竜の王<3>


 床に倒れた竜王の亡骸を、グレンは息を弾ませながら見下ろした。
 罅裂した石畳にゆっくりと血が滲んでいく。色素に乏しい王宮の中、それは目にも眩しい紅を放った。
「これでやっと……」
 そう呟きかけた時、竜王の指がぴくんと跳ねた。
 グレンがはっと身を引く間にも、投げ出された手足が血溜まりの中でぴちゃぴちゃと弾む。まるで意思の感じられぬ、からくりめいた機械的な運動だ。
 ぐぐっと背中が盛り上がったかと思うと、ありえない方向に曲がった。手が縮み、足がひしゃげ、胴が捻じ曲がる。様々に変化しながら膨張していく肉体を、グレンは信じがたい思いで眺めていた。
 伸び上がる影が、グレンを闇よりも濃い色に染めた。
 巨大な爪が床を捉え、逞しい尾が床に伸びる。玉虫色の鱗がつやつやと輝き、二本の角が矛の如く閃く。ずらりと並んだ牙の合間から粘つく炎を滴らせながら、それは静かにグレンを瞰下した。
「竜……王」
 それは正しく、竜の王だ。
 威風堂々たる巨大な竜の前に立つと、自分がひどくちっぽけで弱々しい生き物に思えてくる。今更ながら、人の身で神に対峙する畏怖がグレンを凍てつかせた。
「我は竜王」
 その声は地鳴りを思わせた。
「大地の守護神にして……竜神の末裔」
 ごおっと吐き出された炎の塊が床を抉った。激突の衝撃と高熱で、床の一部がごっそりと陥没する。岩をも溶かす炎の息吹、まともに食らえばただでは済まない。
「ベギラマ!」
 グレンの放ったベギラマは呆気なく弾かれる。
 竜王は空を割るような声で笑った。圧倒的な力を誇示するが如く、尾や腕を振り回してあちこちの壁を打つ。降り注ぐ瓦礫がグレンを容赦なく打ち据えた。
 グレンは大きく跳躍し、体重を乗せた一撃を竜王の足に振り下ろす。しかし魔術で鍛えたはずの剣さえ、神の肉体を傷つけることは不可能だった。人の無力さを嘆くかのように、弾かれた刃が甲高い音を立てる。
 たじろいだ瞬間、鋭い爪がグレンの背中を抉った。受身も取れぬまま床に落ち、瓦礫の合間に深く減り込む。
「う……」
 ベホイミを唱えようともがいたその時、紅蓮の炎が吹き荒れた。
 ロトの守りがなければ灰も残らなかっただろう炎の嵐だった。辛うじて意識は繋ぎ留めたものの、痛覚すら失われた肉体は鉛のように重い。どしん、どしんと近づいてくる竜王の足音が遠く近くこだまする。
(死ねない)
 呻く声も音にならない。
(だって必ず帰るって……)
「うもーっ!」
 モモの怒声がやけに近くで聞こえた。グレンはびっくりして、強張る目蓋を無理やり抉じ開ける。
 一体何時の間にやってきたのか、怒り心頭のモモが瓦礫を拾って竜王に投げつけている。非力なモモではさしたる飛距離も望めず、石礫はみな緩い放物線を描いて竜王を打つ前に落ちた。
「逃げ……」
 呻いたその時、視界の隅でかっと光が閃いた。咄嗟にモモに覆い被さったグレンに二度目の炎が吹きつけた。


 グレンの掌が力なく持ち上がる。
「……」
 掠れ声で詠唱を唱えると、指先の合間にほんのりと命の力が宿った。命をようようのことで繋ぎ止めながら、グレンは二度三度とベホイミを重ねがけする。
 炭化した皮膚の下から新しい肌が現れる。止まりかけていた血液が勢いよく流れ出す。ようやく体が機能を取り戻して、グレンは大きく息をついた。
「も」
 モモの丸い瞳がグレンを見上げる。
「大丈夫だった?」
「もも」
 熱風に吹き飛ばされ、大きく陥没した穴に転がり落ちたようだ。グレンを探す竜王の足がどすんと傍らに落ちる。
「もっ」
 腕から飛び出したモモがぐいぐいとグレンの肩を揺する。何事かとのろのろ視線を巡らせたグレンは、モモの示した方向を見て息を飲んだ。
「……」
 それは、痛みも疲労も全て吹き飛ぶような衝撃だった。
 溶けた岩の合間から、輝く不死鳥の柄が顔を覗かせている。赤い宝玉を抱いて飛翔する神の鳥……鎧にも盾にも兜にも刻まれたロトの紋章だ。
「ロトの……剣」
 震える手を伸ばしかけて、グレンは剣の異変に気がついた。
 光沢のある刃に、地中から体を伸ばした生き物が絡みついている。緑色の鱗を纏い、四本の腕を携え、尾の先に蛇を携えた奇妙なそれは、グレンを認めると牙をむいて威嚇した。その容姿、その声、全てが絶対的な恐怖を喚起させる異形の存在だ。
「……お前が邪神の封印か」
 グレンは怯懦を無理やり飲み下し、剣の柄に触れた。
 たちまち噛みついてきた牙から、ひたひたと闇の毒素が浸透してくる。肌の内側から溶かされるような激痛に、どっと脂汗が滲み出た。
「……っ」
 グレンは両手でしっかりとグリップを握り締めた。ずっと前から……生まれる前から握り続けていたかのように、オルハリコンの柄がしっとりと掌に馴染む。血に眠るロトの記憶がその感触を覚えているのだ。
「返してもらう」
 ぐっと力を込めると、深々と剣が突き刺さった岩に細い亀裂が入った。次第に顕わになる刃が光を帯び、やがてグレンの鼓動と同じリズムで明滅を始めた。
「これは僕の剣だ!」
 裂帛の気合と共に一気に剣を引き抜く。封印は破裂音と共に弾け、黒い粒子と変じて大気に散った。


