魔術の鏡と呪われし姫<2>


 球体だった炎が伸び、縮み、ひしゃげ、たわみ、飴細工のように多様に変化しながら次第に何かを形作っていく。
 炎はやがて背の高い、すらりとした男の姿を取った。踝まで覆う豪勢な長衣を纏い、どっしりと重厚な趣のあるマントを羽織っている。額には月を模した王冠を頂き、右手にはグリフォンを象った杖を携えていた。
「ローレシアの王子よ……サマルトリアの王子よ。よくぞこの廃墟へ、嘗ての我が王国へと参られた」
 炎の男が喋った。バリトンの良く効いた壮年の男の声は、鼓膜を通してではなく頭に直接響くのだ。
「……ムーンブルク国王陛下……」
 拝跪しようとするコナンに向けて、亡国の王は力なく手を翳す。
「国を守るべき立場にありながらみすみす魔物の襲撃を許し、先祖から受け継いだ土地を、城を、そして民を滅ぼしてしまった。無力な亡霊と成り果てた私にそのような礼は無用だ」
「恐れながら陛下に申し上げます」
 虚無感に彩られた制止に構うことなく、コナンはその場に片膝をついて完璧な騎士の礼儀を取った。
「……死せる魂は安息の園へと旅立つのが理です。陛下のご無念は痛み入りますが、この廃墟を彷徨われていても益することは何一つないと思われます。陛下をお守りしようとした民や兵士達のためにも、どうか一刻も早く安息の園への道をお探しください」
 芸術だ美だとひとりよがりに語る平生のコナンとは顔つきが違った。迷える魂を導こうとする姿は、なるほど彼は司祭なのだと改めて頷かせるほどの威信に満ちている。
「如何にも王子の仰る通り。一刻も早く安息の園へ赴き、ムーンブルクの民に頭を下げねばならぬというのに、たった一つの未練に縛られ続ける我が身が情けない」
「陛下のお心をそれほどまでに縛ることとは?」
「娘のことだ」
 炎が大きく揺らめき、紫を帯びた後青色へと変わった。
「娘の気配がムーンペタにあるのを知りながら、我が魂は死に場所に縛られて一歩この国を出ることも叶わぬのだ」
「やはり姫はご存命なのですね」
 力強く頷くコナンとは対照的に、王は悲しげにその目蓋を伏せる。
「ただ娘の命を覆うように、忌まわしい魔力の波動をも感じる。恐らく娘は、その力によって姿を変えられているのだろう」
「姿を?」
 コナンが細く尖った頤に掌を当てて考え込む。長い睫の影がゆらゆらと指先に躍った。
「トランスフォームか……」
「とらん……何だって?」
「君のつるつるした脳味噌にも分かりやすいように言うと、形状変化。この場合姫は……そうだな、犬や猫に変えられているかもしれないということだ」
「……何でんなことになってんだよ?」
「あの日ムーンブルクに攻め入った男の名はハーゴン……十年前に死んだはずのサマルトリアの王弟だ。コナン殿下、その方の叔父に当たる男は自らを破壊神シドーの大神官と称した」
 アレンの問いを引き取りながら、王はコナンに複雑な視線を向ける。人が持ちうる全ての感情が次々と炎の面を通り過ぎた。
「ハーゴンは娘を殺そうとしていた。彼もまた雨の血筋なれば、二つの力が生み出す奇跡は良く心得ているはず。娘を殺し、この世界から虹の奇跡を葬ろうとしたのだろう」
「え?」
 ハーゴンが雨の血筋の末裔だという事実を、アレンはこの時初めて知ることとなった。
 一体今から十年前、サマルトリアで何があったのか。死んだとされた勇者の末裔は、何を望んで破壊神の僕と成り果てたのか。反射的に見やったコナンの顔は彫像めいていて、そこから複雑に絡み合った運命の軌跡を読み取ることは出来ない。
「しかし叔父上……ハーゴンは結果的に姫を殺さなかったと?」
「殺さなかったのではない、殺せなかったのだ。偉大なる守護がハーゴンから娘を救ってくれたようだ。だがもし娘が生きていると知れば、ハーゴンは何らかの手を打とうとするだろう」
 亡霊はおもむろにそう言って一つ瞬きをした。鷹のように鋭い王者の視線が二人の少年を交互に見る。
「太陽の血筋の王子達よ。雨の血筋たる我が娘を助け、共に奇跡の虹を架けてはくれまいか」
 異国の王に低頭されて無下に振舞うわけにもいかず、アレンはかりかりと後頭部を掻いた。
「それでそいつ……じゃなかった、王女は何に姿を変えられてるんですか?」
 炎の亡霊はゆるゆると首を横に振る。青々と輝く、しかし温度のない火の粉が木の床に落ちた。
「……何に変えられたか分からないとなると探すのはかなり困難だな」
「だよなぁ。ハエになってるかもしれねぇしな」
「おお! ナナ! かわいそうに!」
 娘の哀れな姿を思い描いたか、王が突っ伏して号泣を始める。やれやれと嘆息したコナンがじっとりとした半眼をアレンに向けてきた。
「少しは言葉に気をつけたまえ。愛する娘がハエになっているかもしれないなどと聞かされた王のお気持ちをどう考える? ハエ叩きで無様に潰されたり、ハエ取り紙に捕まって干からびたりするあのハエだよ? 美しいか美しくないか、語るまでもない存在だ」
