雪原の砦と悪霊の神々<2>


 アトラスが高々と跳躍した。体重を全て刃に託して、アレンの脳天目掛けて凄まじい一撃を振り落とす。咄嗟に避けたアレンを掠めた剣は、落雷音に似た音を放って床石を抉った。打撃点を中心に放射状に床がへこみ、幾つもの亀裂が壁際にまで走り抜ける。
 負けじと突進したアレンの剣を、アトラスは逃げもせずに受け止めた。交差する刃の向こうで自分と同じ顔がにやにやと笑っている。不愉快は不愉快だが、親しい者達の影を相手にするよりは遙かに気が楽だ。
「邪神は邪神らしく冥界に引っ込めよ!」
「ひでぇ言われようだな。生まれてきた時点で俺だってこの世界の生きもんだよ。人としての生活が欲しいと思って何が悪い?」
 アトラスの声音は、未来への展望に明るく弾んだ。
「俺が治めるローレシアは強ぇぞ。ラダトームもデルコンダルも……あらゆる国を全部支配下に治めてやる」
「この野郎……」
 食い縛る歯の奥から怒気を込めて唸ると、アトラスは揶揄を込めて笑った。
「王子の役目を放り出したお前が怒るんじゃねぇよ。腕試しなんて言やぁ聞こえはいいが、お前なんて結局、面倒なことや苦手なことから逃げてきただけだろ」
「……」
 動揺が刹那の隙を生み出す。ぎらりとアトラスの双眸が輝いた一瞬後、爆発的な強力が稲妻の剣を弾いた。剣の行く先を目で追う間もなく、強烈な膝蹴りを腹に食らってアレンは前のめりに崩れる。
「ほら、どうした?」
 立て続けに後頭部に重たい衝撃を食らい、視界が色を失う。ぐらりと傾いだところで顎に一打浴びせられ、意識が空に舞う。
「反撃してこないのか?」
 大きく仰け反った胸板に靴底が減り込み、アレンは壁際まで吹っ飛ばされた。
「弱ぇ弱ぇ! 話になんねーよ」
「げほっ」
 喉を喘がせながら、アレンは必死に酸素を取り入れた。滴る鼻血を拭いながら顔を上げると、まだ掠り傷一つ負っていないアトラスと目が合う。
 流石に強い。しかも彼はまだ実力の片鱗すら見せていない。軽く足を広げて腕を組む様からは、小憎らしい程の余裕が感じられる。悔しいと思うと同時に、その強さに素直な羨望を覚えた。
「……お前が考えてる程悪いようにゃしねぇよ。シドー様への信心さえしっかりしてりゃ、俺は民を守るし国を大事にするつもりだ」
 嘯くアトラスには王者の風格がある。大いなる力とそれに対する自負とが、彼にそんな佇まいを許すのだろう。
「ハーゴンがお前に見せたローレシア、あれが俺の作る国だ。民は不幸そうだったか? 国は寂れてたか?」
 アレンの脳裏に、ハーゴンに熱狂する人々の笑顔が蘇る。不安と恐怖を払拭し、来る未来に希望を得た至福の微笑だ。破壊神に魂を捧げてしまえば、魔物への恐怖や人の世の憂いからは開放される。民に安寧を齎すことこそ王の義務に他ならない。
「俺が王冠を頂いた暁には、ローレシアはあんな風に活気に溢れた国になるってわけだ」
「……」
 アトラスの台詞に違和感を覚えた途端、すうっとアレンの心は平静を得た。唇を舐め、舌に刺さる血の味を嚥下して、静かに口を開く。
「違うな。あんなのはローレシアじゃねぇよ」
 アトラスの顔からにやついた笑いが消えた。剣呑なナイフに似た銀色の視線を、アレンは動じず受け止める。
 酷く惑わされはしたが、冷静に振り返ることの出来る今ならば、ハーゴンの作り出した幻影が悪趣味な模造品であることがはっきりと分かる。町の賑わい、城の様相、風の匂い、それら全てを完璧に模倣しても、人の魂まで創造することは適わない。それは精霊神ルビスのみに許された神の御技なのだ。
