雪原の砦と悪霊の神々<4>


 ベリアルはにっこりと微笑み、ベルラインのローブを摘んで会釈した。可憐で優雅なその物腰にナナは苛立ちを顕わにする。
 背後から伸びてきた手に捕らえられ、ふと気付いたらこの場所にいた。四方を鏡に囲まれているのは変わりないが、先程までいた場所とは空気の質が違う。アレンの姿もコナンの姿もなかった。
「怖い顔。そんなんじゃ、頭の切れるマッチョなイケメンを見つけても逃げられてしまうわよ」
 アレンには及ばずとも単細胞なナナは、挑発とも言えぬ挑発に忽ち顔を赤くした。
「うるさいわね、大きなお世話よっ」
「鼻の穴膨らませないで。同じ顔のあなたにそんな表情をされると、わたしの方が恥ずかしいわ」
「あんたってば、ホントに嫌な性格ね」
「よく言われるわ、そこがとても魅力的だって」
 ベリアルは余裕たっぷりに目元を和らげた。
「ねえ、どう考えてもわたしの方がお姫様に相応しいと思うの。上品だし、お淑やかだし、歌は上手だし、小鳥程にしか食べないし」
 自らの美点を指折り数えながら、ベリアルはわざとらしく首を傾げて見せる。ナナはいらいらと爪先を踏み鳴らした。
「音痴で大食の何が問題あるのよ。それがあたしなんだから別にいいでしょ」
「でも王女として相応しくないわ」
「相応しいか相応しくないかなんて、あたしやあんたが決めることじゃない、ムーンブルクの人達が決めることよ」
「いいえ、民の審判を待つまでもないわ。だってあなたはここで死ぬんですもの」
 ベリアルは優雅な仕草で髪を払った。毛を逆立てる猫にも似たナナを、鼻先で軽く笑い飛ばす。
「闇の衣に魔術は通じない。魔術師であるあなたが、どうしてわたしを倒せるのかしらね?」
「……」
「わたしはあなたを殺すことが出来るのにね」
 ベリアルのバギが白い軌跡を描いてナナを襲った。
 同じく風の魔術で粉砕しながら、ナナはベリアルにいかずちの杖を振り下ろした。杖が虚しく空を叩いた一瞬後、背後で再びバギの波動が膨れ上がる。必死に身を捩ってかまいたちからは逃れたが、続く頬への一撃を避けることは出来なかった。
「つっ」
 口内に血の味が満ちるより早く、一際大きな殺気が膨れ上がった。魔術が効かぬのは百も承知で、ナナは素早く詠唱を組み立てる。イオナズンの火炎と爆風は敵との距離を置いてくれるはずだ」
「イオナズン!」
 紫電を閃かせながら大気がびりびりと振動する。逆巻く熱風に髪とローブを翻しながら、ベリアルはやや離れた地点に降り立った。
「少しはやるようになったみたいだけど、それで女王としての務めが果たせるとは限らないわ」
 肩で息を弾ませるナナに、ベリアルはいっそ優しい声で囁いた。
「国を復興させて、また魔物が攻めてきたらどうするの? 二度国を滅亡させる前に、わたしに全てを譲った方が賢くなくて?」
 ナナは花びらのような目蓋を閉じた。ふうと息を吐き出してから目を開け、強く微笑んでみせる。
「あたしはこの旅でとても強くなったの。もうムーンブルクをあんな目には遭わせない」
「強気ね。あなたの力が国を守れる程のものかどうかは分からないのに」
 嘲笑われても、ナナは髪一筋の動揺も見せない。冬の空気のように、凛とした声音で言葉を紡ぐ。
「だからハーゴンを倒すことで、あたしの力が見極められると思ってる。ゾーマの声を聞くあいつを倒せたら、あたしはきっとムーンブルクを守っていけるもの」
「……」
「そのためにもあたしはハーゴンを倒しにいくの。でもその前に、あんたをどうにかしないとね」
 ベリアルの表情が険しくなるのに対比して、ナナの口元には余裕が宿り始めた。
 今日のこの日まで、アレンとコナンに助けられながらも精いっぱい努力してきた。鍛錬の末に培った力は確かなものであり、今更それを不安に思う理由などない。後は精霊神ルビスの加護を信じて、力いっぱい目の前の敵にぶつかるだけだ。
「あたしの動揺を狙ったんならご愁傷様。そんなことで思い悩む時期はとっくの昔に終わってるのよ!」
 影は憎々しげに顔を歪めてイオナズンを放った。同魔術でそれを相殺したナナの上に、ふっと邪神の影が落ちる。
「!」
 避け切れない。腕が吹き飛ぶ程の打撃を肩に食らい、ナナは杖を取り落とした。からからと乾いた音を遠く聞く間に、今度は強か腹を打たれる。小柄なナナは敢えなく吹き飛び、背中から鏡面に思い切り叩きつけられた。
「う……」
 ずるずると崩れるナナをかまいたちの嵐が包み込む。
「人間風情が偉そうな口を利くものじゃないわ」
 血染めになったナナを見て、ベリアルは小気味よさそうに口元を覆う。
 痛む体を抱き締めながら、ナナはベホマを唱えた。体のあちこちに走る裂傷が幻の如く消えていく。
