甲高い音が響くと同時に全ての鏡が砕けた。淡雪の如く溶けていく破片の向こうから、二人の仲間が現れる。 「大丈夫?」 小走りで駆けて来るナナもその後ろを歩いてくるコナンも、満身創痍で酷い有様だ。それでも生きて合流出来た安堵に、アレンはふっと肩の力を抜いた。 「これであいつ等の顔見ねぇで済むな」 「当分の間、鏡を見る度に複雑な気分にはなりそうだが」 「でも鏡は嫌味とか意地悪言わないから平気。あいつってばホントに嫌な女だった……」 アレンの治療を終えたナナは、そこまで言いかけて唐突に口を噤んだ。危険を察した小動物に似た仕草で、虚空に鋭い視線を巡らせ始める。彼女の感覚が魔的な気配を捕らえたようだ。 それに倣おうとするアレンの鼓膜を、何処からともなく聞こえてきた祈りの声が打った。 「……叔父上……」 声には幾重にも木霊し、聖歌に似た余韻を伴って重々しく響き渡る。 ぞっと肌を粟立たせながら、三人はそれぞれの得物を構える。敬虔なる大神官の祈りは、彼等にとって不吉の象徴でしかない。 「おい、あれ」 異変に最初に気付いたのはアレンだ。彼が顎で指し示す方向に、仲間達も張り詰めた注意を向ける。 投げ出された破壊の剣を中心として、床に青い魔法陣が浮かび上がっていた。冷ややかな輝きを放ちながら、次第に魔力を増幅させていく。視認出来る程濃厚な波動がゆらゆらと立ち上った。 「あっちにも」 死神の盾の周囲には緑の魔法陣が、悪魔の鎧の周囲には紅の魔法陣が描かれている。強い魔力に侵食されたか、神の武防具はぐずぐずと崩れて魔法陣に溶けた。 ぼん、と音を立てて青い魔法陣から巨大な腕が突き出した。虚空を捕らえようとでもするかのように、五本の指がぎくしゃくと閉じ開きを繰り返す。 破壊の剣を礎に何かが生まれつつあった。巨大な掌は巨大な掌は太い腕に連なり、小山のような肩から平べったい頭部へと続く。人間で言えば眉間の辺りにある眼球が、ぎょろりと動いてアレンを睨みつけた。 その眼差しには覚えがあった。アレンは剣を握る手に力を込めつつ、喉の奥で唸る。 「……アトラス」 身構える末裔達の前で、生まれたばかりの生き物がゆらりと立ち上がった。 筋骨隆々たる巨体は赤銅の艶を帯びている。大地を捉える足は柱のように逞しく、棍棒を携える腕は丸太のように太い。見上げるような巨躯に相応しい広い肩の上には、不自然に小さな頭部がちょこんと乗っている。耳元まで避けた唇が、にやりと親しみを込めて歪んだ。 「叔父上に再召喚されたか」 三柱神が次に依代としたのは、主より賜りし部防具だ。闇の衣を滅した今、彼等を内包出来る程の巨大な器は、この世の何処を探してもそれ以外には存在しまい。 「残りも来るぞ」 緑の魔法陣から実体化したバズズは、細く歪な腕をゆっくりと伸ばした。皮膜に覆われた翼がばさりと広がり、鞭めいた尾がぴしゃりと床を打つ。鋭い牙の合間に光る糸を引きながら、新たな肉体を得た神は喉を鳴らして笑う。 赤の魔法陣を踏みしめながら、黄金の鱗を煌かせる魔物が静かに目を開けた。水牛を思わせる二本の角、酒樽のようにずんぐりと安定感のある肉体、矛先のごとく閃く爪。両の腕には、人間など容易く串刺しにするだろう三叉の矛を構えている。 巨木の如く聳える悪霊の神々は、虹彩のない瞳を細めて笑った。 「……神々の地に相応しい迫力だな」 「神様なら何でもいいってわけじゃないでしょ。お呼びでない神様達にはさっさと帰って貰わなきゃ」 「だな。……とっ!」 アトラスが棍棒を叩きつけた。然程気合の入っていない一撃が、それでも轟音を立てて深く床に沈む。その巨体から生み出される力たるや凄まじいの一言に尽きる。 