虹の奇跡<5>


 ぷくぷくと泡を立てて二つの神器が水に沈む。金と銀の光が揺らぎ、絡み合い、水面を一際明るく輝かせた。
「グレン、その首飾りを力の宿り場としたいがよいか?」
 水盤の前に立つエマがそう尋ねてくる。白い法衣と花模様の頭環を纏った少女は、何時もより少し大人びて見えた。
「これをですか?」
 グレンは少し戸惑った。命の次に大事なローラからの贈り物だ。
「雨と太陽が合わさる時虹の橋が出来る……これは勇者らによって生み出される奇跡を示していると前に話したな」
「はい」
「太陽の血筋と雨の血筋、彼らの絆が虹を架けるのじゃ。それは恋であったり、家族愛であったり、友情であったり……様々な形の強い結びつきなのだろうとわしは解釈しておる」
 エマの視線がグレンの首飾りに注がれた。
「その石には雨の血筋の強い想いが込められている。そこに太陽の血筋たるお主の心を重ねよ。それがアレフガルドの新しい虹を生み出すはずじゃ」
「……」
 ローラと出会ったあの日から、肌身離さず身につけていた首飾りだ。これまでグレンが抱えてきた想いを、言葉にならなかった気持ちを、この石は全て知っている。きっとグレンの心を正しく受け止めてくれるだろう。
「……お願いします」
 グレンは首飾りを握り締め、温もりを移してからエマに差し出した。エマは石をしげしげと観察した後両眉を持ち上げる。
「よりいい石になった」
 するり、幼い掌から首飾りが滑り落ちる。水は青い宝石を抵抗なく受け入れ、小さな波紋を描いた後しんと静かになった。
「準備は整った」
 エマは背後に控える十二人の魔術師に頷き、ロトの印を高々と掲げた。
 ロトの印はほぼ完璧な円形で、透けるような蜂蜜色から赤みがかった黄金色まで、光の加減によって微妙に色を変える。透かし彫りにされた不死鳥ラーミアの胴には、親指の爪ほどの紅玉が輝いていた。
 エマが音楽めいた言葉を紡ぎ始めた。彼女に追い縋るように、一瞬遅れて十二人の魔術師が同じ詠唱を放つ。
 グレンには到底真似出来ない、複雑な発音ととてつもない音域だった。三十二からなる精霊語が複雑に重なり合い、聖歌の如く厳かに室内に満ちる。詠唱は高く低くこだまし、グレンの周囲を波のようにうねった。
 やがて水盤が七色の輝きを放った。光が放射状に広がり、部屋をいっぱいに満たした瞬間、ぴたりと詠唱が止まる。
「……」
 緊張に瞬きも忘れるグレンの前で、エマはゆっくりと水に手を差し入れた。肘までを水に浸けたところで、顔を上げてにやりと笑う。
「虹の雫じゃ」
 エマの拳が、水を滴らせながらゆっくりと持ち上がった。
 石の中心から様々な色が浮かんでは消えていく。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……七色の光が層を成す様は恰も空に架かった虹のよう。何時間見ていても飽きることはないだろう美しい宝石だ。
「太陽の石と雨雲の杖。そして太陽の血筋と雨の血筋」
 エマは得意げに頤を持ち上げた。
「二つの力が生んだ奇跡の結晶じゃ。グレン……ロトの勇者よ。おぬしに今、最後の神器を授けようぞ」
「はい」
 グレンの手に三つ目の神器が力強く握られた。


 竜王は何時ものように王座に腰かけ、何時ものように闇に目を凝らす。この城に来る前から、彼が過ごしてきたのは光一筋差し込まぬ空間だった。
「世界は広くて美しい。一歩この場所から抜け出せば、楽しいことも愉快なこともたくさんある」