「俺の親父はハーゴンに頭下げる奴じゃねぇし、他の奴だって仲間が床に封じられてへらへら笑ってる奴らじゃねぇ。あんなのはハーゴンが作った出来の悪い偽もんだ」
「分かった口利いてんじゃねぇよ。これからのローレシアがどうなるかなんざ、お前に分かるわけねぇだろ」
「分かんだよ。お前とは違う」
 アレンはとん、と胸を叩いた。真実のローレシアとハーゴンの幻が違うように、アレンとアトラスもまた秘めた想いの質が違う。
「ローレシアは俺の故郷だ。あそこがどんな国でどんな奴が住んでるか、お前より俺の方が分かってんだからな」


 唸りを上げて振り下ろされる刃を、アレンは身を沈めて避けた。
 息吐く間もなく繰り出される攻撃を掻い潜りながら、アレンは稲妻の剣との距離を目算した。横っ飛びに跳躍して一気に距離を縮めようと目論む。
「させねぇよ!」
 アトラスが剣を一閃させた。剣は衝撃派に高々と跳ね上げられ、更に距離を置いた地点に垂直に突き刺さる。舌打ちするアレンと稲妻の剣との間に、すいと黒い影が躍りこんだ。
「お前の墓標にちょうど良くね?」
 光が斜めに迸るとほぼ同時、肩に激痛が走った。反射的に退いたお陰で致命傷は免れたが、少なからぬ量の血液が床を染めていく。回復の術を持たぬアレンには手の施しようのない深手だ。
 膝をついたところで傷口を蹴られる。貫くような激痛にも声を上げなかったのはせめてもの矜持だ。
「人間の分際で、俺に直に手を下されるなんて光栄に思うべきだぜ」
「……偉そうによ」
「偉いんだよ。俺は神様だからな」
 くつくつと喉を鳴らすアトラスに胸倉を掴み上げられる。足先が天井を離れたと思う間もなく、背中から鏡面に叩きつけられた。
「かはっ」
 衝撃で内臓が燃え、逆流した熱が血塊となって口から迸った。割れた鏡面に引っかかった衣服が傾ぐ肉体を支えるが、結局重みに耐え切れずに裂けてしまう。アレンは壊れた人形の如く床に崩れた。
「……」
 目蓋を閉じる力もない。不死鳥の加護を宿した青い瞳は、生気を失ってガラス玉のように無機質だ。
「じゃあな。安息の地に行くまで迷うなよ」
 ぶつぶつと途切れる意識の中で、アレンはアトラスの声を聞いた。その音に縋るように、闇に沈み行く意識を浮上させる。
 木偶のように打ち捨てられていた指先にふと力が通じた。ぴくんと跳ね上がった手の動きに刺激されたか、瀕死の肉体が最後の足掻きを始める。碌に痛みも感じなくなった腕を立て、上半身を起こすと、何処から滴り落ちたか分からぬ血がぽたぽたと床を汚した。
「しつけぇな」
 アトラスの声にあからさまな苛立ちが混じった。楽に死なせてやろうと情けをかけた獲物の執拗さに気分を害したようだ。
「そのまま寝てりゃ楽になるんだぜ」
「……死んでる場合じゃねぇからな」
 床に突き刺さった稲妻の剣に手をかける。両手で柄を握り締め、それを杖代わりにしながらアレンはよろよろと立ち上がる。
 ぐっと力を入れたその時、アレンの気合に反応した剣が稲妻に似た光を発した。気も生命力の一部だから、効果は小さくとも魔力に似た働きを示す。剣に施されたギガデインの詠唱が、力を得てささやかな光を発したのだ。
「……ギガデインか?」
 白々と染まるアトラスの顔が嫌悪に歪んだ。