アレンはアトラスの懐に飛び込んで剣を突き立てた。剥き出しの皮膚は鋼のように硬く、アレンでさえ浅く傷を刻むのがやっとだ。微かに裂けた肌から、申し訳程度の体液がじわりと滲む。 「かってーなっ」 「ちょろちょろするなよ」 濁った声が遙か頭上から零れてくる。以前とはまるで違うのに、それは確かにアトラスの声だった。 ぶんぶん唸る棍棒を右に左に避けながら、アレンはにやりと笑った。力は圧倒的だが攻撃は単純で、一度パターンを把握すれば然程苦労なく避けることが出来る。アレンの影を肉体としていた時の方が、小回りが利く分余程厄介な相手だった。 「おい、こいつ力は凄ぇけど頭悪いぞ!」 アレンの言葉に、コナンとナナがこくんと頷いた。 「元アレンの影だ、さもありなん」 「似たもの同士なのかもね」 「お前ら……」 アレンの頭上でぶんと棍棒が唸った。一旦後ろに跳んで距離を置くアレンの背後に、空気を裂いてベリアルの矛先が迫る。金色のそれが背中を抉る寸前、コナンの魔術が発動した。 「スクルト!」 矛の直撃を受けたアレンは、すぐに良く弾むボールのように飛び起きた。生来の頑強さに加えてスクルトの補助があれば、この程度の衝撃など蚊が刺した程にも感じない。 先の戦いとは違い、今は仲間が傍にいる。三柱神が巨大な肉体を得た以上に、末裔達は互いに頼もしい助力を望めるのだ。 「ルカナン!」 アレンの会心の一撃が、ルカナンで弱められたアトラスのアキレス腱を抉った。力任せに薙いだ刃が、ぶちぶちと鈍い音を立てながら筋肉の束を切断する。 赤銅色の肌から濁った血液が吹き出した。 蝙蝠に似た羽を広げると、バズズはその巨体を宙に浮かせた。鉤爪の合間に魔力の紫電を宿らせつつ、吐息の如く立て続けにベギラマを放つ。炎の柱が所狭しと林立し、熱風と火の粉が室内に溢れかえった。 「イオナズン!」 ナナが爆風でバズズを牽制する隙に、アレンとコナンはベリアルに猛進する。 ベリアルはアレンの剣を角で受け止め、コナンの刃を矛で弾いた。ナナの影を纏っていた時とは違い、再降臨を果たしたベリアルは肉弾戦も相当な手誰だ。 「イオナズン」 ベリアルのイオナズンが扇状に広がる。 反射的に跳んだコナンの傍らを炎の塊が通り過ぎた。直撃こそ免れたものの、熱風が容赦なく腕を焼く。衣が裂け、べろりと皮が剥がれて肉が剥き出しになった。激痛によろめくコナンの喉元に三叉の矛が迫る。 「っと!」 寸でのところで滑り込んだアレンが矛を弾く。一瞬無防備に晒されたアレンの胴を、背後から迫った掌がむんずと掴み上げた。 「アトラス……っ」 骨が軋み、臓腑が圧迫され、気道が詰まった。アレンは懸命にもがくが、その強力を以ってしてもアトラスの拳は揺るがない。じだばた足掻く爪先がふわりと床から離れた。 持ち上げられていく視線がアトラスのそれと合わさった。銀光を湛えた一つ目が、心の底からの愉悦を込めて微笑む。アレンの苦しむ様を愉しんでいるのだ。 「人間は小せぇなあ」 その台詞が終わるや否や、ぶんっ、とアレンの視界がぶれた。 高々と持ち上げられた次の瞬間、アレンは凄まじい勢いで床に叩きつけられた。床石が砕ける程の衝撃に内臓が破れ、口から真っ赤な血潮が迸る。四肢が痺れ血流が滞り、視界が薄墨を溶かしたような闇に覆われた。 「……う……」 霞む意識の中で、アレンは再びゆっくりと持ち上げられるのを感じた。 「約束通り、お前の人生をいただくぜ」 嘲笑を含んだ声がやけに遠く聞こえる。悪態をつき返そうにも声が出ない。自由にならぬ肉体に苛立ったその時、暖かい命の息吹が吹き込まれた。コナンのベホイミだ。 