 解放されたロトの剣が、グレンに呼応して唸りを上げる。
 白刃の放つ波動が王宮いっぱいに満ちた。悪しき封印の名残が、光に食われて薄れていく。
 灰色に淀んでいた海が喘ぎ、唸り、吠えた。壁の向こうで荒れ狂う海は、みるみるうちに透明度を増していく。呪縛から解き放たれたアレフガルドの内海が、あるべき姿を取り戻そうと激しくのたうち始めたのだ。
「邪神の封を解いたか」
 立ちはだかる竜王が、鼻の穴から黒煙を立ち上らせた。ロトの剣を見つめる瞳にわずかばかりの羨望が感じられるのは、グレンの気のせいだろうか。
「さすが正統なる剣の持ち主と言ったところだな」
 かあっと開いた竜王の口蓋から、これまでにない大量の炎が溢れ出た。
「黒い炎?」
 盾が炎を寸でのところで受け止める。それは肉体を焼くほど熱く、魂を凍らせるほどに冷たい炎だった。
 赤い瞳を爛々と輝かせ、哄笑を轟かせる竜王の姿に、グレンは改めて憐憫を覚える。そこにいるのは神の末裔でも魔物の王でもなく、破壊に取りつかれた哀れな傀儡に過ぎなかった。
(救ってやるなんておこがましいことはいえないけど)
 死なせてあげてと懇願した魔女の、悲しげな瞳が一瞬脳裏を過ぎった。
(このまま邪神にしてしまうのは、あまりにも竜王がかわいそうだ)
 決意を新たにするものの、反撃の機会すら見い出せない現状にグレンは舌打ちを禁じ得ない。黒炎はグレンをぐるりと取り巻き、隙あれば噛みつこうと伸び縮みを繰り返している。守りを緩めた途端、圧倒的な破壊の力が襲いかかってくることだろう。
「……くそっ」
 唇を噛んだその時、一筋の光が王宮に差し込んだ。
 澄んだ海を通して、真夏の陽光が王宮に満ち溢れた。水面を写し取った光が、ゆらゆらと揺らめきながら戦場を明るく輝かせる。
 竜王が、ぐっと呻いて胸を押さえたのはその時だ。
「……?」
 唐突に炎が止んだのを不審に思い、グレンは構えていた盾を下ろした。
 竜王の鉤爪の合間から、花びらを思わせる光がひらひらと零れ落ちている。陽光よりもなお明るく、なお鮮烈な、慈しみに満ちた神秘的な輝きだ。
「光の玉……?」
「何故私の邪魔をする?」
 竜王は食い縛った歯の間から、怨嗟の呻きを漏らした。
「何故人の味方をするのだ!」
 絶望の咆哮と共に放たれた炎を、グレンは素早く横に跳んで避けた。
 竜王はグレン目がけて鉤爪を繰り出すが、その動きに先ほどまでの力はない。のろのろと床を抉った拳が、激しい痙攣を起こしてそのまま硬直した。
「母……上っ」
 胸を中心として広がった光が、竜王の巨体を包み込んだ。
 巨大な鱗が剥がれ、桃色の肉が覗いた。波打つ血管が梗塞し、頑強な骨が砕けた。闇に傾倒した肉体が光に蝕まれ、恰も蝋細工のように崩壊を始めたのだ。
 グレンは千載一遇の機会を逃さなかった。全力で駆け出し、堆い瓦礫を足がかりにして高々と舞い上がる。血に秘められた不死鳥の力が、一際高い声を上げたのが聞こえたような気がした。
「竜王!」
 光の中心に、グレンはロトの剣を突き立てた。
「これで終わりだ!」
 グレンは根元まで刃を押し込んだ。仰け反る竜王の胸板に靴底を押しつけ、上方に抉りながら剣を引き抜く。内臓に達する傷口から、一瞬の沈黙を置いて鮮血が吹き出した。
 激しい出血が豪雨となって降り注ぐ。天井が、壁が、柱が、王座が、瓦礫の一つ一つが、全て神の血の色に染め変えられた。
「……」
 グレンの踝までもが血に浸る頃になると、遂に竜王の巨体が傾いだ。後ろ足をがくんと折り、壁を背中に擦りつけながら崩れていく。大きくしなった頭が、勢いよく床に打ち付けられて潰れた。
 胸の傷からころりと転がり落ちたのは、グレンの両手に収まる大きさの宝玉だ。
「私の……」
 低く喘いだのを最後に、それきり竜王は動かなくなった。