 育ての親である死の神バズズは、顔合わせるごとにそう竜王に囁いた。幼い竜王はそのたびに好奇心を刺激され、獣毛に覆われた邪神の足にしがみついたものだった。
「私も外に出てみたい。世界とやらを見てみたい」
「無理だ。今のお前はまだ幼過ぎる」
「……アトラスやベリアルも同じことを言う」
 何くれと様子を見に来る他の二神も、何時もそう言って首を振るのだ。下唇を噛んで俯くと、バズズの巨大な爪がそっと頭を撫ぜてきた。
「焦らずとも、何れお前はアレフガルドに赴くことになる。お前は正統なる大地の神、世界を支配する権利があるのだから」
「……大地の神?」
「お前は嘗て世界を治めていた竜神の末裔。巨大な城に住み、あまたの人々に慕われた竜の女王の子だ」
 竜王の出自を告げる優しい声は、そこで凍りつくような冷たさを帯びる。
「竜の女王を殺したのは勇者ロト。ロトはお前の仇なのだよ」
 催眠術にも似た抑揚が竜王の耳朶を打つ。日々昔語りが繰り返されることで、竜王の心は少しずつ邪神の望む色に染まっていくのだ。
「ロトは竜の女王から光の玉を奪い、それを用いて大魔王ゾーマを討った。神殺しという大罪を犯しながら、ロトは今でもアレフガルドの英雄として崇められているのだ」
 竜王は顔を顰めた。複雑な事情は把握しきれなかったが、伝説の勇者とやらが自分から全てを奪い去ったことだけは理解出来た。
「光の玉を取り戻したい」
 竜王は小さな拳を握って訴えた。
「それは母上のもの……私のものなのだろう? 私はどうすればいいのだろう」
「強くおなり。お前の肉体、魂、存在そのものをシドー様に捧げるのだ。そうすればお前は破壊神の恩恵を受けることが出来る」
 バズズは光彩のない目を細めた。
「その力でアレフガルドを支配するのだ、竜王。嘗てゾーマが住んでいた城をお前にあげよう」
「城……?」
「ラダトーム城から光の玉を奪い、それに内包された闇を礎に我ら三柱神を召還するのだ。後に破壊神シドー様が目覚められた暁には、お前は神として復活することが出来るだろう」
 そして時が流れ、ラダトームから光の玉を奪った竜王には、約束通り魔の島の城が与えられた。
 初めて訪れた時、そこは美しい城だった。あちこち崩れかけてはいたが、暖かい光が満ちて爽やかな風が吹いていた。そこここに花が咲き、たわわな果実が実っていた。
「……ここは大魔王ゾーマが住まう前、精霊神ルビスとその従者達が住んでいたのです」
 悪魔の騎士がそう竜王に囁いた。忌々しそうに辺りを見渡し、きりきりと鎧を軋ませる。
「未だ精霊神の力が根づいているようですな。三柱神様のお力を借りて全てを地中に封印致しましょう」
 三柱神から与えられた悪魔の騎士は、決して使い勝手のいい配下ではなかった。生粋の魔族である彼は竜王の命令を受けつけず、独断で次々と勝手な行動を起こしてしまうのだ。
 果たして邪神の封印は、城ばかりでなくアレフガルドの内海にまで影響を及ぼした。美しかった海は一瞬にして灰色に染まり、忌まわしいエネルギーを孕んで絶え間なく荒れ狂った。荒海は光を阻んで封印を強め、封印は力を増して更に海を濁らせる。この二つの相乗効果によって、城は完璧なる闇に満たされた。
 結局新しい城は、それまで竜王が閉じ込められていた場所と何も変わらなかった。暗くて寒くて冷たくて、動くものといえば醜悪な魔物ばかり。竜王は落胆すると同時に、運命と勇者ロトを益々強く呪うようになった。
「一刻も早く神とならなければ、私は何時まで経っても闇に縛られたままだ」
 木枯らしのような吐息を漏らした時、竜王の胸の奥がしくりと痛んだ。