「神々の大戦の時、シドー様と俺らを冥界に叩き込んだのがそれだ。俺らを封じたのに比べりゃ目くそみてぇな力だが、それでもその光の忌々しさに変わりはねぇな」
 アトラスは僅かに視線を落とした。滲む殺気が痛みを伴う冷気となって急速に室内を満たしていく。
「お前もその剣もいい加減目障りだ。失せな」
 圧倒的な存在が一歩、また一歩と近づいてくる。重たい足音が響くだけで恐怖が湧き上がり、微かな呼気が聞こえるだけで絶望が心を覆う。人の子の分際で神に対峙することがどれ程無謀であるのか、今更ながらに思い知らされたような気がした。
 だがアレンは逃げようとも投げ出そうとも思わなかった。力を持たぬちっぽけな存在にだって、命を賭して剣を振るう理由がある。
 邪神の一打を辛うじて避けると、アレンは何の策も弄さず、真正面からアトラスに飛び込んだ。不規則に光を明滅させる剣を、右へ左へ力の限り振り回す。限界を超えた腕は痺れ、感覚を失った足は縺れた。それでも血と汗の混じったものを滴らせながら、アレンは本能の赴くままに剣を振るい続ける。死にもの狂いの表現が相応しい、狂気に満ちた連続攻撃だ。
「野郎っ」
 アレンの猛攻を防ぎながら、アトラスは唸り声を上げた。死にかけた虫が羽音うるさく挑みかかってくることに激しい怒りを顕わにする。だが悪鬼の如き面に滲み出す動揺を、アトラスが隠しきれていないのは事実だった。
 永久を得た神に滅びを理解することは難しい。限りある命は、死を覚えた時より強く鮮明な輝きを発する。崖っぷちに追い込まれて力を爆発させる存在、それが人間なのだ。
「俺はローレシアに帰るんだ」
 耳を劈く音と共に、稲妻の剣が破壊の剣と激突した。
「そこで生きてくって決めたんだ。俺の国を、お前なんかの好き勝手にさせてたまるかよ!」
 裂帛の気合が一際大きな輝きを産む。白き光は殺傷能力こそ皆無なものの、邪神を怯ませる力を秘めていた。嘗ての敗戦が過ぎったか、完璧だったアトラスの太刀筋に僅かな遅れが生じる。
 アトラスの動きが鈍ったのは一瞬だが、勝敗を決するにはそれで十分だった。破壊の剣がアレンの首を刎ねるより早く、稲妻の剣がアトラスの胸板を貫く。邪神の背中から突き出した刃が、誇らしげに光を放った。
「かっ……」
 アトラスがアレンの肩を掴んだ。今際の足掻きを込めた指先が、遠慮なく傷口を掻き毟る。息も止まる激痛が全身を貫いたが、アレンは剣を握る手を緩めなかった。
「てめぇ……っ!」
 しろがねの双眸がかっと見開かれた。喘ぐように半開きになった口元から、大量の血液が滴り落ちる。
 やがて邪神の肉体からゆっくりと生気が抜け始めた。闇の衣から作られたと雖も、命ある肉体に変わりはない。心臓を貫かれては生命活動を停止する以外なかった。
「……おっかねぇな、人間は。普段は弱いくせに、時々狂ったみたいな力を出してきやがる」
 不意にアトラスの唇が自嘲を帯びて歪んだ。濃い死の影に覆われた面に、しかしまだ諦観の色はない。
「これで終わりと思うな……俺は諦めない。今度こそお前を叩きのめして、シドー様にこの世界を捧げる」
「何度来ても俺の勝ちだよ」
「どうかな」
 アトラスはにやりと笑って、破壊の剣を放り投げる。刃先が床に触れるより早く、アトラスは黒い光となって大気に散った。
 主に取り残された破壊の剣が、血に塗れた戦場跡で不吉な輝きを帯びる。刃を飾るしゃれこうべは、何かを思案するように虚空を見上げていた。