨大な津波となるのに、さほど時間は必要なかった。 魔術師達は現存する資料を全て引っ繰り返し、寝る間も惜しんでゴーレムの研究に明け暮れた。古の知識を会得し、技法を習得し、ゴーレムの仕組みを把握するまで七年の歳月を要する。血の滲むような努力の末、冷たい石人形に新しい命が吹き込まれたのは今から三年前のことだ。 「だが我らの技術は完璧でなかった。何がどうまずかったのかは未だ不明じゃが、心優しき守護者であったはずのゴーレムは、見境なしに人を襲う魔物として復活してしまったのじゃ!」 エマは憤慨して拳を振り回す。彼女の怒りの矛先はゴーレムであり、魔術師協会であり、頂点に立つ自分自身だ。 「動くものなら手当たり次第襲いかかるようになったゴーレムによって、我らはマヌケにも町に閉じ込められてしまったのじゃ。このままではメルキドは滅んでしまう。深刻な死活問題じゃ」 「ゴーレムの弱点はやはり精霊石ですか?」 「そうじゃ。ゴーレムの精霊石は左胸の奥、人でいうと心臓の部分にある」 「心臓……」 つまり肉体を砕いて精霊石を抉り出せねばならぬということだ。 岩石の強度からいって剣や斧では歯が立つまい。打撃がだめなら魔術ということになるが、魔術のエキスパートである魔術師協会の面々がてこずっている現状を見る限り、それも確実な方法ではなさそうだ。 「つい先日古の爆裂呪文を復活させた。あれなら奴の肉体を砕くことが出来るかもしれん」 「爆裂……イオ系の術ですね」 「ただし完璧ではない。対象物に直接触れて魔力を注入せねばならぬ半端な復活じゃ」 エマは悔しげに唇を歪ませた。 「一瞬でいい、ゴーレムの動きを止めることが出来れば勝算はこちらにある。わしの魔力の全てを注ぎ込んでゴーレムを打ち砕いてくれようぞ」 「ゴーレムの動きを止める、か……」 眉間に皴を寄せてグレンは考え込んだ。一口に動きを止めるといっても、あの巨体にあの剛力である。 「も」 グレンの膝頭をモモがつんつんと突いた。 「うん? 何、モモちゃん」 「ももも」 モモはグレンの荷物を指差した後、短い手足をばたばたとばたつかせた。 「ももも。ももも」 「妖精の笛……? あ」 精霊石は死んだ精霊の結晶体だ。精霊のエネルギーが物質化し、その後長い年月をかけて石のように固まると言われている。 森の精霊を安眠に導く笛の音なら、精霊石を源とするゴーレムを眠らせることが出来るかもしれない。 「そうかぁ……! 頭いいね、モモちゃん!」 「もーも」 得意げに胸を張るモモに頷き、グレンはエマを見た。何事かといぶかしげに眉を顰めるエマに向かって微笑む。 「ゴーレムを眠らせることが出来るかもしれません」 |