雪原の砦と悪霊の神々<3>


 鏡面に覆われた広い空間で、コナンは苛立ちを覚えつつ腕組みした。絶対零度の視線を向けるその先で、死の神が親しみを込めた微笑を浮かべている。
「ご招待頂き光栄だが、生憎僕には男と二人きりになる趣味はない」
「それは僕も同じこと。出来れば手短に終わらせたい」
「人生を渡す話なら断ったはずだ」
 飄々と肩を竦めたバズズに、コナンは今一度胸の内を告げる。彼がこんなにもあからさまに心情を吐露する相手は、後にも先にも己が影だけだろう。
「僕にはやらなければならないこと、見なければならないこと、聞かなければならないことがたくさんある。今のところ、人に明け渡すほど人生に見切りをつけてはいない」
 サマルトリアに帰って待ち受けているものが希望か絶望か、それは今のコナンには分からない。だが故郷そのものに興味を失っていた過去を思えば、現在の心境は遙かに建設的に思えた。
「改めて言う。君に人生を譲る気はない。この言葉が理解出来るのなら仲間と共に冥界へ帰れ」
「……そうも行かぬ身の上だ」
 バズズは微かに俯いて笑う。銀色の視線がコナンの足元から表情をゆっくりと辿った。
「君にやるべきことがあるように、僕にもやるべきことがある。破壊神シドー様の復活……僕達はその為にここにいるんだ」
 感情の起伏に乏しいバズズの面が、この時ばかりは生き生きと輝いた。希望を生きる糧とするのは人も神も変わらない。
「準備は整った。ロンダルキアは僕達の魔力に満たされている。精霊神ルビスの復活は予想外だったが、覚醒したての女神は雲を払うのが精一杯の様子。僕達の敵でない」
「……君達にとって、聖地とは一体何なんだ?」
 コナンは兼ねてからの疑問を口にした。三柱神は降臨以来、時折末裔達にちょっかいをかけつつも、ロンダルキアを作り変えることに勤しんでいたらしい。彼らの魔力で塗り替えられた氷雪の地に、一体どのような意味が込められているのか。
「聖地そのものが破壊神シドー様をお迎えする巨大な魔法陣と考えてくれればいい。邪神の像を依代とし、僕達の魔力を礎として、破壊神シドー様はロンダルキアで完全なる復活を遂げられる」
「麗しき精霊神の聖地をよくもここまで醜く汚してくれたものだ。山なら他に幾らでもあるものを」
「ここが最も相応しい場所だったものでね」
 厳重に隔離された霊峰には俗世の気が届きにくい。不純物を排除し、純度の高い魔力を貯蓄するのに、成程ロンダルキアは都合の良い場所と言えよう。
「理解し難い図々しさだ」
 コナンがやれやれとかぶりを振ると、バズズは芝居めいた溜息をついた。
「君にそのような態度を取られるのは残念だ。君には僕の影として働いてもらおうと……そう考える程親しみを覚えていた時期もあったというのに」
 美しいレディにならともかく、邪神に親しみを持たれても嬉しくも何ともない。コナンは不快感も顕わに眉を顰めた。
「君ならば……旅立った頃の君ならば、僕の良い相棒になる素質があったのだがね。惜しいことに君は変わってしまった」
 双眸は剣呑な刃物の艶を帯び、唇は酷薄な笑みを湛えて吊り上る。繊細な顔の造作も手伝って、その微笑は壮絶なまでに美しい。
「君にはここで死んでもらう。神に歯向かう不遜な輩には、それ相応の罰が必要だ」
「罰? 君に剣を向けたところで、罰など受ける謂れなどない」
 これ幸いとコナンは臨戦態勢に入った。身勝手な言い分には辟易し始めた頃だ、さっさと決着をつけさせてもらおう。
「何故なら僕にとって君は神ではなく、無礼で野蛮な侵略者に過ぎないからだ」


