魔術の鏡と呪われし姫<1>


 ロトの勇者の愛娘が嫁いだムーンブルクは、千年の歴史を持つ古い王国だった。
 満月の夜に降臨した精霊神ルビスが、海をさすらうテパ族に建国の啓示を授けたのが始まりとされている。月と海に祝福された人々は陸に上がり、千年の歳月をかけて巨大な王国を作り上げたのだ。
 城を中心として、半月状に広がる城下町は人口二百万を超える大都市でありながら、早い時期から上下水道を始めとした衛生設備が完備されていた為、川に汚物が捨てられたり道に糞尿がばら撒かれたりすることはなかった。清潔な城下町では海の文化と陸の文化が互いへの尊敬を伴って融合し、他所では決して見られぬ独特の景観を作り上げていた。
 だが今実際にムーンブルクを訪れたところで、遠く異国にまで轟いた美観を思い描くことは出来ない。
 腐った大地からふんぷんたる悪臭が立ち込め、空気を重く淀ませている。清水を湛えていた池や川は汚され、紫色の奇妙な液体がぼこぼこと泡を立てている。巻貝を模した街灯、波飛沫を思わせる橋の欄干、人魚を象った噴水などはめちゃくちゃに破壊され、無残な瓦礫の山となって風に晒されていた。
 それは一国の王子であるアレンとコナンが、生まれて初めて破滅という現実を目の当たりにした瞬間だった。
「……ひでぇな」
 アレンは鼻に皺を寄せて吐き捨てた。アレンの数歩後を歩いていたコナンは足を止め、半分以上欠け落ちた女神像の頬に手を添える。
「破壊を喜びとする魂は存在そのものが罪だ。尤もそのように愚かしい存在だからこそ、魔物などに生まれて来るんだろうが」
 鋭く囁いてから、コナンは足元に視線を落とした。光の粉を塗したかのような石片が汚泥に塗れている。
「これは恐らく月の泉の成れの果てだね。泉から月光が弾けて夜空を彩る様は、吟遊詩人さえ言葉をなくすほど美しかったそうだ」
 初めて聞く泉の名にアレンが首を傾げると、コナンが懇切丁寧に補足を始める。
「テパ族が上陸して最初に作った精霊の宿り場……要するにムーンブルクの中核となった場所だ。だがもう、ここからは精霊の息吹も波動も感じられない」
 国を守っていた精霊は、民と運命を共にしたということだ。コナンは苦い表情を持ち上げ、虚空に視線を走らせた。
「感じられないといえば土地の魔力もそうだ。ムーンブルクの大地には魔力が満ちていたはずだが、それすらきれいさっぱり消えてしまっている」
「何で魔力が消えちまったんだ?」
「正直言って分からない。……一体あの日、この国で何が起こったんだ?」
「……」
 暗澹たる想いで見回す王都には、生きた人間はおろか死体すらなかった。民の多くは大地に襲われ、それを逃れた生き残りは魔物に食われたのだろう。骨一片、髪一筋残すこと許されず、ムーンブルクの人々は地上から完全に消滅してしまったのだ。
 死の静寂に満ちた廃墟と知りながら、それでも二人が危険を冒してこの場所にやってきた目的は、王女の消息を掴むことに他ならない。
「んで、これからどうする?」
 アレンがコナンを振り返る。コナンは星の瞬き始めた空を見上げ、ふうと溜息を一つついた。
「そろそろ暗くなる。今晩は何処か適当なところに泊まって、明るくなってから改めて捜索しよう」
 夜闇では捜索の効率も悪いし、何より魔物に襲われると厄介だ。魔物の大半は夜行性で、日の入りの頃から俄然活性化する。ここは無理を押して活動するより、十分に体を休めて明日への英気を養うのが得策だろう。
 アレンはきょろきょろと辺りを見回して、比較的しっかりとした建物を指差した。
「んじゃ、あそこの家借りるか」
 民家らしきその建築物は、罅こそ入っているものの頑丈な柱に支えられ、ちゃんと壁と屋根があった。雨風さえ凌げれば恩の字だから、多少の隙間風は我慢出来る。
 コナンが聖水で魔物避けの結界を張る間、アレンは家の中を調べた。平穏な日常生活が突如断たれた悲劇を物語るように、戸棚にはかびたパンとチーズが残され、テーブルには永遠に完成しない編み物が放り出されている。
「……この家に住んでいた人も、当たり前の日常を一瞬にして奪われたということか。何もかもが突然過ぎて、死んだことも受け入れられずにいるかもしれない」
「受け入れられないとどーなるんだ?」
「迷える魂として死に場所をさまよい続ける。もしかしたら今晩にでも僕達の前に出てくるかもしれない」
「ばーか、幽霊なんているかよ」
 湿っぽいソファを動かして空間を広げ、床に直接毛布を引いて寝床を作る。テーブルは椅子がないと使いづらいので足を全て切り落とし、その上に保存食を並べた。黒パン、干し肉、そして葡萄酒。決して豪華な食事ではないが、素朴な味が空っぽになった胃を優しく満たしてくれる。
「僕の分まで食べないでくれたまえ。全く君の胃袋と来たら底なしを通り越して異次元にでも繋がっているんじゃないのか」