 勝者の余裕か、ベリアルはナナの治療が終わるまで攻撃を仕掛けてこない。ナナは悔しさに奥歯を噛み締めた。


 ナナがよろよろと立ち上がるのを見計らったタイミングで、ベリアルは再びバギを放った。倒れるように避けたナナの巻き毛が渦に巻き込まれ、切断される。腰に届くまで伸びていた銀色の髪は、背中の中程でばっさりと落とされてしまった。
「あっ」
 幼い頃から手入れを欠かしたことのない自慢の髪だった。ベリアルはナナの記憶を持ち合わせているから、そんな乙女心を知った上で敢えて髪を狙ったのだろう。一撃でナナを仕留める力を持ちながらそうしないのは、猫が鼠を甚振るように、狩りを楽しみたいという気持ちの表れに他ならない。
「性格悪……」
 ベリアルは楽しげに口の端を持ち上げる。そのような挑発は挑発にもならぬと言いたげに、気だるげに髪を払ってさえみせた。ナナより長くたっぷりしたそれを、実に優美に。
「……あんただけには絶対に負けたくない」
 ナナは今一度立ち上がり、邪神を真正面から見据えた。
 魔術が通用しないなら物理攻撃を仕掛ける必要がある。アレンから手解きを受けているとはいえ、しかしナナ程度の剣術で邪神を仕留められる可能性は皆無に等しい。
「……だったらあたしには、やっぱり魔術しかないのよね」
 べろりと唇を舐めると、ナナは高々と杖を振りかざした。六種の精霊が彼女の意志に応えて召集する。
「イオナズン!」
 一際大きな爆裂が天井の鏡を吹き飛ばした。銀色の欠片がきらきら降り注ぐ中、ベリアルは呆れ返った風に溜息を吐く。
「何処に向けて放っているの? わたしはここよ?」
 ナナはそれに答えず二度、三度とイオナズンを放った。
 床一面に破片が散らばり、それが星屑のように瞬いている。光の中に凛と立つベリアルの美しさを、ナナは認めないわけにはいかなかった。彼女には人ならぬ身の神々しさ、闇に生まれた命の華やぎがある。
「取り乱したあなたを見るのは居た堪れない。わたしが一思いに勝負をつけてあげる」
 その台詞が終わるや否や、ベリアルのイオナズンが炸裂した。素早く横に飛んで直撃は免れたが、熱を孕んだ爆風に体力の大部分を削られる。肌のあちこちがじくじくと火傷の痛みを帯びた。
「ボロ雑巾みたいよ」
 ナナは縺れた巻き毛を掻き上げる。手足は重たく視界は霞むが、戦闘意欲は少しも衰えていなかった。
 ゆっくりと呼び寄せた風の精霊が、ナナの周囲で渦を巻き始めた。風は風を呼び、溶け合って膨れては幾つにも分散していく。神聖なる風の力は、光を孕んだ巨大な竜巻へと変貌を遂げた。
 風の中心に立つ少女の、真っ赤な瞳が挑戦的に輝く。ベリアルは哀れむようにかぶりを振った。
「今の衝撃で頭でも打ったのかしら? 何度も言うけどわたしに……」
「あんたこそ何回言えば気が済むの? 闇の衣に魔術は効かない、でしょ?」
 ベリアルの言葉尻を打ち消して、ナナが鼻を鳴らした。他人を貶めることは得意でも貶められることには慣れていないベリアルが、不快げに顔を歪める。
「死に損ないが偉そうな口を叩かないで。あなたなんて後一撃でお終いなのよ」
 せせら笑うベリアルが俄かに凍りついた。愛らしい面を彩る余裕は消え、あからさまな恐怖がそれに取って代わる。邪神ベリアルにそんな表情をさせたことに、ベリアルは胸の好く思いだった。
 ナナを取り巻く竜巻のそこここで、きらりきらりと銀色の光が零れる。先のイオナズンで砕いた鏡の破片が、風に舞い上げられて踊っているのだ。鋭利な刃物に似たそれらは、恐ろしい武器の代替として十分に通用する。
「一撃でお終いなのはあんたよ」
 風は主の命を受けてベリアルを包み込んだ。耳を劈くような悲鳴が上がる中、血を吸い上げた竜巻が不吉な色に染まる。断末魔のように弾けたベリアルの魔力が、天井近くで弾けてぱらぱらと散った。
 風が鎮まった後には、虫の息で横たわるベリアルの姿があった。
 最期の力を振り絞って頭を持ち上げると、ベリアルは呪詛の代わりに掠れた笑い声を漏らす。聞くものの背筋を凍らせるような悪意に満ちた声音だった。
「わたし達は神々の大戦からシドー様と共にある。シドー様に使え、お支えするから、わたし達は三柱神と呼ばれるの」
「……?」
 ナナの戸惑いなど何処吹く風で、ベリアルは詩でも吟じるように続けた。
「支えのない天蓋は崩壊する……破滅と死と虚無を齎しながら。この意味を理解する時、あなたは今日のこの勝利を後悔するわ」
「何言って……」
 ナナが問うより早く、ベリアルは黒い光となって弾けた。
 ベリアルが倒れていた箇所には、人骨に似た破片が数多散らばっている。彼女を包んでいた悪魔の鎧だけが、主を追うことなくこちらの世界に残されたのだ。