 鋭く空を裂く刃を裂け、コナンは掌に溜めたベギラマを撃った。
 轟音を上げて逆巻く炎はしかし、バズズが翳す死神の盾に阻まれる。最後の一滴まで漏らさず飲み込んだしゃれこうべが、にたりと歪んだ微笑を刻んだ。
「ムーンブルク王の血によって月が堕ち、ローレシア王子に血によって太陽が堕ちた。残るはサマルトリア王家の血によって星を消すのみ」
 ごうっと音を立てて、紅蓮の炎がバズズを包み込んだ。羽衣の如くそれを纏いながら、バズズは嫣然と微笑む。絶対的な勝利への確信がその表情に、その佇まいにありありと表れる。
「君を最後の贄にする。その体に流れる血を残らず我らがシドー様に捧げるがいい」
 炎と共にバズズが跳躍した。振り下ろされる刃はさして労せず回避したが、付随する熱までも避けきれない。灼熱の風にじわりと肌を焼かれた。
「以前にも叔父上に申し上げたはずだが」
 バズズの刃が真横に宙を薙いだ。コナンはそれを剣で受け止め、弾かれる振りをしながらすばやく逆手に持ち帰る。間髪入れず振り上げた剣先はバズズの頬を浅く削いだ。
「お前達の薄汚い神像にくれてやる血など一滴もない」
 邪神は一度退き、白い頬に刻まれた傷に手を当てた。指に付着した濁った色の血を確認し、憎悪に満ちた面を上げる。
「僕の顔でそのように醜い表情を作るのは止めてくれないか」
「……人間風情が」
 唸ったバズズがふと口の端を吊り上げた。剣呑なものを覚えて身構えるコナンに視線を向けたまま、ふっと片手を翳す。掌から二筋の魔力が弾け、左右の鏡面を滝の如く滑り落ちた。
「……」
 左の鏡面にはアレンが、右の鏡面にはナナが映し出された。二人の仲間もコナンと同様、それぞれの影を相手に決戦に臨んでいるようだ。
 続いてバズズの掌には黒いザラキの輝きが宿った。心臓のように収縮を繰り返す死の光に、コナンは意識せず喉を鳴らす。
「それで人質を取ったつもりか」
「つもりではなく人質を取った。君が大人しく首を差し出せばこのザラキは収めよう。だがあくまで抵抗するというのなら、まずこちらから殺す」
 ザラキが向けられるものの、鏡面を隔てたナナが殺気に気付くことはない。彼女は彼女自身の影と向き合うのに必死なのだ。
「僕の影がレディに殺意を向けるとは頂けない」
「君はマンドリルと戦う時、それが雄か雌か一々気にするというのか?」
 ナナが効いたら憤死しかねぬ雑言である。空間が捩れていて良かったとコナンは内心胸を撫で下ろした。
「……僕は自己犠牲が好きではない」
 バズズから注意を逸らさぬまま、コナンは素早く二人の様子を探った。
 アレンは満身創痍で剣に縋っている。あの程度では壊れまいとの認識はあるが、床を染めるばかりの出血が気がかりだ。ザラキが空間を越えるならベホイミも可能かと考えたが、こちらもそこまで余裕がないのが現状である。
 ナナは魔術の効かぬ相手に相当苦戦しているようだった。イオナズンを連発しているものの、鏡が砕けるだけでベリアルには傷一筋刻めない。肉弾戦を不得手とする分、この戦いで一番苦労しているのは彼女だろう。
「勿論知っているとも。涼しい顔の裏側で、君はどうやったら三人で生き延びられるかを目まぐるしく考えている。だが無駄だ。そんな方法はない」
 この状況で直接攻撃は臨めるはずもなく、闇の衣を纏うバズズに魔術は通用しない。全ての手段は絶たれたかのように思えた。
 刹那、封印してあるはずの詠唱が心を過ぎった。命の全てを魔力と変じ、敵諸共消滅する禁術。行使した者の魂は滅びを招き、安息の園に行くことも適わぬという。