 持ち歩いているこだわりのゴブレットに葡萄酒を注ぎながら、コナンが柳眉を聳やかせる。
「食われたくなかったらさっさと食えよ」
「……全く、がつがつとしていて美しくない」
 アレンは水筒を取り、温くなった水を喉に流し込んだ。葡萄酒は渋いし苦いし眠くなるので好きじゃない。
「なぁなぁ、ナナって奴さ、王女っつーくらいだから女なんだよな?」
「当たり前だ。乗馬って馬に乗るんだよな? というくらいマヌケな質問をしている自覚はあるかい?」
「う、うるせぇなっ」
 アレンは固いパンを口に放り込んでむしゃむしゃと咀嚼した。
「そいつが見つかったらさ、やっぱ一緒に旅すんだろ?」
「彼女がロトの末裔であり、雨の血筋の人間である以上は。勿論、最終的に旅に出るかどうかを決定するのは彼女自身だが」
 コナンはゴブレットをテーブルに戻して小さく首を傾げた。
「……少し前から思っていたんだが、君はひょっとしてレディが苦手なのか?」
「苦手ってほどじゃねぇけど。何考えてんだか良く分かんないじゃん」
 唇を尖らせるアレンの表情は真に幼い。図体は人一倍でかいくせに、中身はまだまだ子供のままだ。
「分からないからこそ興味が沸くんじゃないか。レディ達の愛らしさ、かわいらしさが理解出来ないなんて君は人生の九割を損している」
「でっかいお世話だ」
 アレンはぷんとむくれて窓の方を見た。やや沈黙を置いて、口中でぼそりと呟く。
「……あんなに追い回されたら誰だってうんざりするっての」
「ほう……。君を追い回すようなレディが国にいるのか。夜も長いことだしその話を詳しく聞かせてくれないか」
 独り言のはずだったのにコナンにしっかりと聞き捕らえられてしまった。しんと静まり返った廃墟の空気は、微かな囁きですら遜色なく響かせてしまう。アレンは一瞬にして耳までかあっと赤くなり、ぎくしゃくと首を横に振った。
「お、お前に関係ねぇだろっ」
「勇者の縁に結ばれた仲間に向かって関係ないとは酷いな。君の秘密は僕の秘密、僕の秘密は僕の秘密だよ。さあさあ、大いに語ってくれたまえ」
「……俺もう寝るっ」
 頭から湯気を立ち上らせながらアレンが荷物を引っ掴む。そのままずかずか部屋を出ようとするアレンの背にコナンの声がかかった。
「何処へ行くんだ?」
「歯磨きだよっ。寝る前に歯磨きしねぇと虫歯になっちゃうだろっ」
「……君という人は、躾がなっているんだかなっていないんだか良く分からないな」
 コナンが不思議そうに呟くのを尻目に、アレンは傾いだドアを乱暴に閉めた。


 夢のない眠りに落ちていた意識が、ふと浮かび上がった。
「……ん」
 灯りを落として寝たはずなのに辺りが妙に明るい。目の前の壁は鮮やかなオレンジ色に染まっている。
 大方詩だの刺繍だのを綴るためにコナンが活動しているに違いない。彼曰く、芸術家は夜間活動する姿こそが美しいらしい。
「……おい、ランプ消せよ」
 五秒待っても応えは上がらない。ランプが消える気配もない。
「眩しくて眠れねぇんだって……あれ?」
 がばりと跳ね起きたアレンはその体勢のまま固まった。コナンは毛布に包まってすやすやと眠っており、枕元のランプは二つとも消えている。
「……」
 アレンは傍らの剣を引き寄せながら、光源の方に顔を向けた。
 部屋のほぼ中央、淀んだ暗がりに火の玉が浮いている。地脈を流れるマグマの赤から夜空を切り裂く流星の青まで、様々な炎の色を宿すそれは右に左に揺れながら、アレンとコナンをじっと観察しているようだった。
 アレンは火の玉を見据えたまま、腕を伸ばしてコナンの肩を乱暴に揺する。
「おい、おい……起きろ、コナン!」
「う……ん、レディ達、そんな風に一度に詰め寄られても困るな。君達の小鳥のさえずりのような声を、一人一人ゆっくり聞かせておくれ。……え? 順番待ちなんて出来ない? いやはや、せっかちなレディ達だな、ハハハハ……」
「訳分かんねぇ寝言言ってねぇでさっさと起きやがれ!」
 力いっぱい背中を蹴ると、コナンの体は毛布を巻き込みつつごろごろと転がり、向こう側の壁にがつんとぶつかって止まった。
「いきなり何をするんだ、失敬な!」
 流石に目が覚めたようだ。大理石のような顔を怒りの朱に染めて、コナンがずかずかと詰め寄ってくる。
「人が眠っているところを蹴り起こすなんて、君は一体どういう教育を受けてきたんだ? 君みたいな野蛮人と同じ血を引いているかと思うと、僕の繊細な心はタワシで擦られるような不快な痛みを……」
「いいからアレ見ろよ、アレ!」
 アレンが剣先で指し示した方向にコナンはちらり視線を送る。一旦再びアレンを睨みつけた瞳が、次の瞬間ぎょっと火の玉を振り返った。
「……何だあれは」
「知るかよ。起きたら浮いてたんだよ」
 アレンは膝をついたまま剣を構え、コナンも壁に立てかけてあった武器を手に取る。眼光鋭くする二人の前で、不意に炎の玉が大きく揺らめいた。