力を取り戻した目蓋を持ち上げると、青みがかった口蓋が眼前まで迫りつつあった。肉体ごとアレンを取り入れる算段らしいが、生憎アレンには丸呑みされるような趣味はない。 「てめぇはこれでも食らってろ!」 「ルカナン!」 アレンが両手を剣に構えると、絶妙のタイミングでナナの魔術が発動した。柔らかい口蓋に刃を突き立て、力任せに捻じ込むと、どっと溢れ出た血液がアトラスの喉奥を塞いだ。 激痛に緩んだ拳から逃れ、アレンは更に深く刃を食い込ませた。助太刀に駆けつけるバズズがベギラマで牽制されるのを尻目に、気合と闘気を剣に注ぎ込む。 「いけっ!」 閃光と共に弾けたかまいたちが気道を引き裂きながら進み、アトラスの内臓をずたずたに引き裂いた。衰えぬ風は骨を砕き、肉を裂いて皮膚を突き破る。血液を存分に吸い上げた竜巻が室内に吹き荒れ、濃い血臭を振り撒いた。 アトラスの一つ目がアレンを睨んだ。凄まじい憎悪を孕んだ視線を真っ向から受け止め、アレンはにやりと口の端を持ち上げる。 「分かったか? 何度やってもお前の負けだ」 剣を引き抜き、アレンは危うげなく床に降り立った。その背後でゆっくり傾いだアトラスの巨体が、轟音を立てて床に沈む。振り返り、もう一度同じ高さで目線を合わせ、アレンは言った。 「二度と来んな」 アトラスは固めた拳を持ち上げようとし、結局適わぬまま力尽きて動かなくなかった。 突き出される矛を受け流しながら、コナンは空中を旋回するバズズを見上げた。 猿とこうもりを掛け合わせたような醜悪な魔物だが、炯々と閃く瞳には覚えがある。肉体が違っても、魂が醸し出す気配は間違いなく彼のものだった。 「……美しくない」 不平を聞きつけたかのように、バズズがコナン目掛けて急降下してきた。紫の風が通り過ぎた一瞬後、鉤爪に抉られた頬に鋭い痛みが走る。短い舌打ちをしながら、コナンは上昇するバズズに向かって掌を突き出した。 発動詞を口にする寸前、コナンは急速に膨れ上がる殺気に気付いた。ベリアルが高々と武器を振り上げ、喉奥に白光を宿らせたところだ。三叉の矛を繰り、イオナズンを放つ魔物は、凄まじい火炎をも巻き起こすことが出来る。金色の魔物が見据える先にはアレンとナナの姿があった。 「……ベギラマ!」 バズズを飲み込むはずだったベギラマは、ベリアルの炎と激突して散じた。細かく砕けた炎の雫が、雨のようにぱらぱらと降り注ぐ。 「厄介な……」 吐き捨てる間もなく羽音が響く。はっと振り返ったコナンとバズズの合間に、青い影が躍り込んで鉤爪を弾いた。 「ちょろちょろうるせぇサルだな」 「君と通じるものがあるのでは?」 にこりともしないで応じると、アレンはむっと頬を膨らませた。 「あいつは元々お前の影だろ」 「さあね。僕の影を纏っていたのなら、もっと美しい魔物であるべきだ」 「一生言ってろ」 そうこうしているうちにバズズが再びベギラマを乱発した。同じく炎の魔術で応戦するものの、天井すれすれを旋回するバズズはすばしこく、なかなか狙いが定まらない。足場になるようなものがあれば跳躍して叩き切ることも出来ようが、それすら見当たらないのが現状だ。 「ベリアル」 唐突にバズズが仲間の名前を囁いた。両手に矛を構えていたベリアルが、ちらりと視線を持ち上げて微笑む。不吉な空気が満ちた一瞬後、二神の掌に白々とした白球が同時に宿った。 二つのイオナズンが交わり、溶け合い、何倍もの威力を伴って爆発する。ナナのイオナズンが幾らか威力を相殺するが、単純に考えて二対一の勝負、全てを防ぎ切れるわけもない。 末裔達は吹き飛ばされ、勢いよく壁に叩きつけられた。 |