雪原の砦と悪霊の神々<6>


 胸に押し当てた手に魔術が宿り、滲む光が法衣を淡く染める。ゆっくりと魔術が肉体に浸透していくのを感じながら、コナンはよろよろと立ち上がった。
 立て続けに詠唱を繰り返し、コナンは戦いの準備を整えた。効力が限界まで達したのを確認して詠唱を止め、背後のナナに低く囁く。
「アレンを頼む」
 魔力耐性の低いアレンのダメージは凄まじいようで、床に長々と伸びて動かない。アレンの治療をナナに任せると、コナンは単身二柱神に対峙する。
「自らを率先して回復とはいい身分だ」
 バズズは喉を鳴らして笑う。喜悦を湛えた視線がねっとりとコナンに絡んだ。
「一人きりで勝算があるとでも?」
「無論。可能性のない勝負には挑まない主義でね」
「……それではその可能性とやらを見せてもらおうか」
 バズズの息吹は炎と化し、コナンの周囲をぐるりと取り囲んだ。大気すら真紅に染まる空間に退路はない。金光を吸い込んだコナンの瞳が、淡い翡翠色に染まって猫のように閃く。
「終わりだ」
 炎を突き破ってやってきた死神の、長く歪な腕がコナンを捉えた。指先を飾る鉤爪は人の肉体など容易く抉る程に鋭い。コナンは一瞬にして握り潰されたかに思われた。
 ずぶり、と肉を抉る音が凍れる大気を震わせる。
「……かっ」
 呻き声ともつかぬ音と共に、大量の血液を吐き出したのはバズズだ。疑心に揺れる瞳が、焦燥も顕わにコナンの表情を探る。彼自身、何が起きたのかをまだ把握し切れずにいるのだ。
「スクルトの重ねがけというのは、これでなかなか有効だ」
 バズズの喉笛を貫いたコナンが微笑む。垂直に突き立てた刃に、有り得ない色の血液が幾つもの筋を描いた。
 ベホイミと見せかけて幾度も行使したスクルトは、肉体の強度を何倍にも高めている。邪神の直接攻撃をも防ぎ切る程、その威力は絶大だ。
 怨嗟の呻きを漏らしながら、それでもバズズは自力で剣を引き抜いた。流石邪神とでも言うべきか、信じられぬしぶとさを誇示しながら手の届かぬ位置にまで再び舞い上がる。その後姿の忌々しさに舌打ちしたコナンは、唐突にぐいと肩を押し退けられた。
「往生際の悪ぃサルだな」
「もう復活したのか」
 元気いっぱいのアレンを見て、コナンが呆れとも驚きともつかぬ声を上げる。アレンはそれを気にする風もなく周囲を見渡し、太い眉を顰めた。
「足場になるもん、何かねぇかな」
「あればとっくに叩き切っている」
「……しょーがねぇ、コナン、お前の肩貸せ!」
「は?」
 コナンが言葉の意を飲み込むより早く、アレンは仲間を踏み台として天井ぎりぎりにまで跳躍した。傍らを通り過ぎようとしたバズズの首根っこを引っ掴み、ぐいと引き寄せてその背に跨る。予想外の重みにふらつくバズズの胴を腿で挟むと、延髄目掛けて思い切り剣を突き立てた。
 バズズは絶叫と共に墜落した。床に叩きつけられて尚足掻く邪神の胸に、アレンは垂直に剣を落とす。一度大きく跳ね上がった紫の巨体は、そのままぐったりと弛緩して動かなくなった。
「ざまあみれ!」
 大威張りで胸を張るアレンの後頭部をコナンが容赦なくどつく。
「何すんだよ!」
「それはこちらの台詞だ! 見たまえこの醜い足跡を! 君と言う男は何処まで躾がなっていないんだ!」
 怒れるコナンが剣を振り翳した。ぎょっと身を引くアレンの鼻先を掠めた刃が、床に蹲っていたバズズの喉を再度貫く。
 コナンは燃え盛る怒りを瞬時に鎮め、今際の痙攣を繰り返すバズズを冷ややかに見下ろした。
「君も知っているはずだが、メガンテは僕にとって最も美しくない魔術に分類される。唱えたければここではない世界で存分に唱えてくれたまえ」
 見開いたままのバズズの瞳が濁り、やがてこの世界の風景が消えた。


 残された最後の邪神は、未だ戦闘意欲の衰えぬ双眸で末裔達を一人一人睨みつけた。
「ロンダルキアまで来た実力は伊達ではなかったと言うわけね」
