グレンは地面に大きくバウンドした。ゴーレムの一撃で骨が折れ、大地の一撃で内臓が破けた。 逆流してきた血液に瞬時に気道を塞がれる。ごぼごぼとうがいのような音を立てながら、グレンは全身を硬直させた。痛くて熱くて苦しくて寒い。涙がぼろぼろと流れ落ちる。 「グレン! しっかりせい! 回復魔術をかけるのじゃ……早く!」 力なく持ち上がったグレンの手は、途中で糸が切れたようにぱたりと落ちた。 「モモ、人を呼んでこい!」 「も!」 攻撃魔術を専門に扱うエマにグレンを癒す技はないのだ。エマの緊迫した声とモモの乱れた足音から、グレンは自分がどのような状況にあるのかを漠然と悟った。 詠唱を試みる唇からは、壊れた笛のような音が漏れるだけ。酸素を枯渇する肺がひくついてまともに声も出せない状態だ、魔術の行使など到底望めない。 (死ぬのかな……) そうこうしているうちに激痛が和らぎ始めた。死に瀕した肉体が感覚を手放しかけているのに気付き、グレンは絶望的な思いで身を捩る。手足を引き攣らせ、首を巡らせた拍子に、視界の隅に青い光が飛び込んできた。 (……あ……) やや距離を置いた場所に転がるのは、肌身離さず身につけていた首飾りだ。先の一撃で鎖が千切れ飛んだらしい。 ローラが思い出にとくれた大切な品が、血と砂埃に汚れた様がとても悲しかった。 「……くっ」 最後の力を振り絞って、グレンは必死に右手を首飾りに伸ばした。ごろりと横臥した弾みで喉奥から血塊が流れ出し、一瞬だけ気道が通じる。ようようのことで取り入れたわずかな空気を、グレンは全てベホイミの詠唱に注ぎ込んだ。 掌に魔力が宿り、それを礎として生まれた力が、血流に乗って体の隅々にまで行き渡る。痛みが消え、力が蘇り、呼吸が楽になった。視界がぱっと明るくなり、風景が色を取り戻した。 「おお! グレン!」 傍らに膝をついていたエマが感嘆の声を上げた。 「よくぞ死の淵から蘇った!」 グレンは二度三度とベホイミを重ね、それからゆっくりと体を起こした。周囲は血で真っ赤に染まっていたが、体にこれと言った異常はないようだ。急激な治癒にもどうにか耐えてくれたらしい。 「……ふむ」 エマはグレンの顔色を確認してほっと安堵の息をついた。 「わしのせいで大変な目に遭わせてしまったの。済まなかった」 「いえ。お怪我はありませんか?」 「お主が庇ってくれたお陰でこの通り元気じゃ」 頷いた後、エマは不思議そうにグレンの掌を眺めた。すっと手を伸ばして首飾りの石に触れる。 「ほう……これはこれは」 「どうかなさいましたか?」 「心の籠もった良い石じゃ」 「……こころ?」 エマは首飾りをためつ眇めつしながら頷いた。 「この石には強い想いが籠められておる。知っているかグレン、人の心は時として神を上回る守護の力を放つことを。人が人を想うほど強い力はないのじゃ」 エマは緑色の瞳をぐるりと動かした。 「これを贈ったのはお主のこれじゃな?」 一体何処で覚えてきたのか、少女がきゅっと小指を立てる。からかうような眼差しに赤面しながら、グレンは首飾りに視線を落とした。 「……僕は以前、ある人から傲慢だと言われたことがあります。その意味が今、初めて分かったような気がします」 「何?」 まるで脈絡のない言葉に、エマがきょとんと瞬きをした。 「僕が姫を助けなくては、僕が姫を守らなくては、ずっとそう思ってきました。でも僕だって姫にずっと支えられてきたんです」 あの日ローラに出会わなければ、グレンは周囲に諭されるまま剣士への夢を捨てていただろう。養父の跡を継ぐべく僧侶になり、懺悔に耳を傾ける日々を送っていたかもしれない。