「……お前の方がひでぇこと言ってると思うんだけどさ」
「それは君の気のせいだ」
 コナンはふっと前髪を払うと、伏したままの王に真摯な声で囁いた。
「姫は必ず我々がお助けします。陛下はどうか心残りされることなく安息の園へ。光溢れる世界からこの世界の行く末をお守りください」
 王は体を起こし、その形が崩れてしまうほど激しく揺らめいた。愛娘への想いと死者の理の狭間で激しく揺れ動いているのだろう。長く冷たい沈黙を置いて、苦渋に満ちた王の選択が二人の中に響いた。
「……娘のこと、身を伏してお願い申し上げる」
 深々と頭を垂れてからコナンは続けた。
「ところで国王陛下、姫の変化を解く方法にお心当りはないでしょうか。ムーンブルクは魔術の国、それに関する知識や情報が数多集う場所だと伺っておりました」
 この手の話になるとアレンは完全に専門外だ。彼は毛布の上に胡坐を掻き、コナンと王のやり取りを見守ることにした。
「我が国には古くから伝わる神の鏡があった。如何なる魔術を用いて姿を変えても、たちどころに真実の姿を暴き出すという女神の名を冠した鏡だ」
「……ラーの鏡ですね」
「なあ、なあ。ラーの鏡って何だよ」
 アレンがコナンの服を引いて尋ねる。
「かりそめの姿を暴く魔術の鏡だ。嘗てロトがその鏡を用いて、国王に化けた魔物の姿を暴いたという……というか君だってそれくらい知っているだろう? ロト伝説なんて乳母から耳が腐る程聞かされているんじゃないのか?」
「耳が腐る前に通り抜けていくから覚えてねぇよ、そんなもん」
「風通しのいい頭だ」
 むっと唇を尖らせるアレンを尻目に、コナンは再びムーンブルク王へと向き直った。
「その鏡は今何処にあるのでしょう?」
「三年前の感謝祭の折、東の湖に精霊神ルビスを祭る祠を立てた。神にお返しする意味を込めて鏡はその祠に奉納してある」
「承知いたしました。必ずやそれを入手し姫を救ってご覧にいれます」
「……ありがとう……」
 虚像は立ち上がった。風もないのに炎がぶれ、ゆっくりと、けれど確実にその輝きを失っていく。空気に溶け込んでいくムーンブルク王を、アレンとコナンは瞬きもせずに見送った。
 やがて炎がすっかり消えた時、二人はムーンブルク王の最期の言葉を聞いた。
「ロトの子孫に精霊神ルビスの祝福あれ。新しき勇者達の手で人の未来が築かれんことを。伝えられし二つの加護が世界が光を取り戻さんことを」


 翌朝ムーンブルクの廃墟を出発した二人は、魔物との戦闘を交えながら東に向かう。
「……姫はザラキを浴びせられたのかもしれない」
「ざらき?」
 奇妙な響きを持つその言葉を、アレンは口中で反芻する。
「前にも言ったろう、伯父上が禁術を復活させたと。ザラキは命を魔力に変換することなく、相手の肉体に注ぎ込む死の術……破壊神シドーに属する魔術だ」
 降り注ぐ木漏れ日を浴びてコナンの瞳が淡い水色に閃く。自らの瞳にも同じ光を宿らせながら、アレンが小さく首を傾げた。
「……命注がれたら元気になるんじゃねーの?」
「残念ながら命の質っていうのは人それぞれ違うんだ。例えば君の命の色が黒、僕の命の色が白とする。これを絵の具のように混ぜ合わせたらどうなると思う?」
「灰色になるに決まってんじゃん」
「ご名答。つまり僕でも君でもない形に歪められるということだ。そうして歪められた命は、元の姿に戻るためのエネルギーを必要とする。大抵の場合、命が目をつけるエネルギー源は最も近くにあるもの……それが何だか分かるかい?」
「……分かんねーけど」
「自分の肉体さ」
 コナンはこれ以上ないというくらい、演技めいた仕草で肩を竦めた。
「肉体はエネルギーを搾り取られて、一瞬にして崩れ去る」
「えげつねぇなぁ」
「同感だ。自分の命に体を食われるなんて、これ以上の皮肉はそうそう浮かぶものじゃない」
 命そのものを武器とする魔術は、邪神の恩恵を受けた者のみに許される。精霊ルビスの教えでは、生命は神のみが扱える絶対不可侵な存在だとされていた。
「そんな術をかけられたかもしれないのに、何でナナは生きてるんだよ?」
「そうだな……」
 心持ち視線を落として考え込むコナンの顔は、老成した哲学者を髣髴とさせた。
「姫にかかった力が何らかの誤作動を起こして、命ではなく肉体に作用したとも考えられる。尤もなぜそんな現象が起きたかまでは、今の時点では情報が少なすぎて分からない」
 アレンはむうと眉を寄せる。難しくて頭がこんがらかってきそうだ。
「なんにせよ、こんな不自然な状況はそう長く持たないはずだ。早く姫を……」
 そうコナンが言いかけた時、唐突に木々が切れて視界が開ける。彼らの前に目指していた王家の湖が姿を現した。