 その有様に三人はぞっと震え上がった。黄金の鱗を持つ、どっしりと樽のような体躯をした牛が、鼻息を荒げながら女言葉を喋るのだ。アレンに精霊神ルビスが憑依した時に匹敵する違和感である。
「……お前メスなの?」
「わたし達に定まった性別はないわ」
 何処かしら少女めいた仕草でベリアルは肩を竦めた。
「今は影の影響から抜け切らないだけよ」
「あ、そ」
 然程重要でもない疑問は片付いた。末裔達は気を取り直して武器を構え直す。
 ナナは杖を握る手に力を込め、真正面からベリアルを睨みつける。再降臨したベリアルは確かに強敵だが、魔術師のナナにしてみれば魔術が通用する分戦い易い。バギでもイオナズンでも確実にダメージを与えることが出来るのだ。
「大人しく冥界に帰ったらどうだ。勝機の見えぬ戦いに命を賭して挑むのか?」
「そうね。わたし達は三位一体。三柱神が揃って初めてシドー様をお助け出来る。わたしが一人でこの世界に留まることに意味はないわ」
 ベリアルは声音に微かな自嘲が混じった。
「一人では何も出来ないからこそ、わたしは戦わなければならない。そうして今一度アトラスとバズズをこちらに呼び、三柱神としてシドー様をお迎えする。わたし達はそのために存在するのだから」
 言うが早いか、ベリアルは矛を構えてアレンに襲いかかった。その巨躯からは信じ固いほど素早い動きだ。
 アレンが跳んで避けた地点に一瞬遅れて矛が突き刺さり、床がぼこんと陥没した。巨大な武器と膂力が生み出す一撃はアトラスにも劣らぬほど強力だ。まともに食らえば人間など簡単に潰されてしまう。
 かっと開いた口蓋から燃え盛る炎が吐き出された。息を詰め、火の海を走り抜けながら、ナナはイオナズンの詠唱を完成させる。
「イオナズン!」
 白球がベリアルの胸元で弾けるとほぼ同時、アレンが高く跳躍した。肩口に剣を突き立て、体重を乗せて斜めに袈裟切りにする。着地したアレンが後退するのを見計らって、コナンの生成した炎が鱗を舐め取った。
 体のそこここから血を滴らせながらも、ベリアルはまるで退く素振りを見せなかった。アトラスが重ねて宣言していたように、彼らには決して負けられぬ理由がある。
「でもあたし達だって譲れない」
 肩で息を弾ませながらナナは呟く。喉はからからに干上がり、踏み出す足は鉛の如く重かったが、不思議と心は落ち着いていた。戦いに頬を紅潮させる自分を、もう一人の自分が見下ろしているような奇妙な感覚だった。
 もう何度目か分からぬベリアルのイオナズンが炸裂する。両腕を翳して爆風を凌いだナナは、その威力が随分と弱まっていることに気付いた。アレンに切られ、コナンに焼かれ、ベリアルの体力は確実に削り取られている。一つ一つの小さな傷は、積み重なって多大なダメージとなるのだ。
「わたし達の誤算は、人という生き物を完全に理解しえなかったこと」
 口元から血の雫を滴らせつつ、ベリアルは矛を水平に凪ぐ。まともに食らったアレンは横殴りに吹き飛ばされ、冷たい床の上に転がった。
 喀血するアレンに間髪入れずベホイミの聖なる力が降り注ぐ。アレンは一呼吸置くと、口元の血をぐいと拭って力強く立ち上がった。青い炎を宿す瞳には一片の気後れもない。
「人は弱くてちっぽけで、常に限界と共に生きる存在。空に焦がれても高みを飛ぶことは出来ないし、海に憧れても底に辿り着くことは出来ない」
 意思と意思、刃と刃が激突し、鮮やかな火花が戦場を彩る。
「けれどだからこそ……限界を知る命だからこそ、それを越える力を生み出そうとする。お前達もそう。神という至高の存在に挑み、打ち倒す程の力を得たのだから」
「人間の価値を認めてくれたようで嬉しい限りだ」
 満身創痍でありながらも、コナンは嫌味な程優美に一礼して見せた。
「そんな人間が住むこの世界を、益々手に入れたくなったわ」
「そいつはだめだな。ここは俺達の世界で、邪神なんか必要ねーからな」
 アレンの一撃が遂にベリアルの角を砕いた。しつこく与えていた打撃で強度を失いつつあったそれが、とうとう限界を迎えたのだ。にやりと笑うアレンの笑顔は、悪戯を成功させた少年のように屈託ない。