それも意義ある人生に変わりはないが、グレンの望んだ形ではなかった。 ローラがいたから、今のグレンが存在するのだ。 「支えられているのにも気付かないで、一人で肩肘を張っていた気がします。姫を守ろうと思うあまり、結局一番ひどい方法で傷つけてしまいました。僕が死んだら姫がどんなに悲しまれるだろうと思うと怖かったんです」 「悲しませたくないのなら、生きて帰ればよいではないか」 「はい」 その単純な事実にようやく気付くことが出来た。これまでのグレンを支えてくれたローラは、きっとこれからのグレンを守ってくれるだろう。彼女の言葉、彼女の微笑み、彼女の心……この世の何よりも強い守護が共にある。負けるはずがない。 「必ず生きて帰ってきます。この戦いを終えた後、やりたいことが見えてきました」 「……やれやれ」 エマは高飛車に眉を跳ね上げた。 「大人というのは頭が回る分、簡単な事柄を難しく考え過ぎる。実に愚かで滑稽じゃ。わしは当分子供のままで良いぞ」 グレンは苦笑して、ぎゅっと宝石を握り締めた。 濁った汚水が見渡す限り延々と続く。腐った大地がその周囲を黒く縁取る。浄化の望めぬ悪しき力に侵されて、そこは草一本息づかぬ死の湖となっていた。 「ありがたき精霊達の泉が、なんと哀れな姿なのじゃ!」 憤慨するエマの横に立ち、グレンはごくんと喉を鳴らした。 毒の濃度は凄まじく、ゲル状に淀んだ水面に重たい気泡がぼこぼこと吹き出している。泡が弾けるたびに瘴気が立ち上り、大気が紫色に染まる様が肉眼でも確認出来るのだ。 「エマ様とモモちゃんは離れていてください。毒が強くて傍にいるのは危険です」 「お主が毒の沼地に踏み込もうというのに、わし一人が安全地帯にいるわけにはいかぬ」 「ももも」 エマは杖でこつんとグレンの額を小突いた。 「グレンよ、だめだと思ったら動けなくなる前に引き返してくるがよい。無謀は勇気とは言わぬ。時には引くことも必要なのじゃ」 「ですがロトの紋章がなくては虹の雫が作れません」 「うむ……」 エマは難しい顔をして考え込んだ後、ちゅっと唇を鳴らした。 「その時はその時じゃ。天才魔法使いであるこのわしが虹の雫の製法を独自に編み出してくれようぞ。ただし三年ほど待て」 これはエマなりの気遣いであり応援であるのだ。グレンはぺこりと頭を下げ、毒の沼地に向かって歩き出した。 沼の手前まで来てさすがに足が止まる。グレンは首飾りを握って加護を願うと、迷いを振り切るように大胆に一歩踏み込んだ。 その瞬間、ロトの鎧が淡い白光を放った。 「あ……」 踏み込んだ右足がすうっと浮いた。恐る恐る乗せた左足も同様、水中から押し出されて水面に上がる。沼の上に立ったグレンは毒の影響を全く受けていない。 「おおお!」 興奮したエマが杖を振り回した。 「さすが伝説の鎧! 神の防具! 毒から主を守るとは天晴れじゃ!」 古の奇跡が、亡き祖先が、そして様々な想いが、一丸となってグレンを守ってくれているのだ。 歩き出すと、土とも石とも違う感触が靴底から伝わってきた。わずかに沈むような感覚の後、何かしっかりとした力が足元を支えてくれる。もし雲の上を歩くならこんな感じだろうと思った。 「……こっちだ」 血に秘められし不死鳥がロトの印を感じた。何処かしら懐かしい力の波動が、強く弱くグレンの元に押し寄せてくる。神経を研ぎ澄ませつつ歩くことしばし、何も見通せないはずの湖底にきらりと輝くものを発見した。 グレンは跪き、沼地にずぶりと手を差し入れた。絡みつくような水の抵抗の中、指先が何か固いものを探り当てる。 引き上げた五本の指は、片手に収まるほどの小さな円盤をしっかりと握り締めていた。 |