竜の王<1>


 その姿を認めた時、ローラは夢を見ているのではないかと思った。
 久々に現れたグレンからは、少年のあどけなさは随分と薄らいでいた。褐色に日に焼けた肌、こめかみから顎にかけての堅い線、骨ばった手の甲。男子三日会わざれば刮目して見よの諺通り、すっかり逞しくなったグレンの姿がそこにある。
 何かを突き抜けた表情で、グレンは何時ものようにローラから数歩置いた地点で膝をついた。
「ご無沙汰していました。お変わりありませんか、姫」
 ローラはどきどきと轟く胸を押さえた。強張る唇を閉じ開き、閉じ開きしてようやく言葉を返す。
「お帰りなさい。……お怪我はありませんか?」
「はい」
 以前と同じやりとりが、涙が出るほど嬉しかった。
 グレンと言葉を交わすだけで、この上ない歓喜に心が踊る。こんなにも彼が好きなのだと、ローラは改めて恋の強さを思った。
「また会いにきてくれるなんて思っていなかった」
「何故ですか?」
「あなたにひどいことを言ってしまったもの。わたしはわたしの気持ちにばかり夢中で、あなたのことを少しも考えていなかったわ。この前は本当にごめんなさい」
 グレンは小さく首を振った。
「それは僕も同じですから」
「……え?」
 言葉の意味を問うより早く、グレンがすっと右手を差し出してきた。
 掌の中央に小さなティアドロップが輝いている。滲み出す色が波紋の如く広がり、次々と輝きを変えていく不思議な宝石だ。
「まあ……きれいな石ね」
 ローラは目を丸くしてその石に見入った。
「これが三つ目の神器、虹の雫です。太陽と雨が生み出した奇跡の結晶だと、メルキドの最高魔術師が仰ってました」
「触ってみてもいい?」
 グレンが頷くのを見て、ローラは聖なる神器に指を重ねる。すべすべした表面に触れたその時、指先に伝わる感触が記憶を呼び覚ました。
「この石は……」
「姫が僕に下さった首飾りです。僕が虹の雫を手に入れることが出来たのは姫のお陰です。雨の血筋である姫のお心なくしては、虹の雫は誕生しませんでした」
 首飾りは元々、父王ラルス十六世が母に贈ったものだ。古くから城に伝わっていた石をきれいに研磨し、首飾りに作り変えたものだと聞いている。
 母の形見を初対面の少年に渡す時、ローラは少しも躇いを感じなかった。父と母の絆を深めた石が、再びグレンとの縁を結んでくれるような気がしたのだ。
「わたしは今まで何度もあなたに助けてもらったのに、何のお返しも出来なかった。だからその首飾りがあなたのお役に立てたのなら、こんなに嬉しいことはないわ」
 囁くようにそう言って、ローラは長い睫毛を伏せた。たった一つの奇跡のために彼との出会いがあったというのなら、運命の不思議に心から感謝する。この想いが大切な人の未来を切り開いてくれるのだから。


「……姫」
 不意に、下から聞こえるはずのグレンの声が上から降ってきた。ローラは怪訝に思いながら目を開け、そして驚いた。
 跪いていたはずのグレンが立ち上がり、おずおずとローラの手を握り締めてくる。強張ったその表情から判断するに、全ての勇気を振り絞っての行為に違いない。思いもよらぬグレンの行動にローラもまた体を固くした。
 かちこちに緊張したグレンには、力の加減まで気を回す余裕がないようだ。握り締められた手が少し痛い。
「あの日町でお会いした時から、僕は姫がずっと好きでした」
 唐突な告白にローラの心臓が痛みを伴って跳ねた。もしもこんな瞬間が訪れたならああ言おう、こう返そうと考えていたことが頭から全て吹き飛ぶ。
「あの日、姫は言ってくださいました。僕が勇者ロトみたいな剣士になれるって。絶対に大丈夫だって。それ以来、僕の心にはずっとその言葉がありました。姫が肯定してくださったから今日の僕があるんです」
 グレンはごくんと喉を鳴らし、掠れた声で言った。
「どうかもう一度守りを与えて下さい。それが何にも負けない力になります」
「……」
 ローラは握られていない方の手でグレンの頬に触れた。砂漠を渡ってきたせいか、肌は乾燥して薄皮がめくれかけている。
「それでは、膝をついてくれる?」
 グレンはいぶかしそうにしながらも、すぐにその場で拝跪の姿勢を取った。青い瞳が掬い上げるようにローラを見上げる。
「魔女さんに教えてもらったの。昔、竜族の女性は心を決めた人に名前を捧げたのですって。だからわたしとわたしの竜は、あなたにローラの名前を捧げます」
 ローラは身を屈め、グレンの額の傷跡に唇を落とした。儀式のように厳粛な口づけだった。
「勝者の冠を頂いて、あなたはわたしのところに戻ってくる。あなたなら絶対に大丈夫」
「……はい」
 顔を真っ赤にさせながらも、グレンはほっとしたように微笑んだ。笑うとぐっと幼さを深めるその顔に、初めて会った日の無邪気な表情が重なる。
「竜王を倒して戻ってきたら、もう一つ、お願いしたいことがあります」
「それは何? 今教えては貰えないの?」
「今お伝えしたら気が抜けてしまうからだめです」
 相も変わらずクソ真面目な顔で、グレンはこくんと頷いた。
「その言葉をお伝えするためにも、僕は必ず帰ってきます」
「……分かりました」
 ローラは一歩退いて、ロトの血を引く少年を見つめた。
「いっていらっしゃい、アレフガルドの勇者様。ローラはあなたのお帰りをお待ちしています」