「……」
 肩で息を弾ませていたベリアルがふと詠唱に入った。イオナズンとは違う攻撃性のない波動を感知して、ナナははっと目を見開く。あの魔術を完成させてはまずい。
 ナナはベリアルに突進した。ろくな防御力も持たぬ少女が、邪神の懐に飛び込むなど正気の沙汰ではない。
 刹那とも永劫ともつかぬ奇妙な間、ナナとベリアルの視線が交わった。嘗ての光は杖を突き出し、嘗ての影は矛を降り上げる。
「ナナ!」
 ぎぃんと鈍い音がしてアレンがベリアルの矛を弾いた。その剣戟を頼もしく思いながら、ナナはベリアルの鼻先に杖を突きつけ、ありったけの精霊を呼び寄せる。
「イオナズン!」
 かっと白く弾けた力がベリアルを丸ごと飲み込んだ。疲弊し切った神は爆裂に抗うことが出来ず、体内の血液を沸騰させる。鱗が弾け、肉が溶け、血液が蒸発した。発動詞を紡ぐはずだった舌が、断末魔をロンダルキアの大地に轟かせる。
 どうっと音を立ててベリアルが床に伏した。
 ぷすぷすと音を立てるベリアルの遺骸を、ナナは瞬きも忘れて見下ろす。勝利の実感も湧かぬまま佇んでいると、足音高く歩み寄ってきたアレンから頭ごなしに怒鳴られた。
「何やってんだよ! 俺が間に合ったから良かったけど、そーでなかったらお前今頃ミンチだぞ!」
「アレンかコナンが助けてくれると思ってた」
 そう返すとアレンは言葉に詰まった。口元をむずむずと動かすこと数秒、再び怒鳴ろうと彼が眉を険しくしたタイミングで、ナナは素直に頭を下げる。
「でも無謀だったとは自分でも思ってる。助けてくれてありがとう」
 あの時ベリアルはベホマを発動させようとしていた。無理を押してでも食い止めなければ、戦局は完全に逆転していただろう。仲間の助力を信じての行動だったのは言葉通りだが、反省点は幾つもある。
「……しょーがねーな」
 先手を打って謝罪されてはアレンもそれ以上食いつけないようだ。
 アレンはつんとそっぽを向き、コナンはやれやれと小さく肩を竦める。そんな二人を見比べて、ナナは満面の笑みを咲かせた。


 ロトの末裔達の前に、巨大な真鍮製の扉が聳えている。
 邪教の紋章が刻まれた分厚いそれの向こうから、只ならぬ気配がしんしんと伝わってくる。それは三人の肌に浸透し、臓腑に染み渡って魂までをも蝕んだ。
「ハーゴンの力だな」
「ゾーマの力でもある」
「そしてロトの力でもあるのね」
 この扉の向こうにハーゴンがいることを、三人は本能の部分で感じていた。ロトとゾーマの波動は、三人の体に流れる血と同じリズムを刻んでいる。恐怖で背筋は氷のように凍りつき、興奮で心臓は溶岩のように沸騰した。
「覚悟はいいな?」
 アレンが二人を振り返る。血に汚れた顔の中で、瞳は生き生きと空の色を宿す。
「覚悟? 今更だな」
「あたしはみんなの仇を取るために旅に出たんだもん。覚悟なんてとっくの昔に決まってる」
「だよな。お前らにはハナっからちゃんと目的があったんだもんな」
 アレンは軽く肩を竦め、今一度扉を見上げる。その横顔を視線で探った後、ナナがゆるりと小首を傾げた。
「アレンにだって旅に出た理由があったじゃない」
「腕試しな。おまえらみたいに国がどうこうっていう話じゃねぇけど」
「らしくもない物言いだ。腕力馬鹿の君に相応しい動機ではないか」
「そうよ。いいじゃない、腕試しだって」
 ローレシアに帰り、大切な人々と共に生きていく……それはアレンがこの旅で得た新たな目標だ。だがやんちゃな少年だった頃の彼、素の魂が掲げた目的とて消えてしまったわけではない。
 ローレシアの剣士として修練に励み、戦いに挑み、新たなる強さを得る。それもまた彼が剣士として生きる限り、胸に抱き続ける人生の指標だろう。
「究極の腕試しの相手がこの扉の向こうにいる」
 片目を瞑るコナンににやりと笑いかけ、アレンは扉手をかける。腹に響く音と共に、決戦への道が開き始めた。