(……だめだ。使わないと約束している)
 コナンは即座に首を振った。仲間との約束を違える気はない。
 メガンテは使えない。ではどうすればいいのか。答えは簡単だ、他に勝つ方法を探すだけのことだ。


 コナンはじっと影を見据えた。軽く翳した掌でザラキが最後の発動詞を待っている。バズズの命の波動が、主の心臓と同じリズムで収縮を繰り返した。
 一瞬の隙を突くことが出来れば、戦局は逆転する。
「……いいだろう」
 コナンは光の剣を無造作に床に放った。
「好きにしたまえ」
「良い心がけだ」
 バズズが満足げに目を細めたのと、左手で白光が閃いたのはほぼ同時だった。弾かれるようにそちらを振り仰ぐバズズの目線を、コナンも意識せずに追う。
 稲妻の剣がアレンの闘気に呼応して輝いていた。殺傷能力など持ち得ぬだろう光に、しかしバズズは紛れもない恐怖を見せている。強張った頬に一筋の汗が滴り落ちた。
 チャンスは思わぬ形でやってきた。コナンは息を吐く要領で禁術の発動詞を口にする。
「ザラキ!」
 ザラキは黒いベールとなって間断なくバズズを包み込む。邪神は一瞬きょとんとし、死の懐に抱かれたまま楽しげに笑った。
「自暴自棄とは美しくない。ザラキは肉体に入り込み命を食い荒らす術……だが闇の衣を礎とする僕の体はその侵入を許さない」
「勿論分かっている。現に僕のザラキは闇の衣に弾かれ皮膚を滑り落ちる有様だ。だが」
 不意にバズズが翳すザラキがうねった。ザラキを浴びせられた命が、様々な色と形に変化しながら身を捩らせる。
「剥き出しの命にならどうだ?」
 存在を捻じ曲げられた命は、あるべき姿に戻ろうと手近な生贄に触手を伸ばし始める。事態を把握する間もなくバズズは己が命に絡め取られた。
「邪神の命を源とするザラキだ、さぞかし貪欲なことだろう」
 指先から掌に、掌から腕に、死が鋭い牙を立てていく。肉体のそこここを食い荒らされたバズズが憤怒の形相で吠えた。
「貴様……貴様、人間の分際で……!」
 それまでの余裕は何処へやら、憎悪に狂った絶叫が木霊する。コナンは偽りの憐憫を込めて微笑んだ。
「人間だから何だというんだ? 君達の降臨を畏怖と共に受け入れるとでも思っていたのか? 君達のような性格も根性も思考も美感も捻じ曲がった神が支配する世界で生きるなど、僕にとって耐え難い屈辱だ。僕とレディ達が喜びを交わす世界は果てなく美しく、清らかで、光に満ち溢れていなければならない。僕の比類なき美しさもまた、そのような世界でこそより強く輝きを増していくのだから。つまり」
 長ったらしい口上の途中で、コナンはさっと前髪を払う。
「この世の真実を守るため、僕は僕の美徳に従って行動したまでのこと……邪神如きに非難される謂れはない」
「殺してやる!」
 右足を食い尽くされたバズズの体が傾いだ。小生意気な人間に一矢報いようともがくものの、両腕も拘束されてままならぬ状態だ。瞳だけが憎悪を込めて爛々と輝いた。
「……僕を殺したことを、やがて君は後悔する。人間はどう足掻いても神には敵わぬことを思い知るがいい!」
「面白くもない冗談だ。僕の人生の中でこれ程後悔を覚えぬ戦いもあるまいよ」
 コナンはマントを意味なく翻してから、ひたとバズズを見据えた。
「君は所詮出来の悪い模造品。真実たる僕には勝てない」
 ザラキはバズズの細胞一つ一つに浸透し、食い荒らし、存在そのものを飲み込んでぱっと大気に散る。支えを失った死神の盾が、床に転がって耳障りな音を立てた。